Scene.12 会敵
嘘のように静まり返った路上で、僕はただへたりこんでいた。首を絞め上げていた黒い影の集積は霧の如く夜闇に溶けて、どろりとした夜の空気が額を伝う汗をぬるりと撫でる。
「大丈夫かい」
円さんは何事も無かったように覗き込むが、およそいま見たもの全てを信じられない僕は精々息を整えることしかできなかった。
「今のは、あれは……何だったんですか」
「そうだなあ、生きてる人への強烈なアンチかな」
飄々とした彼の瞳の奥はしかしどこまでも黒々としていて、およそふざけている風ではなかった。しゃがみ込み僕の背に添えた手は、ちゃんと人間らしく体温を伴っている。
でも何故だろう。僕の脚は今にも逃げ出したくて震えていた。
胡乱げな瞳がそんな胸の内を見透かすようにふっと細くなる。
「不慮の事故だとか、元気だった人が突然不幸に見舞われるとか、目には見えない良くないことが起こるときっと皆「運が悪かった」って言うじゃない? でもそれって大半の人間に視えてないだけで、ちゃんと悪さをする何かがそばにいるんだ。生霊・死霊に怨念の権化……俺にはそれがはっきりと視える。し、どうにかできる」
「どうにか、って」
「早い話、消えてもらう。行く先を見失い今世へ留まる魂が、さっさと次の生へと巡るように」
浮世離れした話は右から左へと耳を通り抜けていく。目の前の僕を見ているようで、その瞳の奥は深い海の底のように暗く静かだった。
粟立った背を隠すように、僕は大きく息を吐いた。
「……まるで霊能者ですね」
「そう呼ぶ人もいるけど、生きている人間と同じように話せて触れられるだけだよ。俺はこの世に縛られた本人の「心残り」を見つけて解いてあげるだけ。帰り道は彼ら自身が選び取らなくちゃ帰れないんだ」
会話ができて触れるのであればそれはもう霊能者と変わりないんじゃないだろうか。僕は釈然としなかったが、差し出された手を素直に握り立ち上がる。
「芦峯さんは、普段からこんなことをしてるんですか」
「ん? 前に言ったじゃない。SNSで困ってる人からDMが届いたら、駆けつけて酒でも飲みながら話を聞いて肩を叩いてやってるって」
そういえばファミレスでそんなことを言っていた覚えはある。あるが、まさか言葉通りそれを生業にしているとは思うまい。衣食住が保証される野良霊媒師って何だよ。
「圭一くん、俺のこと何だと思ってたの?」
「いや……ヒモかなんかだとばかり……」
「酷いなあ」
誰がどう聞いてもヒモだと思うだろ。
おどけたように肩を竦める円さんに僕は何だか気が抜けて、長い長い溜息を吐いた。
そういえば、と思いだしたように円さんは呟く。
「さっき襲ってきたやつは昼間も見たんだけどね。塩見の家で」
治まっていた鳥肌がぶり返した。先程の黒塗りの女性もどきが頭を掠める。首にまとわりつく嫌な冷たさが蘇り、彼を睨んだ。
あんなのが昼もいたってことは、つまり。
「着いてきてるの分かってて放置してたんですか!?」
「まっさかー」
そうは言うが、口の端は笑っている。
確かに今思い返せば塩見さんとの別れ際、円さんは老執事の肩を払うような仕草をしていた。僕には視えなかったけれど、それがついさっき僕を襲った女性だったのだろう。
「人聞きが悪いなあ。一応魔除けの札は君の車に置いてきたから、決して何もしてないわけじゃないよ」
円さんを車から叩き出した後に見つけた謎の紙片を思い出す。あれが魔除けの札だったとでも言うのか。説明もなかったから家に帰って捨てたよあんなもん。
弱い月光を湛える瞳は楽しげに僕を見下ろしている。わざとだ。絶対にわざと見逃したに違いない。
「ひとまず怪異は去った。しかし圭一くん、君は引き続き危険に見舞われるだろう。これは脅しでも予言でもない」
「……また変なのを差し向けるつもりですか?」
訝しむ僕を「そんな悪の魔王みたいな芸当はできないよ」と一笑する円さん。が、それは分かったもんじゃない。
「ただ事実を言ったまでだ。なんせ圭一くんは普段視えない側の人間のはずなのに、どうしてか他人より身体が取り憑かれやすくなってる。ねえどうして?」
「……僕に聞かないでください」
小首を傾げる彼に、思わず目を逸らしてしまう。
霊媒体質だとでも言うのだろうか。これまでこんな心霊現象に巻き込まれたことなんてなかったのに。
別に変な祠に出入りしているわけでもない。一族郎党が呪われているわけでもない。誰かの墓を暴いたわけでも、もちろんない。
ただ心当たりは――ないことはない。
三番シアターで待っている、映画好きの地縛霊を思い出して胸騒ぎがした。まさか彼女との邂逅がきっかけになったのだろうか。いやまさか、もう二ヶ月は通っていて何もなかったのに今更。
ぐるぐると思案する僕を尻目に、円さんは「困ったね」と溜息を吐く。
「本当に困った。これだとウィルス対策ソフトなしにネットショッピングするようなものだ。ただ日常生活を送っているだけで命の危険が及ぶだなんて」
どうにも芝居臭い言い回しに、ちらりと嫌な予感がする。
「……何が言いたいんですか」
「うん? まあ俺と圭一くんの仲だ、たまに会ってその肩にまとわりついた怪異を消し去ってやってもいい。君が望むなら、ね」
やっぱりそう来たか。始めから僕を思い通りに動かすつもりだったのだろう。それこそ森岡邸で出会った時から、僕がこうなるのは決まっていたんだ、きっと。
いつだって僕はこの人の手のひらの上で踊らされる。それがいつまでなのか、終わりなんて来るのか分からないまま、僕は黙って従うほかない。
黒髪を弄る少女の亡霊を想う。
円さんの手にかかれば、きっとくじらちゃんだって消せてしまうだろう。
それだけは避けなければならない。彼の提案を断ることは簡単だが、その前に僕がそこらの怪異に食い潰されるか、円さん自身がくじらちゃんの存在に気付いて消されてしまうかもしれない。彼女を新たな取引材料に使われるのだって嫌だった。
僕の大切な、唯一の映画友達。明日も明後日もその先も彼女と並んで映画を観られるように、この男から隠し通さなければ。
「もちろん――」
「それ相応の協力を、でしょ」
「はは、話が早いね」
諦めた風を装って頭を振り、円さんの瞳を真っ直ぐ見返した。
薄い月をさらうような温い風が吹いて、彼の束ねた髪がさらさらと揺れる。
「交渉成立だ。末永く仲良くやっていこうね、圭一くん」
そう白い手を差し出す彼は、相変わらず軽薄そうに笑った。
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