幕間3 いつかのくじらちゃん
波の音がした。
それは海岸に打ち寄せる浅い音じゃなくて、もっと沖の、果ての海の響きだった。周囲を見回しても誰もいない、世界にただひとり取り残されたような孤独な音だ。太陽は僕が知るようにひとつしかないのに、違う世界のように感じる。
微睡む視界いっぱいに、ぼんやりと照らされた海色のスクリーンが映る。
そうか、これは映画だ。いつの間にか眠ってしまったみたいだ。
どんな内容だったのか覚えていないほど、長い間寝ていた。恐らく、ほとんど最初から。
じっとり濡れた靴が不快で、そういえば六月らしい通り雨に降られたのを思い出す。
そう、バイトから帰ろうとしていて突然の嵐に見舞われて、雨宿りをしようと目についた軒先に入ったんだっけ……。
朧げな記憶はすぐにぼやけて溶けていった。意識は心地よく揺蕩い、しかし身体は不自由だった。伸びをしようとも腕は上がらない。身動ぎしようと、指一本動かない。
とぷりとぷりと波の音がして、深海に沈んだような圧迫を全身に感じた。
それは徐々に確かな力を帯び――口蓋をなぞり、鼓膜に迫り、虚ろな眼球に触れた。
両方の角膜を押し込めるものの正体が指だと気付いた時には、それは水晶体を通過し眼窩を抜けていた。
脳が痺れ る。何か が、や わらかい 僕の中 身に触 れて
――――
――
「……ってば」
「ん……」
「ねえってば、お兄さん」
呼びかける声に目を覚ますと、鼻先に黒髪の少女の顔が迫っていた。大きな鳶色の瞳に、驚いた僕の顔が映っている。
「は……え、君は、誰」
「……あは」
取り繕う間もなく率直な疑問を口にすると、目の前の少女はほとんど泣き笑いのような表情をして笑った。
「あははは! すっごい! お兄さん、私のこと視えるの?」
「視えるも何も……何処だここ。ちょっと待って、状況が呑み込めない」
辺りを見回すと、そこはすっかり明るくなった劇場内のようだった。
長い黒髪の女子高生風の少女は、困惑する僕に微笑んだ。
「吞み込まなくていいよ! だってお兄さん、映画観に来たんでしょ?」
「え……」
前後の記憶が、夢でも見ていたかのように朧気だ。物言わない巨大なスクリーンは何も映さず僕を見下ろしている。僕は映画館に来て、いつの間にかうたた寝をしていたのだろうか?
「そう……なのかな」
「ここは滅多に他のお客さんが来ない映画館、モナリ座の三番シアター。私はここでひとりで映画観てたの、ずっと」
思考を整理するより前に、少女は喋る。良く喋る。ずっと我慢していたのが溢れ出したように、彼女は楽しそうだ。
「鯨映画は好き?」
止める間もなく、そう問われて首を捻るほかない。
そんなことを訊かれる人生などそうそうないだろう。
今までそこにいたかのような自然さを伴った自信ありげな双眸は、好奇に閃いている。
対して僕は少し怯んでしまった。無理もない。目の前の彼女越しにスクリーンが透けていたからだった。
「……まあ、嫌いじゃない、かな」
その時なぜそう口走ったのかは分からない。
君は誰、いや何? そもそも鯨映画とは? 疑問符はいくつも浮いたけれど、そのどれもを掻き消す笑みで、その子はからりと笑った。
「良かった、どんな名作だってひとりで観るのはつまらないもん。クソ映画なら尚更。お兄さん、名前は?」
「……折戸圭一」
「けーいち……圭一ね、おっけー」
そう名乗るのを、彼女は楽しそうに聞いていた。
取って食われはしないだろうに、心臓は早鐘を打っている。いや、本当にそうだろうか。少女の現実感のなさ、しかし確かにそこにある存在感はこの世のものとは思えない異常さだった。
相変わらず透過している背後の銀幕は何も言わない。
「じゃあさ圭一、これから毎日私と一緒に映画観ようよ!」
ずい、と鼻先に迫る彼女の瞳は、透けていても綺麗だった。からからと笑うその表情は、そこらの十代の少女と何ら変わりない。
創作の世界程度の薄い知識しか持ち合わせてない僕でも、何となく勘付いた。
多分彼女は幽霊だ。それも、ここモナリ座三番シアターに留まる地縛霊なのだ。それが悪い冗談でなければ。
「君はその……幽霊?」
「そう」
「鯨映画が好きなの?」
「好きっていうか……こうなる前に観た、最期のシーンだけうっすら覚えてて。視界いっぱいの大きな鯨が、海からざばーって顔出して……暗い暗い海に消えていくところ。どんな映画か、一ミリも思い出せないんだけど。圭一は知ってる?」
「心当たりはないな……」
「そっか……」
何か悪い冗談であってくれと心の隅で願っていた気持ちは、ふわりと浮き上がるその子の姿で頭の隅に追いやられてしまった。膝を抱えたセーラー服の少女が、重力を無視してゆっくりと上昇し、短いスカートが儚げに揺れる。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「そうだね……もう一回観たら思い出せるかもしれないから。生きていた時のこととか。待っていてくれる人がいるかもしれないし」
彼女の顔に、少しだけ影が差した。比較的整った顔立ちだからか、照明に照らされた横顔はやけに情緒を帯びている。
その表情から伝わるのは「置いてけぼりの寂しさ」だった。
きっと死んで周りを置いてけぼりにしたのは間違いなく彼女自身だ。けれど彼女は記憶を失い、置いていった何かを自覚出来ないまま漂うことしか出来ない。彼女の方が、周囲からも世俗からも置いていかれた「霊体の迷子」なのかもしれない。
生きている僕には、慰める言葉しか掛けようがない。
「毎日は無理だけど……夜だけなら」
「本当? やった!」
さっきまで曇っていた少女はぱっと表情を明るくした。真っ暗な三番シアターに一筋の光が差したようだった。釣られて笑ってしまったから、きっともう僕は絆されてしまったんだろう。
「名前聞かせてよ、君の」
「うーん、そうね……くじらちゃん、でいいよ。よろしくね圭一」
握手しようと伸ばした手のひらは彼女を透過して触れられなかったけれど、そんなことも何だか可笑しくて二人して笑ってしまった。
誰も知らない約束は、こうして六月の雨の下で結ばれたのだった。
それからだ。それ以来、僕は毎夜ごとに三番シアターを訪れるようになった。
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