Scene.32 エンドロールは波の音に消える

 すべての時が止まったかのような三番シアターで、突如スクリーンの亀裂から白い光を放つ鯨がゆっくりと姿を現した。

「なんだ……これ」

 思わず言葉を失うほどの美しい銀色のシロナガスクジラは銀幕を悠然とすり抜けて、眼下の生者も死者も意に介さず泰然自若として劇場の宙を自由に回遊する。三番シアターの天蓋を泳ぐ様は、さながら映画のワンシーンのようだった。尾鰭が水を掻くごとに、夕日遥の黒髪の濁流は夜の海に流されていく。銀幕の黒い海原は主を失くしたように凪いでいた。

 見上げた白鯨に、なぜか既視感があるような気がする。

「僕は、どこかで……」

 呟くのと同時に、どさりと何かが落ちる音がした。

 それは夕日遥が円さんを取り落とした音で、僕ははっとなって這い寄った。

「芦峯さん!!」

 肩を揺すって呼び掛けるが、眠るように目を閉じたまま彼は身動ぎひとつしなかった。失った血のせいか、元々白い肌が余計に青白い。

 髪を束ねていた紐は千切れてしまったのか、自慢の長い髪がばらりと解けて散っていた。

「ん……」

 何度目かの呼び掛けで頬が微かに揺れて、僕は安堵の息を吐いた。

 良かった……生きてるみたいだ。


 はっとして顔を上げると、夕日遥が呆然と立ち尽くしていた。先程まで暴れ狂っていたのが嘘のように髪束はすべて床に垂れ、さながら黒い水溜まりの中に立っているようにも見える。

 くじらちゃんはその棒切れのように痩せ細った身体を抱き締めてわんわん泣いていた。

「お母さん……思い出したよ、私……」

「あ……あ……」

 夕日遥はぶるぶる震え、とうとう崩れ落ちた。黒い両手で覆った顔からはぼたぼたと涙が落ちている。

 状況が呑み込めずに、ただ泣き崩れる亡霊ふたりを見ているしかない。

 目の前の女性は、円さんの母親ではないのか?

「くじらちゃん……のお母さん、なの?」

「うん……そう。全部思い出したよ、圭一。私の本当の名前も、私がどうやって死んだのかも」

 涙を拭い、顔を上げるくじらちゃん。

 抱き着いていた母親――夕日遥を真っ直ぐに見つめる。

「私……お母さんのこと探してて、ここに迷い込んで、死んじゃったの――いや、殺されたの。モナリ座に囚われていたお母さんに」

 彼女の告白に、心臓が止まるような思いがした。

「お母さんは私を殺したとき娘だって気付いてなくて……でも後になって気が付いて……ずっと後悔していたみたい。それこそ気が狂うくらいに」

 実の娘を手に掛けた……それはどれ程の苦痛を伴う悔恨だっただろう。

 命を奪い、しかし取り返しがつくものでもなく、ただ娘まで狂わないように記憶を奪って三番シアターに閉じ込めていることしかできなかったというのか。

 そんな――残酷な再会があっていいのか。

「気が狂って……私を閉じ込めたことも忘れて、色んな人をたくさん巻き込んで……」

「……で、俺に見つかったんだね」

「芦峯さん!」

 気が付いたらしい円さんがよろよろと身を起そうとしていて、僕はすかさず助け起こした。首を絞められた痕か、ミミズが這ったような赤黒い傷が痛々しい。

 苦しそうに咳き込んで、彼は亡霊ふたりを見上げた。

「君は……俺の妹みたいだね。初めまして」

「妹……!?」

「私の……お兄ちゃん……?」

 僕もくじらちゃんも驚いて目を見開いた。

 円さんは気に留めない様子で続ける。

「昨年の年末くらいかな……この辺りで人が消えるらしいって聞いてね、この辺を歩いてみても何も視えなくて……嫌な予感がしたんだ。ここで昔母さんが死んだことは薄ら知っていたから、まさかと思って……墓に行ってみたら骨も無いし、いざ骨壺を取り戻しても気配も無いし……驚いたよ。こんな映画館ごと、俺でも視認できないほど巧妙に隠れていたなんてね……いや、」

 円さんは一気に喋りすぎたように息を整えた。

「生前から願い続けた理想の映画館の幻想を作り上げ、家族全員が揃うまで通りかかる人々を手当り次第巻き添えにしていた、の間違いか」

 あまりに唐突な暴露が先にあったせいで何も内容が入ってこない。堪らず僕は「ちょっと待ってください」と横槍を入れる。

「全然着いていけてないんですけど……妹って……」

「ん? だってほら……圭一くんも見ただろう。骨壺に入ってた手紙に」

 そう促され、改めて手紙の内容を思い出す。

 ――あなたと、子供たちと、あの日みたいに映画を観に行きたかった

 ようやく理解が追い付き、すべてが繋がった。

 そうか……

 あの時は深く考えなかったが、「森岡正一と円さん」という意味でとるには少し不思議な文章になる。また森岡家の妾であり家を追われた彼女が森岡正一の実子と円さんと一緒にいることを望んだはずもない。

 だから森岡正一と夕日遥との子供はひとりじゃなかったということか。

「俺も手紙を読むまでは知らなかったよ。弟か妹がいるだなんて思いもしなかった」

 溜息と共に呟き、円さんは頭を振る。

「……母さん、会いたかった我が子ふたりに揃って会えた気分はどう?」

 静寂の間にぽたりと新たに落ちた音は、円さんの血か、それとも母親の涙か。どちらもだったかもしれない。こうなる前に、こんなに何もかもが手遅れになる前に会えていたら。

 静かに涙を流す夕日遥を正面から見ていられず、僕は思わず目を伏せてしまった。

 ただひとり……彼女の手によって殺められた少女だけは、母親の背を優しく撫でて寄り添った。

「お母さん、寂しかったんだよね……大丈夫、私も一緒に行くから」

「……本当?」

「うん……もう寂しくないよ」

 俯いていた夕日遥は面を上げた。

 眩しいくらいの笑顔の娘を見、それと同じ目元を細める。見つめ合う様は確かにありふれた母娘だった。

 どこかで間違わなければ……ふたりが生きて再会することもできたのだろうか。三人で笑い合う日もあったのだろうか。もう叶わないからこそ、そんな風に思ってしまう。

「ま……どか……ごめんなさい……」

 夕日遥はぽつりと呟き、足元の円さんを見つめた。こちらも霊媒師と最悪の地縛霊としてではなく、ただの親子として相対してほしかった。

 彼女は少し躊躇いがちに息子の頬を撫で、そしてその手を取る。

 触れたそばから、夕日遥の身体は砂のようにさらさらと崩れ始めた。

「母さん……」

 抗わずにその手を握り返した円さんは、自分の手の先で自ら消えようとしている母娘を見つめ……そしてすべてを理解したように目を伏せる。

「……そう。もうさようなら、みたいだね」

 円さんの言う通り、夕日遥と固く手を繋いだくじらちゃんの身体を、光の粒が包んでいく。天蓋を泳いでいた巨大な鯨は、ふたりを誘うようにゆっくりと近付いてきた。

 くじらちゃんは少し残念そうに笑った。

「あーあ、もうお別れか……」

「待って、くじらちゃんも……消えるの?」

「そう……みたいだね」

 母親と同じように彼女も少しずつ身体の輪郭がぼやけ、空気に溶け出していく。

「圭一……ありがとう、すべてを思い出させてくれて」

「……くじらちゃん」

「私ね、本当の名前は……」

「くじらちゃん、待って――」

 思わず伸ばした手は、無常にも彼女の身体を通り抜けて空を掻くことしかできなかった。

 まだ君に言ってないことがあるんだ。もっと一緒に映画を観て、くだらない話に花を咲かせて、笑っていてほしかったんだ。ただそれだけだったのに――

 くじらちゃんは白鯨に誘われて、夕日遥とともにエンドロールのような速さで上昇していく。

「圭一くん……手を」

 円さんは空いた手を僕に差し出した。

 咄嗟に左手でその手を握ると、僕の右手はそれまで透けていた少女の華奢な手のひらに触れ――これ以上離れないように強く掴んだ。

 死者と生者、交わることのなかったはずの僕ら四人は、輪になって手を握り合う。

 くじらちゃんは驚いたように丸い目を大きくして、涙が零れそうに笑った。

「……あは、やっと触れた……ありがとう、お兄ちゃん、そして圭一……」

 残る力を振り絞り、彼女は僕の手を握り返して上昇に抗った。

 額が触れる距離で、僕らは見つめ合う。

 くじらちゃんは僕にだけ聞こえるように、最期に囁いた。

「……大好き。バイバイ」

 彼女のあたたかい涙が僕の頬に落ちて――くじらちゃんは母親と共に泡のように弾けて消えてしまった。

 僕は呆けたように彼女の居た宙を仰ぐことしかできなかった。

 伝えたかったことも胸の内の何もかも、くじらちゃんはたった一言で奪い去っていった。返事も伝えられない遠い世界に旅立って、でも心臓の一部は未来永劫君のものだなんて。

 こんなの……呪いと何が違うって言うんだ。

「それはズルくない……?」

 精一杯の嘆きは、しばらく忘れていたスクリーンの波音が攫っていった。

 最後の力を使い果たしたのか、円さんは気を失ったように僕の腕の中で寝息を立てている。

 夢幻の鯨は銀幕の世界へと戻り、黒い波間へ消えていく。

 やがて白い尾鰭を月に掲げ、二人の魂を抱えたまま深い水底へ沈んでいった。

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