Scene.28 動画編集
昨夜自分がどう帰ってきたのか、まるで覚えていない。
しばらく何もする気が起きずただ自室の椅子の上で呆けていて、気付けば窓の外は空が白み始めていた。
僕だけに視えていたモナリ座とくじらちゃん。実母である地縛霊の少女と接触するために円さんは僕に近付き、時には協力する振りをしていたのだ。
くじらちゃん――円さんの母親にも、僕は利用されていたらしい。それは他でもない実子である円さんを探すため――ということだったが、多くの人の認識を書き換えて僕を取り込み、泳がせていたという事実は未だ受け入れ難かった。
遅れてやってきた怒りは、無気力に巻かれて腹の中を蟠る。それはひとりだけ化かされた己への無力感か。これまであの子と過ごしてきた日々が掻き消えた消失感か。
誰かに利用される駒でしかなかったという、失望感か。
苛立ち交じりに溜息を吐いて机に突っ伏す。昨夜まで悩まされていた頭痛が消えているのも含めて本当に腹立たしかった。
円さんに触れられて霧散したあの重い片頭痛こそ、僕とくじらちゃんとを繋ぎとめていた証だったのかもしれない。
女子高や森岡邸潜入前に不調に襲われた時も「付近を彷徨う霊の類が着いてきているせい」と話していたが、彼に触れられると同じように身体が楽になった。円さんには死者と僕との繋がりを断ち切ることができる。
――唯一干渉できる君を触媒にして、映画館の外へ引っ張り出させようとしたんだ
円さんはそう言っていた。
じゃあ昨夜、モナリ座との唯一の繋がりをわざわざ断ち切るような真似をして僕を助けたのは何故だ?
――良かった、間に合って……探したよ
安堵したような声がリフレインする。
胸の内の靄に答えが出かかって、しかし頭を振り払う。もうこれ以上あの男について考えるのはやめにしたかった。
机の隅に追いやっていたノートパソコンをのろのろと起動させ、動画編集ソフトを立ち上げる。
モナリ座に通い出してからここまでの二ヶ月間のうちに体験したことは、すべて幻だった。そんな現実感のない事実が突き付けられてもなお、とてもではないが信じられなかった。信じたくなかった、の方が正しいかもしれない。
編集中の動画ファイルを開く。何かしていないとどうにかなりそうだ。
「……え」
最終更新に一昨日の日付が刻まれていたファイルには、しかし何も映ってはいなかった。
背筋に怖気が走る。慌てて他のファイルも見返したが、どれもただ真っ暗な闇しか映っていない。撮影したスマホのフォルダを確認しても、似たような状態だった。
「嘘だろ……」
頭を掻き毟り、天井を仰ぐ。
これまでモナリ座で撮り溜めてきた動画のすべてが、暗い砂嵐で覆われて消えいる。それこそ嘘のように、くじらちゃんと過ごしてきた日々やそれに関連するものが忽然と痕跡を消してしまっていた。
――くじらちゃんは、モナリ座ごとこの世から消えてしまったのか?
そんな疑念が頭を過ぎる。
「こうなったら……」
汗ばんだ手のひらが机の中からノートを取り出し、思い出せる限りの情報を殴り書いていく。僕の頭の中にある記憶だけが、これまで聞いた証言だけが、彼女のことを現世に遺しておく唯一の方法だった。
十七歳の女子高生。長い黒髪にセーラー服。二十七年前に映画館で死んで、独りぼっちで三番シアターに佇んでいた映画好きの地縛霊。
書いた文字は変わらず紙面に残っているのに、視界は滲んでいく。やめろ、泣いてる場合じゃない。思いつく限り書き記すんだ。
本名は不明。制服から特定した近隣の高校で卒業アルバムを発見した。くじらちゃんの生存が確認できた写真の日付は十年前だった。
そこまで書いて、はたと気づく。
映画館で人が死んだのは二十七年前のこと。
そう琳太郎が言っていたのを、今更思い出す。受付にいない彼の証言は今や真偽のほどは定かではないが、それにしたって写真を撮ったときと年代が違いすぎる。何故そんな大事なことを見落としていたんだろう。
僕がくじらちゃんだと思っていた写真の少女は、無関係の赤の他人だったのか? それとも――三番シアターで死んだのは、ひとりじゃないのか?
疑念がじわじわと胸の内を蝕んでいく。
「君は……誰だったんだ……?」
朝の光に問いかけて、応える者は誰もいなかった。
すぐ隣で微笑んでいたはずの少女の顔も声も、黒く塗り潰されたように思い出せなくなっていた。
目を覚ますと窓からオレンジ色の西日が差していた。
気付かないうちに、どうやら机の上で突っ伏して寝てしまっていたらしい。
そばのパソコン画面がブラックアウトしていたから、充電が切れるほど眠っていたようだった。
「いてて……」
痛む首や節々を伸ばし、スマホを見る。朝方に開いていた画像フォルダがそのまま出てきた。百数十枚のカメラロールは相変わらずほとんど真っ暗のままだ。
「……ん?」
雑に画面をスクロールしていて、ふと指が止まる。
この違和感は何だ。今、何か――
「あ……」
スクロールしたところを少し戻って、ようやく気が付いた。
黒塗りの写真だらけの中にたった一枚だけ、白い何かが映り込んだ写真がある。
迷わずタップし、凝視する。親指ほどの大きさの白くて丸い何かが、暗闇に浮かび上がっていた。
拡大してしばらく考えて分かった。それは誰かの親指の付け根だった。
撮影した日付と時間は六日前の二十三時五十分。
いつだったか、くじらちゃんがカメラに写るのか試したことがあった。これはきっとあの時の写真に違いない。あの時、彼女は僕が向けたスマホに向かって元気よくピースしてて……。
――昔の人こそ、カメラは「魂が抜かれる」だなんて言ってたそうだけど……あながち嘘でもないんだよね
円さんも以前、そんなことを言っていた。
僕はスマホだけを引っ掴み、弾かれるように部屋を飛び出した。
スニーカーを突っ掛けて家を出る。踏んだ踵がもどかしいくらいに心が逸っている。急げ、もう一度あの場所へ。ここから走って十五分くらいだろうか。
欠片でもあの子が写っていたということは、いくらこの世のものではない場所や人でもカメラの中ならば存在できるということかもしれない。
短絡的すぎる思考だが、そうに違いないという根拠のない自信だけはありすぎるくらいにあった。
信号待ちでも再び先程の写真を見てみたが、やはり白い手のひらは消えずに写っていた。
きっとこれはくじらちゃんから僕への、最後のメッセージなのかもしれない。自分がまだ消えずに現世に留まっていると、教えてくれようとしているのかもしれない。
暮れた紺青の空に青い信号が灯って、僕は再び走り出す。
人気のない商店街に向かって走る。走る。
走れ。もっと早く。
待って、まだ消えないで。頼むからまだそこにいてくれ。
僕はまだ、君に伝えていないことがある。
息を切らして着いたそこには、昨日と同じ空き地が広がっていた。
肩で息をして、汗ばんだ手でカメラを起動する。六インチの液晶内に、それは現れた。
黒く煤けたレンガ調の佇まい。ヨーロッパの捨て置かれた砦を思わせる、一見して遊園地のホラーハウスのような洋館。黒く閉ざされたガラス製の扉の上に掲げられた銘板の文字に、思わず涙が出そうになった。
「モナリ座だ……」
そう呟くと、画面の向こうに本物のモナリ座が顕現した。スマホを取り落としそうになりながら仕舞っても、目の前の建物は煙のように消えはしなかった。
やっぱりあったじゃないか、と安堵して膝から崩れ落ちそうになる。
レンガを積んだ簡素な階段を上がり、扉の取っ手に縋りつく。ざらついた感触まで記憶の通りだった。
待っていてくじらちゃん、今行くから。
強く前を見据えて、錆びた取っ手を引く。脳の奥がちりちりと痛みを放っている。
ここに入ってはいけない――そう僕の中の何かが警鐘を鳴らしているような気もした。
それでも抗えず、僕は重たい扉を開いた。
そういえば、そもそも僕はなぜモナリ座に来るようになったんだっけ。
なぜかふと、そんな疑問が浮かぶ。
が、開かれた扉からするモナリ座の懐かしい埃っぽい臭いが僕を包んで疑問を消し去り、意識は最奥の三番シアターに吸い寄せられていった。
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