幕間4‐2 過ぎた願い

 私が旦那様の子を身籠ったと周囲に知れた時、屋敷中は大騒ぎになった。

 最初から隠し通す気でいたのだが、日に日に膨れる腹は隠しようがない。

 執事長の塩見さんからは叱責を受け、使用人仲間は汚いものを見る目で私を見た。そして何よりお嬢様方と、大奥様のお怒りは凄まじいものだった。

「若い身空を哀れに思って拾ってやったのに……恩を仇で返すような真似を」

「きっとお父様の遺産目当てね。汚らしい」

「半分だろうと私の子と血が繋がると思うと身の毛もよだつわ」

「早くその腹下ろしなさい」

 しかし普段なら耳を塞ぎたくなるような罵声も怒号も、私にはそよ風も同然だった。

 どんな仕打ちを受けようと、旦那様の愛だけは信じていられたからだ。

 世間体があるからと大奥様に押し込められた座敷牢のような蔵の中だろうと、旦那様と血の繋がった我が子は日に日に愛おしく、私は産まれてくるその日を今か今かと待ち侘びていた。

 旦那様はお優しかった。大奥様にお断りなく私の元へ訪れになっては「このような仕打ちになってしまい許してほしい」と仰ったけれど、私はやめてくださいと言って差し上げた。

 だって旦那様が頭をお下げになるのを許したら、まるで私が哀れな女みたいではないですか。私は幸せなんですから、そのようなお顔はなさらないで下さいな。褥の中でお見せになった優しい眼差しだけを向けてくださいまし――。



 産まれた赤子が男の子だと知るや、日和見していた連中も含めて大騒ぎになった。

 それは旦那様の実子がすべて女子だったからだ。大奥様が願ってやまなかった男児は、跡取りの欲しかった旦那様にとっても同じことだった。

 子供が産まれたら、親子共々人知れぬ田舎にでも叩き出されるはずだったのが、すっかり予定が狂ってしまったようだった。

 旦那様と三人で暮らせるだなんて、そんな大それたことは考えなかった。森岡家の後ろ盾などもなども期待せず、ただ我が子と二人で生きて行ければそれでいいと思っていた。旦那様と離れ離れになろうと、愛の証と生きていけるならもうそれだけで良かったのだ。

 しかしそうはならなかった。

 妾腹だろうと男児は男児ということで、子どもは取り上げられてしまった。

 どこか安心出来る場所へ里子に出す、と旦那様は私を慮ってそう仰った。そうでもしなければ、私と子を良く思わない者に殺されかねないからかもしれなかった。

 蔵へそれだけ伝えに来た大野さんは、やつれた私を見て目を背けた。

「夕日よ……すまない」

「大野さん、旦那様はなぜこの子の顔を見にいらっしゃらないのです。この子を愛してくれないのです。どうして――」

「……可哀想だが俺にはどうすることも出来ない……悪いが行方も教えてやれない。会いにも探しにも行かないと約束してくれ。君がこの子にあげられるものは名前だけにして欲しい」

 お優しい旦那様……私は許せるなら貴方と、円かなる家庭を持ちたかった。

 そして私の行き過ぎた願いを託してしまった子――円、貴方にも許して欲しい。身分不相応に願うばかりの醜い母を。何もできず貴方を手放す非力な私を。

 貴方が誰からも祝福される未来が、きっとあったはずなのに。こんな風に暗く黴臭い蔵で世を呪うしかなかった母親を、どうか……

「ねえお願い……また私を見付けて、円……」

 食い縛った歯の隙間から漏れた嗚咽とともに、乾いた唇に血が伝う。

 色白に産まれた円の、まだ開かない瞼に紅く口付けたのを最後に、最愛の子は手の届かない場所へ引き離されてしまった。



 同時に森岡家を叩き出されることになった私は、その最後の夜、大奥様の目を盗んで蔵に現れた旦那様に縋って懇願した。

「ああ旦那様……どうか、どうかもう一度だけ……私を愛してください。あの子を返してほしいとはもう申しません。金輪際、旦那様の目の前に現れないとお約束します。旦那様に愛された思い出を、この身体に刻み付けて生きてゆきたいのです。今度はきっと、女の子を産みますから。私一人で育てます。旦那様にご面倒はお掛けしないと誓います。どうか……どうか後生です」

 枯れたと思っていた涙が窪んだ眼からはらはらと流れる。旦那様の目にはどう映っただろう。哀れみか、蔑みか、それとも。


 蔵戸の細い窓から、白い月だけが私たちを見ていた。

 最後の願いは、聞き入れられた。



 ――――

 ――



 十月十日を経て産まれたのは、願い通りの女の子だった。誰にも知られない橋下で産まれた子は、記憶の限りではずっと泣いている。腹を空かせているのかもしれないが、私自身も何日も食べないままただ街を彷徨っている。このところ私の意識は安定しない。常にこの先どうして良いか分からない焦りがあり、理由の分からない怒りと悲しみに襲われ、突然強烈な眠気に襲われて路地裏で眠る。夢の世界と硬いアスファルトは地続きで繋がっていて、思考と世界が繋がっていくような感覚が超然として横たわっている。浮遊感を伴う視界で赤子を抱え歩きながら、私は多分もう駄目だという強い自覚だけがあった。

「ねえ……私があの人に愛され生きていく道は、あったのかしらね……」

 抱き寄せた娘は物を言わず、澄んだ瞳で私を見返した。

 初めて一緒に観た映画を、旦那様はまだ覚えていらっしゃるだろうか。辛く苦しい時代を共に生き延び、最期は鯨に生まれ変わろうと海に身を投げた男女を。何でもない悲劇でも、愛はあったというのに。

 いつの間にか、知りもしないビルの非常階段を上っていたらしい。眼下に人気のない街並みがあり「ああこの高さから落ちたら死ぬな」とだけ思った。

 時折吹く強い風が、私を柵の向こうへと追い立てる。

 月のない暗い夜だった。


 足場のない空へ迷わず踏み出そうとするのを、止める手があった。

 私の腕と肩を掴んだのは、壮年の男と大柄な男――森岡家の使用人である塩見さんと大野さんだった。暴れる私の腕から、強い力で赤子を取り上げられる。

 なぜ今更ここに現れたのだろう。なぜ邪魔をするのだろう。私はただ、

「私はただ――あの人と、円とこの子、皆で映画を観たかっただけなのに」

 一瞬訝しむように眉を顰めた塩見さんの手を振り払い、私は宙に身体を投げ出した。驚いた顔の大野さんが赤子を抱いたまま伸ばした手は、空を切って私に届かなかった。

 痩せた身体は重力に逆らわず落ちていく。良いのだ。どうせもう、旦那様にこの身を捧げた時には既に魂は堕ち穢れてしまったのだから。


 冷たい地表が黒々と近付いている。ようやく苦しみから解放される時が来た。


 さようなら、愛する我が子たち。

 そしてさようなら――私に人を愛することを教えてくださった旦那様。

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