Scene.9 モナリ座の過去

 助手席の円さんに言われるがままに車を走らせ、気付けば一時間経っていた。

 当の本人はその三十分ほど前に「ここからはこの道をひたすらまっすぐ」とだけ言い、いつの間にか平和な寝息を立てている。

 本当にまっすぐ田園風景を走っていたのだが、山林に差し掛かりカーブを曲がったところで平屋の屋敷が現れた。ここが目的地だろうか。

「人に運転させておいて……着きましたよ、芦峯さん」

「んー」

 門柱の脇に車を停め、助手席の彼の肩を揺らす。円さんが目を覚ますのと、玄関から作務衣の男性が出てくるのはほぼ同時だった。

 老齢の男性は眼鏡のレンズ越しにこちらへ目を凝らし、やがて思い当たったように歩み寄ってきた。

「おや、円さまではありませんか」

 彼は助手席の窓から顔を出した円さんに寄るやそう微笑みかけた。

 柔和な笑みが印象的な好々爺だ。首に掛けたタオルと両手の軍手から察するに、庭の草むしりにでも取り掛かろうとしていたのかもしれない。

 車を降りた円さんも笑顔を向ける。

「久しぶり、親父の葬儀以来かな」

「お元気そうで何よりでございます。お連れ様はご友人でいらっしゃいますか」

「まあそんなところ」

 エンジンを切り、遅れて降り立った僕も会釈した。

「初めまして、折戸と言います」

「申し遅れました、わたくし塩見しおみと申します」

「塩見は長らく森岡家の執事をしていてね。今はこうして引退してるけど、昔の森岡家について知る数少ない人間なんだ」

「執事とは大げさな。わたくしはただ皆さまのお世話を仰せつかっていただけの使用人のひとりにすぎませんよ」

 塩見さんはほほほと笑って手を振るが、確かに真っ白な白髪はぴっちり整えられ、八十は超えているだろうに背筋は曲がっておらず、佇まいからも品格が溢れていた。執事と言われても頷ける。

「近くを通ったからね、寄ってみたんだ」

「そうでしたか。せっかくですし、お上がりください。ちょうど麦茶がよく冷えておりますよ。」

 近くを通ってみた、ね。ここまで運転してきたのは僕なのだが、まあ事細かに説明するよりその方がスムーズに話が進むのなら、黙っている他ない。

 僕らは塩見さんに促され、飴色の玄関の奥へ通された。


 案内されたのは龍の欄間が見事な座敷だった。客間なのだろうそこに腰を下ろすと、清涼な畳の香りが優しく出迎えた。何だか田舎の婆ちゃん家を思い出す作りだ。

 茶を淹れると席を立った塩見さんの背を見送りながら、玄関先での会話を反芻する。

「……”円さま”なんですね」

「塩見は数少ない、俺を森岡家の人間扱いしてくれる人だからね」

「わたくしの中では、円さまは未だ幼い頃のままですよ」

 盆に乗せた冷茶を携え、塩見さんは早々に戻ってきた。執事は引退したと言っていたが流石だ、仕事が早い。

 座卓に三つのグラスを並べて手際良く麦茶を注ぎながら、老執事は口を開いた。

「円さま、また何やら調べ物をなさっているのですか」

「「また要らんことを」と言ってくれるなよ。大丈夫、塩見に迷惑はかけないから」

「滅相もございません。そこまでは申しませんが、また大奥様のお怒りに触れるようなことになりませんよう」

「はは、今日は昔話を聞きたいなって」

 勧められるより前に、慣れた様子でグラスを傾ける円さん。塩見さんの口振りからも察するに、二人はそれなりに信頼のおける仲なのかもしれない。

「親父が作ったモナリ座って映画館があっただろ。彼があれの歴史を調べているんだと」

「そうでしたか。そういうことでしたらこの老体、錆び付いた脳を振り絞ってお話いたしましょうか」

 正座し、盆を脇に置いた塩見さんは「どこからお話しいたしましょうか」と視線を空に投げた。

「そもそもあの映画館は、旦那様が私財を投じて建てられた趣味の館のうちのひとつだったのです。ご自身の趣味に存分に打ち込めるように、そしてそれだけでなく町の皆さまにも広く楽しんでいただけるようにと……最終的には雇用も生まれて街の賑わいに大いに貢献されたのですから、もはや街づくりこそが最大の趣味だったのかもしれませんね。他にもゴルフ場、銭湯、商店街に至るまで多岐に渡りました。人口減少に伴いそのどれもが閉業もしくは閑散としてしまいましたが、それでも市井の皆さまの娯楽に一役買われたのなら、旦那様も本望かもしれません」

 朗々とした語りに、素直に感嘆した。まるで博物館の学芸員のような、淀みも隙もない説明だ。思わず続きに聞き入ってしまう。

「そのうちの映画館ですが……あちらは今から四十年ほど前に作られたものです。現代では一ヶ所に複数のスクリーンを持つ「シネマコンプレックス」が主流ですが、当時はひとつの映画館にひとつのスクリーン、というのが常識でした。旦那様はそこに目をお付けになり、三つのシアターで異なる映画を同時に上映する映画館をお作りになったのです。珍しさと真新しさから話題になり、町内外を問わずたくさんの人で賑わいました」

「凄いな。映画館、俺より年上なんだ」

 円さんはそう麦茶を呷る。

 僕も感心しながらも、眩暈がしそうになっていた。

 四十年近く前にできた映画館。その有する三つのスクリーンで上映された映画となると……年間稼働日数を雑に三百日だと見積もっても、その累計上映回数は三万六千回。そのうち同じ映画が何度再演されたのかは不明だが、それにしても凄まじい本数だ。

 そんな膨大な目録の中から、果たしてくじらちゃんの探す映画を見つけることはできるのだろうか。目の前の湯呑みがぽたりと露を垂らす。

 塩見さんは思い出したように「ああ」と声を上げた。

「あちらに移設して、もう十八年になりますかね」

「以前は別の場所にあったんですか?」

「そうです。なぜそうしたのか旦那様は特段仰いませんでしたが、施設の老朽化などもあったのかもしれません。その辺りは定かではございませんが」

 円さんのグラスに麦茶のお代わりを注ぎながらそう語る塩見さんに、ほんの少しだけ胸を撫で下ろした。良かった、四十年と十八年では調べる範囲がかなり絞られる。ざっと一万六、七千回くらいか。それでも多いけど。

 琳太郎から過去の上映スケジュールが来たら、移設後から僕がくじらちゃんと出会うまでに三番シアターで上映された映画を調べてみよう。


 空のグラスが二つ並び、僕らは暇乞いをすることになった。

 突然の来訪であったにも関わらず、塩見さんは玄関先でもにこやかに送り出してくれる。

 感謝を述べて踵を返そうとしたその時、

「ああ、ちょっと待って」

 円さんは頭を下げる塩見さんに歩み寄った。

 何かあったのか、と首を傾げる僕をよそに、円さんは老執事の肩を叩く。ぽんぽんと優しく、作務衣に付いた埃を払うような仕草だ。何か付いていたのだろうか。

「ありがとうございます。毎度のことながら申し訳ございません」

「良いんだ。茶と話のお礼だよ」

 頭を垂れて恐縮する塩見さんに、円さんはひらひらと手を振る。

 改めて感謝を伝え、僕と円さんは来た時のように同じ車に乗り込んだ。


 車窓を流れ行く田園風景に目を遣り、円さんは自然な動作で冷房を入れた。

「映画館の歴史調査は捗りそうかい」

「……そうですね、お陰様で」

 ちゃっかり強風にされたのを弱風に戻しながら、僕は前方を見据える。

 そうは言ってもなかなか確信に近付いている気はしない。今日分かったのはモナリ座が四十年前に森岡正一の道楽で建てられたということと、十八年前に現在の場所に移設されたということだけだ。何も分からないよりはいいかもしれないが、なかなか推理ドラマのように新たな事実は易々とは見つかってくれない。

 延々と続く田舎道に薄く溜息を吐くと、円さんは思い出したように言う。

「そろそろ俺の探し物の方も手伝ってもらおうかな」

 完全に忘れていたが、そういえばそういう約束だった。僕の調べ物の引き換えに、彼の求める何らかを一緒に探すんだったな。ハンドルを握る手がじわりと汗をかく。

「そういえば聞いてませんでしたけど。芦峯さん、あなたは何を探しているんですか」

 恐る恐る聞く僕に円さんは少し笑い、そしてようやく口を開いた。

「俺はね、母親の遺骨を探してるんだ」

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