Scene.24 老執事の記憶

 昼下がりに実家の軽自動車を駆り、田園風景を抜けていく。

 緩くかけた冷房がぼんやりした頭を撫でて、危うく間違った角を曲がりそうになった。

「この次を曲がってしばらくまっすぐ、だったな……」

 道に迷いそうでも、向かうべき場所は決まっている。


 琳太郎の話の真偽を確かめないと、僕の知りたいことのすべては明らかにならない気がした。

 すべて――すなわち、モナリ座で死んだという誰かが、くじらちゃんに繋がるかどうか。

 古新聞やネット検索では有力な情報は何ひとつ出てはこなかったが、本当に誰も死んでいないのか。そうでなければ、何者かによって揉み消されたのか。まだ揉み消したと断定するのは危険だ。

 だが事情を知る人間がいるとすれば……それは後にそこに映画館を建てることになる森岡正一、ひいてはその周辺の人間だと考えるのが妥当じゃないだろうか。

 赤信号で止まり、ふと助手席に目を遣る。前回と違い今日は隣にあの男はいない。

 くじらちゃんの事情を加味して聞き込みするのに、彼がいては踏み込んで聞けない気がしたからだった。勘の良い彼なら、話の途中で気がつくだろう。僕が何のためにあの映画館について調べているのかを。間違っても、勘づかれて彼女が消されるようなことがあってはならない。

 汗ばんだハンドルを握り直す。今日はひとりでも、聞きたいことを聞くつもりでいた。


 ようやく目的地に着くと、僕は道の端に車を停めた。庭先を掃く男性を見つけ、車を降りる。

 こちらに気付いた作務衣の男性――塩見さんは、掃除の手を止めて顔を上げた。

「おや、貴方は」

「すみません……今日はひとりで」

 頭を下げた僕に彼は少しだけ意外そうな顔をして、しかしすぐに相好を崩した。突然の来客にも動じないのは流石だ。

 過去のモナリ座について聞くには、この人を置いて他にはいない。

 ただ今回は真実を知るための頼みの綱、ではなかった。

「今日は聞きたいことがあって……立ち寄らせてもらいました」

 晩夏の風が、蝉の声をさらって僕らの間を吹き抜けていく。

 僕が明らかにしたい事実を、彼は話してくれるだろうか。



「映画館が建つ前のあの場所で、起こった事件……ですか」

 突然の来訪にも拘らず、塩見さんは快く客間へ通してくれた。前回同様よく冷えた麦茶に迎えられる。

「はい……すみません、急にお邪魔して変なことを伺ってしまって」

「私にはお力にはなれそうにも……申し訳ございませんが」

 茶を出し終えた盆を抱えて座した彼はゆるゆると首を振った。深い皺の奥の瞳は嘘を吐いているようには見えない。

「琳太郎から聞いたんです。彼の母が、映画館ができる前にあそこで人が死んだと」

 駄目元で食い下がった僕の言葉に、老いた目元がぴくりとだけ揺れる。

 ほんの一瞬のことだったが、表情ひとつ変えない彼にとって、それはもはや肯定と同じことだった。

 やがて麦茶のグラスに水が伝う頃、視線を落とした塩見さんはようやく重い口を開いた。

「そうですか、三香みかさまが……」

 三香、は恐らく琳太郎の母親のことだろう。みるみるうちに彼の眉間に皺が寄るところを見るに、親族間で囁かれてきた単なる噂話、という趣ではなさそうだった。

「それじゃ……」

「人の口に戸は立てられないということでしょうかね……」

 膝に置いた丸盆を握り直し、塩見さんは背筋を正して口元を結び直した。

「先程は大変失礼致しました……それほどに、あの件はわたくし共にとって内密に、それこそ墓場まで持っていくべきものだったのです」

 項垂れる老執事の告白に、心臓が跳ねる。やはり塩見さんは何か知っていた。

「仰る通り、モナリ座が今の場所にできる前――廃ビルだった当時に、人が亡くなっております。それも……自殺でした」

「……随分と言い切るのですね」

 冷たい汗が背中を流れるようだった。

 言葉のひとつひとつをゆっくり飲み下すのに、僕は慎重に訊く。

 塩見さんはまだ何を知っているんだ。

「遺書もありましたし……わたくしとて、無関係というわけにはいきませんでしたから。なんせ――」

 ぽつりぽつり、と言葉を選びながら話す彼は最後を言い淀む。

 やがて一度引き結んだ唇が意を決したように発した言葉に、僕は言葉を失った。

「命を断ったのは、円さまの実の母親でしたから」



 息が止まった。

 それほどに、塩見さんの告白は思いもよらないものだった。

「それは……そのことは、芦峯さんは」

「……わたくしはお伝えはしておりません。しかし円さまのことです、既にご自身でお調べになっているかもしれません。知っている上で……何も仰らないのかも」

 塩見さんの告白に、互いに視線を畳に落とした。円さんの母親が、映画館ができる前の土地で自殺していた。

 僕らの間に横たわったその事実は重く、誰も二の句を継げなかった。開いてはいけない記憶の蓋を開いてしまったような気がしたのだ。

 縁側の外の蝉の声が、やけに遠く聞こえる。

 しばらく閉口したのち、僕は何とか言葉を紡ぐ。

「先日その……大変失礼かと思いますが、芦峯さんと森岡邸に忍び込みました」

「なんと……」

「盗みをしようというつもりはありませんでした……ただ、芦峯さんのお母さんの骨壺を取り戻そうとして、一緒に」

 塩見さんは顔を上げ、目を見張った。

 皺の奥の黒い瞳に語るように、僕は畳み掛ける。

「あれは何故あそこに……森岡家にあったのですか。自殺したというなら尚更……どうして墓を暴くような真似をしたんですか」

 そのひとつひとつを、塩見さんは瞬きひとつせず聞いた。いつかこうなると分かっていたようでもあった。つまり蓋をしていた過去が、洗いざらい白日の元に晒されるということを。

「骨壺の中を見て、円さまは何か仰ってましたか」

 細く息を吐き出しながらそう言って、塩見さんは固く双眸を閉ざす。盆を持つ手は微かに震えていた。

 特には何も、と告げたが、塩見さんは両手で顔を覆う。枯れた指の隙間から漏れたのは、とめどない嗚咽だった。

「円さまの母親の命をすんでのところで取り落としてしまったのは、他でもないわたくしのせいなのです……ああ……円さま、お許しください……」

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