泥塗少女|《マッドアイガール》
平賀・仲田・香菜
泥塗少女|《マッドアイガール》
私は彼女にだって、なんの期待も持っていなかった。
友人といえど出会ってからまだ二ヶ月と少し。知らないことのほうが多いだろう。例えば、彼女から借りたノートに必ず書いてある落書きが犬なのか猫なのかの判断もつかないくらいだ。
人懐こい性格と大袈裟な笑い方が心地良い、眼鏡でのっぽのクラスメイト。そして高校に入って、お互い初めての友達。それ以上でも以下でもない関係だから。
大雨が降りしきる泥の中、隣で寝転ぶ彼女に私はなんの期待もしていないのである。
幼少の経験は人格形成に大きく影響を与えるものだ。お気に入りのお人形を水たまりに落としたことか、お爺ちゃん家の田んぼに落ちたことだったか。切欠は定かではないが、それらの事象が私の価値観を決めたことは事実といえる。
塗れた泥に目を奪われる。汚泥に溺れて眠りたい。
息をするにも苦しいほどの雨に打たれる中、セーラー服のまま、傘を放りだした先で新鮮な泥に寝転ぶこと。ぬたぬたとした泥に肌を被われ、衣服が汚水を飲み込んでずっしりとのしかかる。もがくたびに泥は形を変えて、動くこともままならない。
冷たい雨に比べ、地に這う泥のなんと暖かい。私という存在が泥に包まれたとき、私はこの上なく幸福を感じることである。
あまり正道に即した感性でないことは大いに自覚はしている。幼少の頃にこそ泥浴びに友人を誘ってしまうこともあったが、今はもうない。わけのわからぬ汚物を見る目に耐えるだけの度量を持ち合わせてはいないからである。汚物に間違いはないかもしれないが、私はわけのわからぬものではないはずだ。
しかし、実の親でさえ私の行動に目を余らせている。それは当然の話で、大雨の中、泥だらけで帰ってくる娘を心配しない人間などそういない。しかし今ではお互いに慣れたもので、汚れた衣服ごと私を浴槽に放り込んでくれるのだから気は楽である。
高校入学から数ヶ月、季節は梅雨を迎えている。一週間は降り続けている雨に、私はときめきつつあった。雨に、というよりも形成されつつある旧校舎裏の泥にであるが。
新校舎と旧校舎にはさまれ、さらには部室棟と体育館にも囲まれた、ほとんど日の当たらぬ空間を私は知っている。さらにいえば、おあつらえ向きに使われていない花壇も残存している。乾燥した日にこっそりと土に触れたところ、かび臭く湿っていた。
私は心躍った。
長雨を含んだこの土に溺れたい。全身にその泥を塗れたい。
もちろん、誰にもみられず。一人きりで。
そのはずが、私の隣に寝転ぶ女がいる。のっぽで眼鏡の友人だ。
話を聞くと、計画を実行に移そうと朝からそわそわしている私の様子が違和感だったという。何かをやらかすのではないかと心配して、隠れて後をつけてきたのだ。
そこで見かけた私の奇行。鞄を投げ出し、傘を放り投げてセーラー服のまま、田んぼのようにぬかるんだ花壇にダイブ。彼女の心中は察するに余りあるが、目撃されている私の心中もまたである。
私が彼女の存在に気がついたのは、十数分は泥と戯れた後であった。きゃっきゃと無邪気な幼心を満喫していた最中であった。ふと目を向けた先に彼女が口を開けて立ちつくしている。傘こそさしていたが、背の高い彼女のローファーと靴下は跳ね返りで斑に泥が躍っていた。
その瞬間、思い出したのは中学のときに付き合っていた彼氏の顔。付き合い始めて二、三ヶ月の後、たまたま彼にも私の泥浴びを目撃される機会があった。その時の彼の顔と、わけの分からぬ汚物を見る目を思い出していた。
理解のできない存在として、また私は排除されるのかと理解がおよび始めているのその最中。彼女は傘を放りだして私の隣に寝転び始めたのである。もちろん、彼女もセーラー服のまま。何も言わず、何も見ず、ただ雨雲を見つめるように仰向けだ。
それとは対照的に、私は隣の彼女から目を離せないでいた。長い彼女の黒髪には泥の斑点、放射状に広がる様は波紋のよう。べっこうの眼鏡フレームは劣化が心配にもなる。雨水が跳ね返る彼女の顔はどんな表情だろうか、私からは見ることが能わない。長身の彼女が寝転んだ姿は、迫力さえ覚えた。
彼女が何を考えているのかまったく理解ができない。私の奇行を目撃した人間は例外なく暗い目を向けて立ち去るのが常であったから。どうして彼女は立ち去らなかったのか。どうして彼女は泥に塗れることを厭わず私の隣に寝転んだのか。
私が知っている彼女のことなど、人懐こい性格と大袈裟な笑い方が心地良い、眼鏡でのっぽのクラスメイト。そして高校に入って、お互い初めての友達。それ以上でも以下でもない関係。
だから私は、大雨が降りしきる泥の中、隣で寝転ぶ彼女に私はなんの期待もしていないのである。
いい加減に居心地がわからなくなってきたころ、彼女は突然上体を起こして口を開いた。
「良さはわからんなー。次から私は座ってあんたを見てるわ。傘はさすけど、堪忍な」
それだけいうと、彼女は身体を冷やしたのか腕をさすりながら立ち去っていった。最後に振り返り「風邪ひくなやー」とだけ叫んでいなくなった。
その日の帰り道。水たまりに映る顔をみるたび上がる口角を抑えることに必死だった。私を風呂場に連行する母の腕も心なしか柔らかかったように思えている。
泥塗少女|《マッドアイガール》 平賀・仲田・香菜 @hiraganakata
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