幕間4‐1 夕日遥
映画を観に行かないか、とお誘いになったのは旦那様の方だった。
たったひとりで旦那様のいらっしゃる執務室に呼ばれた時には「また何かやってしまっただろうか」と肝が冷える思いだったのだが、拍子抜けしてしまった。
きっといつもの気まぐれで仰っているのだろうと、私は「はあ」と気の抜けた返事をしたのを憶えている。
森岡家の使用人のうち十六歳と最も若く、仕事も覚束ない私を気にかけてくださっていたのだろうか。私など大した学もなく単なる下女のひとりでしかない分際なのだから、断るという選択肢はなかった。私の意志など必要ない。奉公先の主人が映画の観覧に帯同しろと命じるのであれば、私はついて行くだけだ。
「今度の日曜日にしようか。行きつけを貸し切るから、その日は空けておきなさい」
「かしこまりました」
何をこんな私に許可を得る必要があるのだろう、と純粋な疑問を抱えたまま、静かに一礼して退室した。
重い扉が目の前で閉まり小さく息を吐いた。この家に仕え始めて早一年になるが、やはりたったひとりでのお呼び出しにはまだ慣れない。
先程の態度で何か粗相がなかっただろうか、と黒い仕事着の裾をしきりに触っていたので、後ろから声が掛かったことに気付かなかった。
「……おい」
「は、はい! すみません!」
反射的に振り向くと、そこには大柄の作務衣の男性が立っていた。
浅黒い肌の彼は、私より二つ年上の十八歳で庭師見習いの大野さんだ。柔道を嗜んでいるそうで、筋骨の塊のような彼に見下ろされると、旦那様のときとはまた違った竦み方をしてしまう。
「旦那様の執務室へお呼び出しか。大丈夫か、何かあったのか」
「いえ……特には、何も」
普段は寡黙で淡々と命じられた力仕事に精を出しているけれど、たまに私が何か仕事で失敗をしたときはこうして声が掛かる。
多分、歳の近い後輩だから気に掛けてくれているのだろう。顔に似合わず優しい人なのかもしれない。
「……まあ叱られたわけではなさそうだ。余程いい事があったんだろうな」
大野さんはふっと笑い、使用人の詰所へ消えていった。
私はそんなに緩んだ顔をしていたのだろうか。
拭き上げた窓に映る黒髪の女中は、いつも通りの仏頂面で私を見返した。
エンドロールが流れ終わって明るくなっても、私は啜り泣くのを止めることは出来なかった。
人生で初めての映画は本当に素晴らしかった。
戦時中に出会った若き男女が、悲惨な時代を恨むでもなくただそこにある幸せを謳歌し、互いを慈しみ、最期は自由に泳ぐ白鯨の姿に自分たちの境遇を重ね、生まれ変わったら鯨になろうと互いに約束して海に身を投げる、そんな物語だった。
旦那様曰く、昔に上映された映画を再演したものだという。そのため画面は白黒だったのだが、そのすべてが色付いて見えるほど二人の恋模様と生き様は活き活きと輝いていた。
森岡家の持ち物でしかないと思っていた私の人生にとって、その時間は本当にかけがえのないものだった。
使用人など単なる屋敷に備わった家具でしかないのに、個人の意思など捨てて仕事に勤しみなさいと執事長にも厳しく言い含められていたのに、スクリーンに映し出される物語は、涙となって押し寄せる感情の奔流は私を「人間だ」といっていた。
拭うこともせずただ滂沱の涙を流す私に、旦那様は白いハンカチを差し出された。
「映画は気に入ったかい、遥」
その眼差しは執務に勤しんでいらっしゃるときとは違う、とても温かいものだった。何とか頷いてハンカチを受け取ると、旦那様は柔らかく笑った。
「君はまだ何も知らない。人生においては、何も。人間の美しさ、醜さ、そして感情の奥ゆかしさを、もっと知ると良い。人間を知りなさい、遥。そうすることで、君の人生はより輝きを増すだろう」
ゆっくりとそう仰る旦那様のお言葉は、空っぽの私に深く深く沁み入った。これが人間の知るべき感情の一片なのだとしたら、私は本当にまだ何も知らないのだろう。
「僕は映画が好きでね。こうして暇を見つけては観に来るんだ。一人で観るのも良いが……君さえ良かったらまた、付き合ってくれるかい」
柔らかいハンカチで涙を拭い、私は一も二もなく頷いた。
それから月に一度ほどのお約束で、旦那様は私を映画館へ連れ出してくださった。
旦那様にとってそれは仕事の合間の、ほんのお戯れのつもりだったのかもしれない。けれど私にとってはどんな作品も新鮮で、大きく心を揺るがした。スクリーンの中では誰もが自由で、ビルを舞い、星を渡り歩き、信念を謳い、誰かを愛していた。乾いた砂が清らかな水を残らず吸うように、色とりどりの物語は私の心の欠けた部分に染み入った。
自分の中にない感情や艱難辛苦に襲われる登場人物たちの顛末や成長を忘れぬようにと、宿舎に帰ってからはひとり夜更かしして長々と感想を書き連ねたりもした。
実の家族に売られるも同然で森岡家に仕え始め、買い出し以外で敷地から出ることもなく掃除以外の趣味を持たなかった無味乾燥とした女にとってそれは大変な変化だった。
そんな風に真剣に映画鑑賞へ入れ込む私を面白がったのか、旦那様がお誘いになる頻度は月に一度から隔週に一度になり、すぐに週に一度になった。
程なくして私が旦那様に雇い主以上の特別な感情を抱くようになったのも、私にとっては無理からぬことだった。
始めは戸惑っていらっしゃるようにお見受けしたけれど、お心の広い旦那様は私の想いに応えてくださり、私に女の悦びを教えてくださった。
映画鑑賞後の秘密の逢瀬を重ねることに、私は何ら罪の意識のようなものは感じず、ただ旦那様の寵愛を一身に受ける自分に酔いしれた。
それは本当に幸せな日々だったと思う。この身にその愛の結晶を宿すまでは。
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