Scene.18 森岡邸潜入
とうとう来てしまった。
昨夜の約束から二十四時間と少し。久々に訪れた森岡邸は深い夜闇に静かに佇んでいた。飴色の楼門は新月の下でも威厳を放っていて、閂のされた戸の重厚さが来る者すべてを拒んでいるような気さえする。
それはそうだ。だって今、深夜だもの。
「いやあ何度見ても近寄りがたいよね、我が実家は。もう少しこう来訪者に配慮して、近付いたら音声ガイダンスが流れたりセンサーライトが光ったりしたらいいのにね」
良いわけないだろ。隣の草むらに潜み馬鹿げたことを嘯く円さんを横目で睨む。少しでも目立たないようにと僕と同じ上下黒い服に身を包んだ彼は、いつものようにへらりと笑った。
本当はこんな場所へ来たくはなかった。だってそうだろう。町一番の大屋敷、ただでさえ普通に訪れるのも億劫でしかないのに、黙って忍び込もうなどと。
しかし円さんは猶予など与えてはくれなかった。
何でも今夜、森岡家の人々は珍しく出払っているらしい。既に高齢になる森岡家の現当主――森岡正一の本妻は出掛けること自体が稀なようだから、確かにチャンスかそうでないかと言えばチャンスなのだが、だからと言って決して警備が手薄になるとかそういうことではないだろう。
この男に作った借りさえなければ――。僕は彼と出会ったこと自体を憂いた。
今から僕らがやろうとしているのは立派な不法侵入だ。誰であれ見つかれば前科が付くこと待ったなしの犯罪行為に相違ない。
しかしどうにも緊張感を欠いたように、円さんはそばで欠伸を噛み殺している。どんな神経しているのだろう。
まあこの人に限ってはこれが初めてというわけではないから「また来た」感が否めないのだろうが、僕ばかり胃をキリキリさせているのは何だか公平じゃない気がした。
「さあ冗談はさておき、手筈通り行こうか」
簡単な屋敷全体の見取り図を描いたメモを何度目か取り出して、彼は長い指で指し示した。
「これまで俺が潜入したのは本邸と離れと西の道具蔵……そのどこにも骨壺はなかった。あとは南蔵と東の骨董蔵のどちらかということになる。だから警備の厳しい本邸を避けつつ、植栽に身を隠しながら南と東の蔵へ手分けして向かおう」
本当に、何度見ても広大な屋敷だ。
渡り廊下で繋がった三棟の馬鹿でかい居所があり、それらの周囲に東・西・南の蔵が存在する。蔵ひとつでちょっとした一軒家ほどの広さと言うから恐ろしい。
「本邸の方が広そうですけど、こっちは入らなくていいんですね」
「妾の遺骨なんか、普通日常空間に置いてはおかないだろ。森岡正一が存命ならまだしも、
それもそうか。森岡正一が持ち出したらしい遺骨があるとしたら、それは家族の誰にも見つからない場所に隠されているに違いない、ということか。
それは今夜の潜入で見つかるのだろうか。そもそもここにあるという確証はどれほどあるのだろう。銀行の貸金庫だとか、密かに寺の納骨堂だとかに預けていたりしないのだろうか。何とかして不法侵入を避けられはしないかと、脳味噌がフル回転する。が、無情にも円さんは長い黒髪を縛り直して立ち上がる。僕もそろそろ覚悟を決める時が来たようだった。
「ああちょっと待って、圭一くん」
屋敷に足を向けた僕を呼び止め、円さんは手招きする。
「何です――」
振り向きざまに手を引かれ、僕はそのまま彼の腕の中にすっぽり収まった。拒絶する間もなく抱き止められ、背中と肩をぽんぽんと撫でられる。高校へ行った時もやったあれだ。
「はい、これで大丈夫」
「本当にこれ毎回やるんですね……」
きりきりと痛み始めていた頭痛がすっと消えたのがなんか悔しい。
僕から離れ、円さんはさっさと歩み出す。
「さて準備は整った。あっちから入るよ」
敷地をぐるりと囲む垣根に沿ってしばらく進むと、庭の植栽が一際盛り上がる箇所があった。大きな黒松が塀を越えて首をもたげ、青々とした葉を繁らせている。
「初心者におすすめな不法侵入箇所その一はね、鬱蒼とした庭木のある場所だよ」
そんな朗らかに犯罪を教示するな。
まあ確かに何の足掛かりもない塀を登るよりは庭木を伝って侵入する方が容易だろうが、こんな大きな屋敷だ、セキュリティシステムなんかは気にしなくて良いのだろうか。
「赤外線を用いたホームセキュリティはね、優秀すぎて揺れる葉っぱなんかにも反応してしまうんだ。風が強い日なんかはいちいち警報が鳴って面倒だろ、だから最初から植栽周りを避けて仕掛けることが多いんだ」
「どこで覚えたんですかそんな知識……」
「んー? 前に飯を奢ってくれた金持ちに教えてもらったんだ。いやあ、どこでどんな知識が役に立つか分からないよね」
この人に要らぬ知恵を与えた富豪には猛省を促したい。
深々と溜息を吐く僕を置いて、円さんはさっさと黒松の太枝によじ登る。
もうこのままこの人を置いて帰りたい気持ちを何とかねじ伏せ、僕もその後に続いた。
塀を越えて邸内に降り立った瞬間、「ああ人として超えちゃ駄目な一線を超えたな」と神経がヒリヒリする気がした。これで犯罪者の仲間入りだ。
しかし僕の思いなど露ほども気にしない様子の円さんは「じゃ」と早々に駆け出した。
「圭一くん、俺は南の蔵を見てくるから……東は頼んだ!」
あっという間にその背は松林に消え、揺れる黒髪は見えなくなった。
何が悲しくて、深夜の知らない屋敷に忍び込んで他人の母親の遺骨を探さなければならないんだろう。
スマホを取り出すと、仄暗い液晶が零時を回ったことを告げていた。
しばらく眺めることもないだろう。スマホを仕舞い、僕は特大の溜息を吐いて円さんとは逆方向に駆け出した。
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