幕間2 夢幻の映画館

 夢を見ている。

 多分これは夢だ。暗い夜の海の底に揺蕩うような不確かな質感で、僕はモナリ座の前に立っている。月の光も届かない水底にただひとつ遺された場末の映画館を見上げた。

 扉に触れると、重厚なガラス戸はひとりでに開いて僕を迎え入れようとする。耳の奥で、とぷりとぷりと遠い波の音がした。

 中に入るかどうかを迷っていると、色を持たない魚が僕の脇をすり抜けて受付の向こうへ去っていく。長い鰭は僕を誘うように揺れ、廊下の奥へと消えていこうとする。

 待って、と口を開こうとして、声は出なかった。

 伸ばした手は重たい水を掻き、僕は透明な映画館の中を泳ぎ出した。


 物陰で潜む白い深海魚が、僕がいることで生まれた水流を嫌いゆっくりと去っていく。明かりの消えた自販機の足元では、そんな行き場を失くした魚たちが僕のことなど気に留めずにとぐろを巻いていた。その行方を目で追い、僕は受付を通り過ぎた。

 固く閉じられた一番シアター、二番シアターの扉を横切り、廊下の果てへ泳ぐ。

 水没したモナリ座はただただ静かで、孤独だった。

 鰭を追い辿り着いたのは、僕の良く知る三番シアターの扉。ほんの少し開いた扉から光が漏れている。上映中なのかもしれない。

 戸の隙間を滑りこんでいった魚に惹かれるように、ドアノブを引く。

 暗い水底に差した一条の光の中へ飛び込んでいく。

 褪せたベルベットの階段を浮上すると、巨大なスクリーンは暗い海を湛えて佇んでいた。画面と劇場はそれぞれに滲み、微かな泡に揺れ、まるで銀幕の向こうと客席が繋がったかのように錯覚させる。

 遠くから、ゆったりと白い何かが泳いでくる。

 近付いて、ようやくそれがシロナガスクジラだと分かった。三十メートルはあるだろうか、巨大な海の覇者は人間の僕のことなど眼中にないように銀幕をすり抜け、三番シアターをぐるりと一周する。

 その尾鰭ひと掻きに、いくつ心臓の拍動を乗せているのだろう。悠然と泳ぐシロナガスクジラに見惚れ、しばし放心した。

 ふと客席に目を遣ると、同じように見上げる少女の姿があった。揺蕩う黒髪で表情は見えない。彼女が白い手を伸ばすと、鯨はそれに応えるように鼻先を向けた。

 少女と鯨は、無音の深海で唯一互いを認知し、触れあっている。

「君は、誰?」

 水の中で吐いた僕の問いは、ただの泡となって劇場の天蓋へ吸い込まれていく。

 気付いた少女は僕をゆっくりと振り返り――


 ――――

 ――


 目が覚めるとそこは自室のベッドの上だった。

 重たい身体を起こすと、未明の空は薄明りを湛えて朝を待っている。海から引き揚げられたばかりだとでもいうように、全身はずぶ濡れだった。

 何だ、何が起こったんだ。起き抜けの頭は現実と幻の間に落としてきた何かを思い出そうとし、しかしその何かは海原に角砂糖をさらすように一瞬で溶けて消え、何も思い出せはしなかった。

 どこか知らない場所で、何かを見聞きしたような感覚だけは残っているのに。

 耳の奥で、深い水底の音だけが静かに鳴った気がした。


 僕はきっと、夢を見ていた。

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