Scene.33 さよなら、三番シアター
三番シアターに取り残された僕が、揺蕩う海と共に押し寄せる余韻にしばらく動けずにいると――予期せぬそれは始まった。
ミシミシとした音は、はじめ床が鳴っているのだろうと思っていた。しかしそれは次第に大きくなり壁を伝うように広がっていく。
嫌な予感が最高潮まで高まったその時、天井に亀裂が入った。
「え……!?」
僕が果てだと認識していた暗い天蓋に蜘蛛の巣が走り、止める間もなく脆くも瓦解していく。
人間より大きなシャンデリアは、夢では無い確かな質量をもって落下した。直撃した観客席は見るも無惨に潰されている。
「あ、芦峯さん! 起きてください! ここから出ないと……」
慌てて腕の中の円さんを揺さぶるが、彼は電池が切れたように動かず、解けた長い髪だけがばらりと揺れる。
この人は大丈夫なんだろうか、いやそれもそうだが早く逃げないと、と立ち上がろうとして、思い出したように走る激痛に悶絶した。骨を砕かれたらしい左足首はありえない方向を向いている。
どう考えても立ち上がることはおろか、少し体勢を変えることすら無理だ。しかしこのままこうしている訳にもいかない。瓦礫は次々に観客席を押し潰し、僕らにいつ降りかかるとも限らない。
意識のない円さんの肩を、無意識に抱き寄せる。
啖呵を切って一緒に地獄へ飛び込んだ以上、円さんを置いていくなんて考えは毛頭ない。僕らは揃って絶対に生き延びなければならない。
しかし足が折れた僕が、意識のない人間ひとりを抱えてどうやって――
途方に暮れたその時、僕は荒々しく首根っこを掴まれ抱え上げられた。
「うわあ!?」
丸太のように太い筋肉質の腕が、僕を軽々と小脇に抱える。そばにいた円さんも同じように易々と肩に担がれている。
驚いて見上げた先には、数日ぶりのスーツの男が立っていた。
「大野さん!? どうして……」
それは紛れもなく森岡家の用心棒の大野さんだった。
彼は岩のような仏頂面を不機嫌に歪ませて僕を見下ろしている。
「まったく……君といいこの男といい、人様の建物に忍び込むのが余程好きと見える」
言うなり、大野さんは男二人を抱えているとは思えない走りで劇場内を駆け抜けていった。途切れ途切れに夜の海を映すスクリーンが、潰れた観客席が遠ざかっていく。
次第にその輪郭も曖昧になって揺らいでいくから、もしかしたら映画館の幻はこれでお終いなのかもしれなかった。
さよなら、僕らの待ち合わせ場所、モナリ座三番シアター。
小脇に抱えられた僕が劇場で最後に見たのは、天井にぽっかりと空いた虚空へ昇っていく無数の死霊たちの姿だった。
地響きのような音を立てて崩れ落ちる廃墟を、僕は座り込んで呆然と眺めていた。
僕らが脱出した直後に一階は上階に押し潰され、辛うじて鉄筋にぶら下がっていたコンクリートの塊が次々と降り注いだ。夕日遥の幻想に支えられていた屋台骨が落ちる。
元の形が分からないくらいに倒壊した廃ビルの、巻き上がった土埃を黙って見つめる。
「一応聞いてやろう。なぜ君らはこんな崩れる寸前の廃墟に出入りしていたんだ」
抱えていた円さんを雑に転がし、大野さんはスーツの埃を払って聞く。
「……映画を観に」
「人気のない廃ビルで、か? 俺が通りかからなかったら、君もこの男も死んでいたぞ」
馬鹿げている、とでも言いたげだった。でも僕にとってはそれがすべてで、僕の真実だった。満天の空の下、僕らは沈黙する。
しばらくそうして土煙が落ち着いた頃、今度は僕が聞いた。
「大野さんは、どうしてここへ」
彼は真っ直ぐ瓦礫を見つめたまま、細く長い溜息を吐く。ややあってその重たい口を開いた。
「……今日は彼女の――夕日の命日なんだ。毎年、花だけはな」
大野さんが顎で指したのは、廃ビルの敷地の端に控えめに手向けられた花束だった。
今から二十七年前の今日――夕日遥は亡くなったのか。その日に子供たちと再会し、娘と共に消えていったというのは……奇妙な巡り合わせもあるものだ。
「何も、してやれなかったのにな。生きている時も、死に際も」
大野さんは悔いを刻み込むように天を仰ぐ。
「夏が終わりに近付くと、どうしても思い出すんだ。最期の言葉も、落ちる間際のあの瞳も、何もかも焼き付いて……」
塩見さんの顔が脳裏にちらつく。夕日遥の死に間際に何もできなかったと、彼も悔やんでいた。その自殺現場には、大野さんもいたのだろうか。
同僚の死を間近に見て、助けようにも助けられなかったあの日の自分を、彼は今も悔いているのかもしれない。
あの時自分の手が届いていたら、もっと前に何か言葉を掛けてやれていたら。瞼の裏に何度そう願ったのだろう。再び開いた、切り出した岩のような瞳に映るのは、もう彼しか知らない日々なのかもしれない。
大野さんは少し喋りすぎたと言うように気まずさを顔に浮かべ、踵を返した。
「……俺は帰る」
「え……ちょっと待っ……」
止める間もなく歩き去っていく彼を追い縋ろうとしたが、思い出したように折れた足が痛み出し、僕はその場から動けなかった。
「これで良かったか、夕日……」
夜風に乗って届いたのは、彼の微かな独り言だった。
取り残された僕は、はたと気づいて声を上げる。
「……もしかして手紙を骨壺に入れたのは」
向かい風が僕の問いを消し去っていく。
広い背中は振り向かないで遠ざかっていった。
周辺の住人や通りかかった者たちが野次馬と化しビルの倒壊現場に集まる頃、ようやく円さんは気が付いた。
「芦峯さん、大丈夫ですか!?」
「圭一くん……ここは……?」
横たわったままの彼は首だけ動かして廃ビルの惨状を目の当たりにし、同時にすべてを理解したようだった。僕も頷く。
「外です。終わりましたよ、何もかも」
僕の言葉に、肩の重荷が降りたようにゆっくりと息を吐いて、円さんは再び目を閉じようとする。
「今から救急車呼ぶんで、まだ起きてて――」
ポケットから無事だったスマホを取り出す。一瞬だけ映った画像フォルダの黒塗りの写真にはもうあの少女はいなくて、僕は迷わず電話アプリを開いた。
一一九を押下していると、円さんはぽつりと呟いた。
「……名前の由来、聞きそびれちゃったな」
それだけ言って、彼は再び深い眠りの世界に旅立っていった。
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