幕間1-2 夕日家の墓地にて
山間の小さな集落に辿り着くまでに四時間も掛かってしまった。二月の空はまだ寒く、ぐずついた雲が今にも小雪を散らしそうだった。
まったくほんの少しの確認のために足を向けたのに、あまりの悪路に何度途中で引き返そうかと思ったほどだ。
場所は朧げにしか知らなかった。なにしろ実母の墓といっても俺は一度も訪れたことがなかったからだ。
実の母親が既に死んでいると聞かされたのは養父からで、それも死後十数年経ってのことだった。俺が生まれた翌年に亡くなっているらしい。だから俺は死に目どころか火葬前の最期に相見えることもないまま死に別れている。
中学生だか高校生だかの俺は養父に頼んで墓の場所を森岡家に聞いてもらおうとしたのだが、その時はまだ森岡家が骨を預かっているらしい、と聞かされ、墓の場所までは教えてもらえなかった。
その時にしつこく場所を聞いておけば、こんなに苦労せずに辿り着けたのかもしれないな。今更考えても遅いか。
母の顔は知らない。写真などもなかったし、預け先では養母を母と呼ぶようにと言い含められていた。
円、という名前は死んだ実母がつけたらしい。なぜそう名付けたのかを聞く前に、母は手の届かない遠い所に行ってしまった。
しかし会いに行けばまた会える。墓前に行けば、焼かれて骨になった彼女の前に赴き、そこに魂さえあれば話ができるという確信があった。
俺には物心ついた時から人に視えないものが見えたからだ。
半分しか血の繋がらない義姉たちや義母が俺を疎ましく思ったのも、母親が父の愛人だったからというだけではない。俺が皆に視えない何かを指差したり空に向かって会話したりするのを気味悪がったのだ。
そういうこともあり森岡家からは勘当という扱いで家の敷居を跨がぬようにと言い含められている。まあ、人生の始めからずっと芦峯姓で過ごしている俺にはどうということもなかったけれど。
母の旧姓は
地方の山間にある小さな集落に生まれ、森岡家に使用人として勤めに出て、そして父と出会った。どういう経緯だったのか、二十八にもなる俺には想像するに難くないがそういう経緯で俺が生まれ、母は森岡家を追放された。
その後母がどういった人生を送ったのかは定かではない。ただ彼女の生家である夕日家の墓に入ったところを見るに、少なくとも母方の実家との繋がりはあったのだろう。もしかしたらこの田舎に帰ってきたのかもしれない。
死に際に、母は俺を思い出しただろうか。もしかしたら、不遇な人生を送ることになった原因である俺を憎んでいたかもしれない。もし会えば恨み言のひとつでもぶつけられるかもしれない。
それでもいい。どうせここに来たのも大した思い入れがあったからではないのだし、もしそう言われても動じないほどに、俺は大人になっていた。
薄暗い捨て置かれたような林が急に開けて、鼠色の墓石がいくつか立っているのが見えた。
そのうちのひとつに歩み寄ると、途切れ途切れの「夕日家之墓」と読み取れる彫り文字があった。墓石の周りは枯れ尽くした雑草が伸び放題で香炉に灰もなく、一目見て無縁仏であることが分かる。
「……母さん」
そう口にして、思わずむずがゆさを感じてしまう。子どもの頃は会いたくても会えなかった母。消息不明だった母。手紙のひとつもなく、不安に思うこともあった。今更母親が恋しいとかそういう気持ちはないが、ただ不思議な感覚だった。死んだ方が、いつでも会いに来れるなんて。
しかしくすんだ墓石は、何も言わず静かに影を落としていた。
「母さん」
もう一度呼びかけたが、返事はなかった。返事だけでなくそこにいる・いたという痕跡もなかった。いわば魂の残り香のような気配が、そこにはなかった。
訝しみ、墓前に跪いて足元の枯草をかき分ける。
もしかすると、母の魂はもう消えてしまったのかもしれない。この世に未練を失くした魂は輪廻の輪に還り新たな命へ生まれ変わると住職の養父に教えられたが、まあ母にとって、俺は未練ではなかったのかもしれない。
冷えた指先で、納骨堂の石戸を開く。
「これは――」
戸の中は黴のような苔のような臭いが満ちていた。奥にいくつかの簡素な骨壺が並んでいるが、そのどれも外見が風化している。とても十年やそこらしか経過していないようには見えなかった。実際母の気配も感じないから、壺の中身は既に消えてしまった母方の先祖のものなのだろう。
どこを見回しても母の遺骨はない。しかし納骨堂の床をよく見ると、手前の一ヶ所だけ丸い底跡が残っていた。まるでずっとそこにあった何かがなくなったような跡はちょうど骨壺ひとつ分の大きさだった。そのそばで古びた用紙が、折り畳まれて無造作に転がっている。
黄ばんだそれを手に取り、広げてみる。黴に塗れたそれは、手帳の切れ端のようだった。
『彼女を連れて行くことを、どうか許してほしい』
用紙に殴り書いたようなそれを反芻する。母の遺骨を誰かが持ち去ったということだろうか。手帳の隅には、見覚えのある家紋が印字されていた。
「彼女を連れて――」
膝を払い、立ち上がる。口にしてみて合点がいった。母をそう呼ぶ人間は、森岡正一以外に恐らくそういない。死んだ母の遺骨などを誰が欲しがるのか、考えられる場所はひとつしかなかった。
遺骨は森岡家にあるのかもしれない。
なぜそんなことをする必要があったのかは思い当たらない。が、持ち出す人間は森岡正一か、それに近しい人間だろう。森岡家の人間でもなければ、こんな家紋入りの特徴的な用紙など使わないだろうし。
もしかしたら既に遺棄されている可能性もあったが、今も家に仕える人間をひとりずつ虱潰しに当たっていけばきっと辿り着くかもしれない。
「……面倒臭くなってきたなあ」
誰もいない墓石にそう呟いて、俺は打ち捨てられた墓地で天を仰いだ。
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