Scene.11 本日はチキンが半額です
実家に車を戻し、
朝から円さんと謎のドライブに興じて疲弊していたけれど、仕事は仕事だ。じわじわと痛むこめかみを頭痛薬で押し殺して、いつもの制服に袖を通した。
レジに立つと、加温ケースから揚げ物の匂いがこれでもかとする。
「いらっしゃいませー本日はチキンが半額ですーいかがでしょうかー」
もはや口癖になりそうな口上を、閑散とした店内に唱えた。
田舎の人々は帰宅が早いから、十八時台というのは来客の少ない時間帯だ。
不定期で実施するセールの効果が如何ほどなのか単なるバイトの僕には分からないが、それでもこの日のために店長が大量に仕入れた冷凍チキンをひたすら揚げては店頭に出し、可能な限り売りさばくのが僕の仕事だった。
廃棄時間を迎えた古いチキンをケースから取り出していると、ガラスの向こうの人影に気が付いた。
「……いらっしゃいませ」
慌てて顔を上げると、カウンター越しに女性が立っていた。三十代くらいだろうか、長い黒髪を無造作に垂らし、黒いワンピースから覗く腕は痩せていた。
僕は内心驚いていた。いつからそこにいたのだろう。俯きがちの彼女は陰の差した表情で、どこか存在感が希薄だった。
駄目だ駄目だ。お客様に気付かないだなんて、接客業失格だ。
気を取り直し、営業スマイルを浮かべてトングを掲げる。
「本日はチキンが半額です! 如何でしょうかー」
しかし馬鹿に明るい声に、女性は反応を示さなかった。やはり少し俯いたまま、加温ケースの陰からこちらを向いて棒立ちになっている。何か用だろうか。
何と声を掛けようか迷っていると、彼女はようやく口を開いた。
「昼の」
「え」
「昼の、男、一緒にいた。どこ」
ぼそぼそと口の中だけでどもる小声に、思わず聞き返してしまった。
一緒にいた昼の男……というと、もしかして円さんのことを言っているのだろうか。
いや待て、この人は何でそんなことを知っているんだ。というか何者だ。僕はこんな女性には見覚えはないし、縁もゆかりもないはずだ。もしかして円さんの知り合いとか――
必死に頭をフル回転させていると、そばのバックヤードから店長が顔を出した。
「折戸くん、来月のシフトで相談なんだけど……」
「店長、ちょっと今接客中で」
困り顔で弁明する。応対を中断してバックヤードに逃げたい気持ちもあったが、それはそれで更なるクレームに発展しかねない。
が、眠たげな顔の店長はぽかんとして言い放った。
「誰もいないじゃない?」
レジ前に向き直ると、たった今まで目の前に立っていた女性は忽然と姿を消していた。ほんの一瞬の隙に帰ってしまったのだろうか。
「あれ?」
「疲れてるねえ」
苦笑する店長に、僕は頭を搔く。ついさっきまでいたんだけど、おかしいな。
店長の言う通り、疲れているのかもしれない。僕は固く閉まった自動ドアを背にバックヤードへ足を向けた。
六時間の勤務を終え、とっぷりと暮れた夜中にコンビニを後にした。熱帯夜に浅く息を吐いて、自宅に向けて歩き出す。
きっともうモナリ座は閉館した頃だろう。今宵は確か任侠映画二本立てだったはずだ。そういえば今日はバイトだってくじらちゃんに言ってなかったな。
あの後、結局謎の女性はもう来なかった。目的が分からなかったから何とも言いようはないはずだが、万が一知り合いとかだったらいけないと思い、念のため休憩時間に円さんにメッセージを送ってみた。既読にはならなかったけれど。
本当に今日はほぼ一日、あの男に振り回された日だった。生温い空気に伸びをする。
帰ったらすぐ寝ようと心に決め、角を曲がったその時。陰から現れたのは、昼間にレジ前で見た女性だった。
「みい」「つ」「けた」
「わっ……びっくりした」
不意を突かれ、思ったそのままの言葉が飛び出した。彼女は昼よりも表情を暗くし、黒衣が闇に溶けて余計に不気味さを増している。僕の心臓はやたらと早鐘を打った。
「昼……一緒にいた男は」
「もしかして芦峯さんのことですか? あいにく、僕も友達という訳ではないので……」
「いない……」
僕の必死の弁明に、女性は項垂れた。やはり円さんを探しているらしい。
「なんで、どうして」
早くここから立ち去りたい一心で、僕は脇をすり抜けようとする。と、突如黒い手のひらが眼前に迫った。
それが何なのかを認識するより前に、手のひらは僕の口を塞ぎ、首に巻きつき、腹を透過し、頭を握り込み、眼窩をなぞった。もはやそれは腕一本ではなかった。
全身が粟立ったが、脳が痺れて声は出なかった。何だこれ。何だこれ、何だこれ。
空いた両手で僕の顔を引き上げ、女性は鼻先に詰め寄る。冷たい手のひらだった。
「どうしていないのこんなに探してるのに、あああ分からない分からない分からない帰る道のすべてを私はどうしてここもう貴方でいい帰れないの帰れない帰れない帰れない帰れない帰れない帰れない助けて助けて助けて憎い助けて憎い憎い助け憎い憎い憎い殺す殺す殺す殺――」
殺意と憎悪に満ちた言葉が脳髄に直接響き渡る。それは意識の奥に汚泥を流し込まれるような不快さを伴っていた。
呪詛と共に彼女は頸動脈と気管を締めつける。せめてもの抵抗に首から引き剥がそうとした彼女の腕は透け、僕は喉元を掻きむしることしかできない。息ができずに視界は白く瞬いた。
手が、足が……脳が痺れる……。
どうして、貴女は……何。
何が――
「圭一くん」
埋没しそうな意識を引き起こしたのは、半日ぶりの男の声だった。
背後から現れた円さんが僕の肩に触れると、その手のひらを中心に、黒い触手が穿たれたように次々と霧散していく。
突然解放された僕は路上に崩れ落ちた。
「悪いけどそこで動かないで。すぐ終わるから」
短くそう言い、黒い影の塊に対峙したのは紛れもなく昼間に散々僕を連れ回した男だった。が、口調こそ穏やかなもののその背から胡乱さや軽薄さは消え、表情は真剣そのものだった。
ゆっくりと歩み出す円さんになおも女性もどきは影の手を差し向けるが、それらはすべて彼が片手で薙ぐとしゅわりと消えていく。
やがてその手が黒いワンピースの両肩に触れると、彼女は怯えるようにびくりと震えた。
「怖がらないで。貴女が往く道はこちらじゃない。ただ……帰りたかっただけのはずだ。俺が行先を案内するから、あとはひとりで歩いて行けるね?」
凪いだ海のように穏やかに、そう語りかける。小さな子供に言い聞かせるようなその語りに、女性は徐々に影を手放して仄暗い光を放った。
その光が蛍の群れのように散って真夏の夜闇に溶けてなくなる寸前に、円さんはふっと息を吐くように微かに笑った。
「彼は俺の友人なんだ。勝手に連れて行かせないよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます