Scene.30 「鍵」の意思
幾度目か髪の槍を握り潰して塵に返し、円さんは僕に訊いた。
「あれ、圭一くんにはどんな風に視える?」
顎で差したのは黒髪の海に揺蕩う少女だった。ぼんやり視えるとかそんなレベルではない。それは確かな質感を持ってそこに存在した。
「……十代の少女のような何か、でしょうか。波打つ影の塊のような」
円さんは小さく頷いた。
「そうか、じゃあ振り向かずに急いでここから出て行ってくれないか。あとは俺が何とかするから」
「何とか……って」
あんなの、何とかできるのか。魔除けの札だって一瞬で灰になったのに。
「俺はここへ来るための鍵として君を選んだ。入れさえすれば良かったんだ。入って、これに会えたらそれで……だから君にはもう用はない」
言葉はどこまでも冷たく僕を突き放そうとする。
でも。僕へ飛んでこようとする触手を払い落としながらそんなこと言うなよ。
それでも動かない僕に、円さんはとうとう振り向いた。
「ここで君が体験したことはすべて幻だ。後味の悪い夢だったんだ。ここで過ごした日々をすぐに忘れろとは言わない、けれど今はここに居ちゃ駄目だ。無防備な生者は、悪意の塊となった死者にとって格好の餌でしかない……ねぇ俺の我儘だと思って聞いて? 圭一くん」
彼はこれまで見せたことのない、悲しみと笑みが混ざったみたいな顔をした。それは心からの懇願なのかもしれなかった。
「君を、死なせたくない」
難なく黒髪を捌いているように見えた腕は、赤黒く塗り潰したように爛れていた。肘から滴る血は足元に点々と広がっていく。
まったく、意地を張るならもっとマシな言い分があるだろうに。
僕は大仰に溜息を吐いた。少しわざとらしかったかもしれない。
「お断りします、って言ったらどうします?」
「……こんな時に駄々捏ねないでよ」
心の底から逃げ出したい気持ちはあった。けれど震えを悟られないように立ち上がり、彼の背中に語りかける。
「貴方の言う通りにするの、もう飽きてるんです。くじらちゃんのことを忘れろっていうのも無理ですね。今、困ってるのは芦峯さんの方でしょ。だったら今度は僕の言うこと聞いてくださいよ」
「言うね……」
円さんは乾いた笑いを浮かべた。
その間ポケットから取り出した小さな破魔矢を投げるが、矢は夕日遥に届く前に燃え尽きた。
「芦峯さん。性格悪いなら悪いで良いので、最後まで僕を囮にでも使ったらどうですか。善人ぶるにも悪人面するにも中途半端なんですよ、あんた」
彼と並び立てるとは思っていない。そこまで思い上がってはいない。今だって膝の震えが声に乗らないように気を張ってるんだ。
でも――この人を置いて自分だけ逃げるなんて、とてもくじらちゃんに顔向けできないだろ。
「どうせひとりじゃ無理でしょ、あんなの」
「馬鹿にしないでほしいな、丸腰の君よりマシだよ」
彼は懐から赤い札を取り出し、足元に投げ貼った。先程一瞬で燃え尽きた札より禍々しいそれは一瞬で透き通ったガラスのような球面の壁を展開し、僕らを包んだ。さすがの猛攻も弾いている。
「ごらん、大概の霊障を無効化する血染めの札でさえ持ちそうにない。死にたいの?」
「死にたいわけないでしょ。死なないように何とかしてくださいよ。僕も手伝いますから」
彼の言う通り、よく見ると直撃した箇所が小さく抉れていた。この結界でも長くは持ちそうにないことは明らかだった。
苛立ち混じりの溜息をひとつ吐いて――円さんはようやく振り向いた。
それは久しぶりの、彼らしい軽薄な笑みだった。
「じゃあ付き合ってもらおうか。地獄の果てまで」
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