Scene.31 抵抗

 簡単な作戦を耳打ちし合い、結界の向こうを見遣る。

 透明な壁の向こうで手をこまねく怪異の、怒りと憎しみに満ちた目線が突き刺さった。ここを出れば最後、殺意の濁流に絡め捕られ殺されるのは明白だ。

 僕だってむざむざと死にたくはない。それは彼も同じだろう。

 しかし円さんはもう「早く逃げろ」とは言わなかった。

「囮を買って出たこと、後悔させてあげるよ」

「そうならないようにするのが霊媒師の仕事でしょ。頑張ってくださいよ」

 僕の挑発に、円さんは喉の奥で笑う。

 足元で赤札の最後の一片が燃え尽きた瞬間、僕らは別々の方向に駆け出した。


 客席の背を蹴って前方に飛び出した円さんの後ろ姿が、少し揺らいだ。

 三秒前の作戦会議で、円さんは言っていた。

 ――少しの間、俺は消えるから。圭一くんはしばらく捕まらないでいてくれ

 たったそれだけだった。ふざけた作戦だ。いやもはや作戦というのも烏滸がましいかもしれない。

 円さんが気配を消している間に攻撃を僕へ集中させ、隙を見て夕日遥に直接触れて消そうとするだなんて。囮にでも何でもしろ、と言ったのは僕だが。

 彼女が差し向けた髪の槍は次々に僕の行く手に降りかかる。それをすんでのところで躱すと、すぐそばのベルベットの座席たちは無残に串刺しになった。

 ただ「しばらく捕まらない」ことがどれだけ難しいかこれまでの猛攻で分かっているだろうに、無茶な注文だ。まさに絵に描いたような囮役で、これ以上捨て身の戦術もないだろう。

 最悪死ぬな。

 アドレナリンで沸騰しかかった頭は、しかしどこか冷静だった。

 勝機が見えているから? いや、そんな余裕はない。生きて二人ともここを出る保証は? それもない。

 多分僕は――これ以上何もできないままの僕でいるのが嫌なんだ。

 走りながらポケットの中のスマホを探り当てる。

 僕をモナリ座へ再び導いたのは、写真の端に写っていたくじらちゃんのお陰だ。

 ……目の前の怪異にだって、試してみる価値があるんじゃないだろうか。

 細い髪束の千本槍が身体を掠めても走り続ける。そのまま最後方のJ列まで駆け上がり、三番シアター内を一望できる坂の頂上に辿り着いた。

 そこでカメラを起動したところで――周囲の床が割れ、足元から黒髪の間欠泉が噴出した。

「うわあああああああ!!」

 無様に上げた僕の悲鳴を聞き取ったのか、夕日遥のいるスクリーンまで迫っていた円さんが気配を取り戻した。いけない。貴方は早く、怪異を消して――

 易々と大量の髪の毛に巻き取られた僕は腕を、身体を、首を締め上げられていく。髪の毛と言いつつ、それは鋼のように強靭だった。すぐに息は詰まり、骨が軋む。

 夕日遥は頬に手を当て、目を細める。

「あらぁ、逃げ回っていたけど案外すぐに捕まったわね。もう終わり?」

 そのまま見せしめのように左足首を握り潰され、劇場内に石が挽き潰れるような鈍い音が響き渡った。

「――――っ!!」

 鮮烈な痛みが僕を襲ったが、叫び声は口を塞がれているせいで出ず肺の中で苦しさだけが蟠った。

 激痛と窒息でチリチリと白く瞬く視界の中で、円さんが何とか夕日遥に駆け付けて肩に触れる。が、彼女はスクリーンから湧く黒髪を操り、虫でも払うように彼を張り飛ばした。

「ぐ……」

 埃を上げ、円さんは床に叩き付けられた。

 夕日遥は彼に触れられた部分を押さえて呻きを上げている。完全に消せはしなかったが、肩口からは細々と煙が上がっていた。

 やはり円さんが充分に触れさえすれば消せる。が、そんな暇は与えられない。髪の槍の無限発生を妨げるには、先にスクリーンをどうにかしなければならないようだった。

 よろよろと起き上がろうとする円さんの頭上に、殺意を縒り集めた槍の切っ先が首をもたげていた。

 危ない、早く避けて。言葉にしようにも、押し潰された喉からは息を吸えも吐けもしない。

 微かに動く右手が、スマホのシャッターボタンを探り当てる。

 押下したその瞬間――劇場全体が白いフラッシュで眩んだ。堂々たる佇まいを見せていたスクリーンが、水彩画に水滴を落としたように滲む。

 カメラが歪な空間ごと切り取ったかのようだった。

 夕日遥も一瞬怯んだのか髪を緩ませ、雁字搦めにしていた僕を床に取り落とした。

 揺らいだスクリーンの隙間から溢れ出た光の粒がひとところに収束する。やがて三番シアターに現れたその姿に、時が止まったような思いがした。


「え……」

 僕の目の前、その宙に浮かんでいたのは――ずっと追い求めていた、紛れもない映画友達の少女だった。

 艶めく長い黒髪も大きな瞳も、セーラー服も……何もかもが消える前のままでもう一度現れたくじらちゃんの姿に、思わず時と場所を忘れて涙が出そうになる。

 全ての時が止まったように思えたその隙に、円さんは銀幕の表面を撫でた。

「良い加減、消えて」

 血の帯のように滑る手形を中心に、黒い海を映したスクリーンは石でも投げ込んだように大きく波打ち、膨大な量の灰を巻き上げる。そこから伸びる髪も等しく塵芥に変わっていき、夕日遥は苦しいのか金切声を上げた。

「消えるのはあなたの方よ。忌々しい……」

 彼女はそれでも足元の影から僅かな黒い触手を円さんの首に差し向け、巻き付いた。

「芦峯さん!!」

 避ける力ももう残っていないのか、彼はなすがままにぎりぎりと首を締め上げられていた。血塗れの両腕が、力なくだらりと下がる。

「……やめろ……放せ!」

 最後列から駆け寄ろうとしたが、潰された脚は言うことを聞かずただ激しい痛みを放った。それでも這って最前列へと向かい、怪異とその触手を引き剥がそうとした。が、僕の手は相手に触れることなく透過する。何度やっても、霞か何かのように通り抜けてしまう。

 成す術もないまま、円さんが死んでいくのを見ているしかないのか?

 首を絞めたまま、影の手のひらは徐々に彼の身体を吊り上げる。触れた部分だけ不自然に裂けた海面を映すスクリーンの真ん中に、男がひとり吊られていく。

「……かあ、さ」

 円さんの喘ぐような苦しげな声が、乾いた唇から漏れた。

 現れたばかりのくじらちゃんは、小さな肩を震わせてぼろぼろと涙を零したかと思うと、凄まじい勢いで夕日遥に飛びついた。

「くじらちゃん!?」

 彼女は夕日遥に泣きながら懇願する。

「待って、やめて……この人死んじゃうから……ねえ、私もやっと思い出したの。私のこと視えるでしょ? ……」

「え……!?」

 常闇の少女は驚いたように顔を上げる。

 見つめ合った幽霊ふたりは、鏡合わせのように瓜二つの顔をしていた。

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