第5章

Scene.29 万来の劇場

 錆が浮く取手を千切れんばかりに引いてモナリ座へ駆け込むと、無言の受付が闇の中に鎮座していた。

 いつもなら、そこに幼馴染が気怠げに座って手を振っていて……いや、よそう。今は感傷に浸っている場合じゃない。

 考えるな、走れ。僕らの待ち合わせ場所の三番シアターへ。

 誰もいない受付を通り過ぎ、無音の廊下へと足を踏み出す。煤けたベルベットの床は明滅する誘導灯に照らされ、かろうじて道標となっていた。

 メッキが剥がれた三番シアターの扉の前に立つ。緊張と走ってきたのとで僕は肩で息をしていた。

 この向こうにあの子がいるんだ、いつも通り。

「くじらちゃん!」

 飛び込んだ劇場内には明かりもなく、物言わぬスクリーンだけが静かに佇んでいた。

 埃っぽい臭いが懐かしさを加速させて、少し泣きそうになる。間違いない。ここが僕らの居場所だった、モナリ座の三番シアターだ。この記憶は夢でも幻でもなくて、現実にあった場所なんだ。


 座席の背を掴み、足元をぶつけながら何とか歩く。

 観客席の真ん中に差し掛かるとジジ、と音響が鳴いて、僕はびくりと肩を震わせた。

 映写機から伸びる光が真っ直ぐに銀幕を照らすと、劇場内のあらゆるものが薄らと輪郭を纏う。

「え――」

 その光景に息を呑んだ。擦れたベルベットの客席には、所狭しと観覧客が座っていたからだ。

 老若男女を問わない人々は、無表情で目の前のスクリーンを見上げる。彼らはどこか虚ろで儚げで――そして一様に透けていた。

「琳太郎……!?」

 万来の観客の中に消えてしまったはずの幼馴染の姿もあり、皆と同じように透けている。

 ――彼も数年前から、行方不明になってる

 脳裏にちらつく言葉に、思わず背筋が冷たくなる。

 僕のことなど眼中にないように、琳太郎も彼らもただ闇を映すスクリーンを眺めている。そこに表情はなかった。

 死者たちは何を観ているんだ。

 恐る恐る振り向く。黒い何かが、映写幕いっぱいに波打っている。どこからか聞こえるのは、遠い波の音だ。

 月明かりのない夜の海が静かに揺れて、しかし静かなリズムとは裏腹に心は粟立っていく。

 波間から零れた闇が縒り集まるように収束して、それは僕の前に姿を現した。

「……くじらちゃん?」

 ひとりの少女が、壇上に立ちこちらに背を向けている。

 見覚えのあるものより少し痩せているようだが、長い黒髪の彼女は僕が追い求めていたあの子に違いなかった。

 やっと見つけた……と安堵するより先に、頭の奥がちりちりと痛みを放った。

 黒いワンピースの君。ねえ、君は本当にくじらちゃんなの?

「くじ――」

 瞬くより早く彼女の背後の海が蠢いて僕に襲いかかり、頭に浮きかけた疑問符は幾本もの黒い手のひらに顔を抱き上げられて遮られた。

 余った無数の指先が僕の骨格をなぞり、鼻先に少女の瞳が迫る。

 はくじらちゃんと同じ顔で微笑んだ。

「あら、どうやって入ったのかしらね。いらっしゃい」

 黒いワンピースの少女は柔和に微笑んだが、同時に差し向けられた数多の手のひらのせいで僕は背筋の震えが止まらなかった。

「素敵な劇場でしょう? ベルベットの客席も、天蓋のシャンデリアもあの頃のまま。私と旦那様が、初めて訪れた映画館みたい……あなたもご一緒に、いかがかしら」

 白い手のひらが僕へ差し伸べられる。冷え切った瞳は何も映してはいなかった。影の腕たちは僕の肩を抱き、頬をなぞり、足を絡め捕ろうとする。

 違う、違う、何だこれ、こんなのはあの子じゃない。

 資料室で見つけた、くじらちゃんの写真が脳裏に浮かぶ。あの無垢な笑顔と目の前の妖艶な笑みを湛える少女はどうにも重ならなかった。

 銀幕の夜の海を割って、黒い何かが波打って押し寄せる。濁った海は客席を呑み込み、透明な人形と化していた人々を巻き込んで荒れ狂う。

 逃げないと、という思いとは裏腹に脚は分かりやすく竦んでいた。

 漆黒の濁流の正体が荒れ果てた黒髪だと気付いたその刹那――僕を縛っていた手のひらは霧散し、僕は空っぽの客席へ突き飛ばされた。

 恐怖で軋む身体が痛みで一瞬上書きされて、思わず顔を上げる。

 どこからか現れたのは、見覚えのある束ねた黒髪の背中だった。

「……芦峯さん!!」

「やあ圭一くん。もう頭痛は大丈夫かい」

 白い腕が、襲い来る波を薙ぎ払う。ざらついた音を立て、少女から延びる髪束は僕らの目の前で引き切れた。

「信じてたよ、君ならもう一度ここに来るだろうって……が君の探していた子かい?」

 円さんは振り向きもせず淡々と白い札をそこらに貼り、簡単な結界を張ろうと試みる。貼ったそばから札の端が黒く煤を巻いて焦げていき、跡形もなくなったのを見て彼は溜息を吐いた。

「違う……あんなのは……」

 僕は座席の背を掴んで何とか立ち上がる。

「そう。じゃあ遠慮なく消せるね」

 眼前に迫る影の触手を即座に掴まえて握り潰し、円さんは口の端だけ笑ってみせる。

 塵芥に変わる化物の欠片を見つめる瞳は、いつもの軽薄さを微塵も感じさせなかった。それほどの余裕はないということか。

 少女はくじらちゃんと同じ顔で、あの子が見せたことのない狡猾な笑みを向ける。

「一度は繋がりを切り離されたと思ったけれど……受付をさせていたお友達を探しにきたのかしら。それとも?」

 泥を捏ねるように影を操り、彼女が手のひらの上に出して見せたのは琳太郎の生首だった。息を呑む僕を、少女はせせら笑う。

「迫真の演技だったでしょう、私のお人形遊び」

 どろりと蕩けて床に染みるそれに、円さんは溜息を吐く。

「俺が目的なら俺だけを呼べば良いのに、随分まどろっこしいことをするね」

「だって、あなたは最初から私を消そうとしていたじゃない。それに観客は多い方が良いでしょう?」

 影を操る少女は僕らのことなど意に介する様子もなく、細い身体を自ら抱いた。

「死んだ私を憐れんで……御覧なさい、旦那様がここへ映画館をお作りになったのよ。ああ、愛しの旦那様……」

「……いや、それは君が作り上げた虚妄だ。森岡正一はもういないし、君のために映画館を作ることはしなかった」

 少女の全身から溢れる陶酔を、円さんは切って捨てる。

「叶わない心残りを抱えたまま死んで……願望を具現化した幻想の映画館を作り上げ、もう来ない男を待ち続ける地縛霊……それが君だ」

 身を焦がすほどの想いに溺れ、倒錯し、自ら作り上げた幻想の映画館の主となった少女は、表情を消して僕らに向き直る。

「私と旦那様、そして子供と――家族みんなで映画を観るのが夢だったの。そんなささやかな願いさえ……ねえ円、あなたは邪魔をしようとするのね」

 円さんの背中越しに佇む少女は一転して鋭い瞳を僕らに向けた。どうやら僕らは二人とも排除対象として認識されたようだった。

 円さんは肩に纏わろうとする影を払い落し、淡々と語る。

「圭一くんも視ただろう。彼女は人を多く殺しすぎた。この観客席を埋めるほどの人々を――君の幼馴染も含めて、近付く者を全て呑み込んだんだ」

 先程黒い濁流に吞まれたばかりの、客席の亡霊たちを思い出す。

 あの虚ろな目をした観客たちは――琳太郎も含めた彼らは、亡霊に招かれてここに囚われた魂だということか。僕もそのうちのひとりだったのかもしれない。

「大体のことを流す俺も、さすがに見逃せなくてね。それが肉親の所業なら尚のこと――」

 目の前の少女の正体について、円さんは名付けでもするようにゆっくりと口を開いた。

「紹介しようか。あれがこの世に未練を残して成仏し損なった俺の母親、夕日遥だよ」



 改めて怪異に向き直る。スクリーンを背に影に揺蕩う少女に、やはりくじらちゃんの面影は見当たらなかった。よく似ているけど、放つ殺意は別物だ。

 彼女が二十七年前に死んだ、夕日遥。この影の煮凝りのような塊が……円さんの母親。

 これが真の、三番シアターの地縛霊。

 目の前の少女が僕の知るあの子じゃないとしても、本物の彼女はどこへ行ってしまったのだろうか。

「さあ……死んで、家族みんなでひとつになりましょう?」

 渦巻く疑念は――しかし少女の狂った笑みに押し潰された。

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