Scene.17 報告

 円さんと別れ、モナリ座の入口を潜ったのは二十一時を回った頃だった。埃っぽい匂いがもはや懐かしく感じる。

 恐る恐る開いたスマホのネットニュースでは「隣町の高校で小火があった」旨の速報の見出しが踊っていて肝が冷えたのだが、「怪我人なし」の文字を確認し僕は大きく胸を撫で下ろした。

 あんな状況、誰がどう見ても僕らは放火魔にされていてもおかしくない。

 こんなに気を揉むくらいなら消火活動のひとつでもやってくれば良かった、と思わなくもなかったが、あそこに留まっているのもそれはそれで不自然だっただろう。僕も円さんも、卒業生でも何でもない部外者なのだから。

「どうしたよ圭一、疲れてんな」

 受付で首をもたげた琳太郎は、揶揄うように声をかける。うん、実際疲れてる。けど今の僕には様々な事情を伏せつつ経緯を説明できる気がしない。

 別に、と目を逸らし、話題を変えるように向き直った。

「琳太郎、変なこと聞いてもいいか」

「何?」

「ここで人が死んだりしてないか、過去に」

 真剣に聞く僕に、琳太郎は即座に噴き出した。

「ある訳ねえだろ!  あったら俺も館主なんてやってねえよ。気味が悪いし」

「……まあそれもそうか」

 ごもっともな意見に頷く。あまり物事を隠すのが上手くない琳太郎のことだ、知っていたらいの一番に喋るだろう。

 高校で見た写真の少女が本当にくじらちゃんなのだとしたら――ここで死ぬまでに何があったのかを知るにはまだヒントが足りなさすぎる。核心に迫るには遠い。

 僕は溜息を殺し、「変なこと聞いたな、忘れてくれ」と頭を振った。



 平静を装って受付を抜け、三番シアターの扉へ体重を乗せるように押し開けた。

 円さんとの遭遇からの不法侵入に、思念体の少女との邂逅と手がかりにも満たない新たな謎、そして放火疑い……一日で色んなことがありすぎだ。疲れた。今日は本当に疲れた……。

 ただいま、と言いそうになり口を噤む。

 円さんにもあれだけ「関わるな」と釘を刺されたけれど、どうにも毎夜の如く戻って来てしまう。足は自然とここへ向かう。でも大丈夫、これは僕の自由意志だから。

 後ろ手で扉を閉めてふと気付く。いつもはシアターの真ん中に陣取ってふわふわと退屈そうに浮いている女子高生の姿は、どこにもなかった。

 あれ、入る部屋を間違えたか――?

 扉の銘板を確認しようと一歩引いたその時、頭上から長い黒髪がべろん、と降ってきた。

「ばあ」

「うわっ!」

 何かと思えば、逆さを向いたくじらちゃんだった。僕を脅かそうと扉の上で待機していたらしい。鼻先で揺れる黒髪に触れることはないことはないと分かっていても、大変心臓に悪い。

「あはは! びっくりした?」

「びっくり……したね」

 心底の気持ちを吐露する僕に、彼女はずっと空中でおかしそうに笑い転げている。悔しいが、楽しそうなくじらちゃんは可愛かった。

「いつからそこにいたの……」

「ん? 分かんない。多分ずっと」

「そう……」

 眠りもせず時間の概念のない彼女にとっては野暮な質問か。きっと僕が来るのを今か今かと待っていたに違いない。僕が驚く顔を想像しながらずっと。今夜僕が来なかったらむくれていただろうな。

「圭一、疲れてる?」

「……気のせいだよ」

 言葉少なな僕を心配顔で覗き込むくじらちゃんに手を振り、真ん中の座席に移動する。効き始めた頭痛薬の薄い酩酊感が、鋭いこめかみの痛みを紛らわせるような気がした。

「それよりさ、今日すごいものを見付けてきたんだ。くじらちゃんに見てほしくて」

「えーなになに?」

 いつもの座席に腰掛けるや、僕はスマホを取り出した。今日モナリ座を訪れた一番の目的はこれと言ってもいい。映画が始まる前の薄暗い照明の下で、とっておきの写真を見せた。

 他の女子生徒と肩を寄せる、くじらちゃんによく似た少女の写真を。

「え、これ……私?」

「だよね。僕にもそう見える」

 カメラに笑顔を向ける女子高生と瓜二つの幽霊は、瞳を丸くして液晶に釘付けになった。こうして並べて見ても、制服といい顔といいやはり酷似している。

 くじらちゃんは興奮して座席の上でふわふわ跳ねた。

「すごいすごい! こんなのどこで?」

「ほら、前にくじらちゃんが言ってたじゃん。同じ制服の学校がないかって……探したら隣町の高校に似た制服の高校があってさ。伝手があって、卒業アルバムを見せてもらえたんだ」

 実際には伝手なんてなくてただの不法侵入だったのだが……僕は大人の顔をして黙っていることにした。

 くじらちゃんは透ける人差し指で隣に写る少女をなぞる。

「私すっごい笑ってるじゃん。横の子は友達……なのかなぁ」

 肩を組まれ、遠慮がちにはにかむ少女は……写真の雰囲気から察するに友達だったのかもしれない。僕も改めて、くじらちゃんの隣の女子生徒に目を遣った。

 資料室ではくじらちゃんにばかり目が行ってしまいまじまじと見ていなかったが、肩口で切り揃えられた黒髪の少女に、今更ながらどこか既視感を覚えた。

 そうして涼しい瞳を湛えた黒縁眼鏡の少女――資料室で浮いていた少女を思い出す。俯きがちだったあの子と、写真に写るこの子は同一人物ではないだろうか。彼女が消えてしまった以上もう確かめようはないが、そう考えれば考えるほど似ているような気もする。

「色々あって本名だとか他のことを調べる前に資料室から追い出されちゃったから、現時点ではこれ以上のことは分からないんだけど」

「……うん」

「これ見て何か思い出……わ、ちょっ、大丈夫!?」

 隣で浮く少女を振り見ると、ちょっと引くくらいに泣いていた。それはもう滂沱の涙という言葉が相応しいくらいに。

「私……本当に生きてたんだ」

「……そうだね」

「なんかさ、私……ずっとひとりでいたからさ、誰の記憶にもいなくて、圭一が視てるのも全部幻で、私が私だと思ってるのも全部嘘だったらどうしよーって不安でさ」

 くじらちゃんは両手で涙を拭って顔を上げる。真っ赤に濡らした瞳を湛えても、その表情は清々しいほどに晴れやかだった。

「良かったぁ。私、ちゃんと生きた人間だったんだね」

 はらはらと新たに零れ落ちる涙は仄暗い照明に僅かに光り、しかし座席に染みを作ることなく空気に消えていく。その背を摩ることも、涙を拭うことも僕にはできない。

 ただ偶然隣にいることを許されたにすぎない僕は、彼女がひとりになってしまわないように、そばでそっと落ちる涙の行く末を眺めていた。



 月並みな恋愛映画が今日は素直に良いなと思えて、エンドロールを見送った僕はゆっくりと明度を上げていく劇場内に大きく伸びをした。

 ふーっと長く息を吐いたくじらちゃんは、何やら申し訳なさそうにおずおずと切り出した。

「……ごめん、結局全然何も思い出せなかった」

「気に病んでたの? そんなに焦らなくていいよ」

 どうやら映画の間も、ずっと写真のことを考えていたらしい。

 元はといえばくじらちゃんの過去を調べようと言い出したのだって僕からなんだから、くじらちゃんが恐縮するのも変な話だ。もちろん協力的なのはありがたいけれど。

 僕は鞄を取り立ち上がる。時刻はいつもの暇の時間を迎えていた。まだくじらちゃんについて分からないことはたくさんある。それをこれから明らかにするんだ。

「また調べてくるから、待ってて」

 照れもあって真っ直ぐにくじらちゃんの目は見れなかったけれど、帰ろうとする僕の後ろで彼女が手を振っているような気配がした。

「……ありがと。嬉しかった」

「そう……良かった。またね」

 後ろ手に閉めた扉の向こうで、くじらちゃんはどんな顔をしていただろう。

 新たな事実が分かり調べ物が進展したこと以上に、あの子に喜んでもらえて良かった。泣き笑いする彼女の顔を思い出すと心が温かくなるような気持ちがする。

 モナリ座を後にして、とっぷり暮れた夜の空を仰ぐ。

 二時間ほどの映画鑑賞だったが、通常勤務バイトと高校への不法侵入の疲れがどっと押し寄せてきた。緊張だとかいろんな糸がまとめて切れたみたいだ。このまま帰ってすぐにでも眠れそうだった。

 ふと思い出してパーカーの背中を振り返り――僕は少しぎょっとして立ち止まった。資料室で円さんが僕の背に貼った魔除けの札が、ボロボロになり千切れかかっていた。

 思念体の少女の攻撃を防いだあの紙札は、大量の虫食いにあったかのように穴だらけになっており――僕の目の前で、黒い灰になって夜闇に紛れていった。

 役目を終えたとでもいうのだろうか。それとも瞬時に効力を失うほどの何か――

 そこまで考えたところで携帯が震えた。どうやらメッセージを受信したらしい。

 送り先の名前と共に表示された短文に、僕は大きな溜息を吐いた。


『今日はお疲れ様。そろそろ俺の探し物の方もよろしく頼むよ。もちろん手伝ってくれるよね?』

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