最終電車で出会った美女が俺の人生を変えた

春風秋雄

今日も最終電車だった

俺は、最終電車に揺られながらウトウトしていた。このところ仕事がきつい。やはり、そろそろ社員を雇うべきなのだろう。数年前までは社員は3人いた。しかし、彼らは社長である俺の言うことを一向に聞こうとしなかった。どれだけ仕事がたまっていても定時で帰る。ちょっと難しい作業を頼むと「私にはできません」の一言で、やろうともしない。結局仕事のほとんどは俺一人でやることになり、給与だけは払わなければならない状態になって、俺は顧問弁護士に相談して、3人を解雇した。それ以来、社員を雇う勇気がなく、一人で仕事をしてきた。しかし、さすがに今の仕事量は一人では無理だ。収入はそれなりにあるので、受ける仕事を減らせば良いのだが、顧客に頼まれると断れない性格の俺は、ついつい引き受けてしまう。自分が自分で情けない。俺は子供の頃からそうだった。他人から何か頼まれると断れない性格だった。

そろそろ終点の駅に着く。この時間にこんな郊外の終点まで乗る乗客はそれほどいない。この車両にも俺を含めて3人の乗客しか乗っていない。その中で、俺の向かいの座席に座っている女性は、よほど疲れているのだろう、ずっと寝ている。まだ若そうなのに、カバンを抱くようにして俯き、だらしなく足を開き、スカートの中が見えそうになる。俺はなるべく前を見ないようにしていた。電車が終着駅のホームに滑り込んだ。やっと家に帰れる。電車が止まって、俺はカバンを持ち立ち上がったが、前の女性はまだ寝ている。仕方なく俺は女性に声をかけた。

「終点に着きましたよ」

女性はびくともせず、起きる気配がない。放っておけば駅員が起こすだろうとは思ったが、ずっと気になっていた女性なので、もう一度声をかける。

「終点に着きましたよ」

今度は軽く肩を叩きながら声をかけた。やっと女性が顔をあげた。まだ夢を見ているような顔だ。

「ここどこですか?」

「終着駅ですよ」

俺はそう言って駅名を言った。途端に女性が青ざめた。

「乗り過ごした!」

女性はそう言って、慌てて立ち上がり、ホームに飛び出した。乗り過ごした?大丈夫か?この時間なので、上りの電車はもうない。すると、タクシーで戻るしかないが、この駅は昼間でもタクシーに乗る人はほとんどいないので、この時間になるとタクシーはいない。電話をしてタクシーを呼ぶしかないが、きてくれるのだろうか。来てくれたとしても結構時間がかかるような気がする。他人事ながら、俺がそんなことを考えながら改札を出ると、案の定、女性が駅前で茫然と立ちすくんでいた。

「大丈夫ですか?」

思わず俺が声をかけると、女性が振り向き、俺を見た。

「ここ、タクシーはいないのですか?」

「みんな駅の周りの駐車場を借りてここまで車で来ていますからね。タクシーに乗る人はほとんどいないので、この時間になると客待ちをしているタクシーはいないですね。家はどこの駅なのですか?」

女性は3つ前の駅名を言った。寝過ごすにしても、3つも駅を乗り越したのか。これは大変だ。タクシーでも結構お金がかかる。女性が泣きそうな顔をして俺を見る。仕方なく俺は言ってしまった。

「私が車で送りましょうか?」

途端に女性の顔が明るくなった。

「いいんですか?」

「仕方ないでしょう。こんな時間に若い女性をこんなところに一人にしておけませんから」

他人から頼まれると断れない性格の俺だが、今は頼まれもしないのに、俺の方から言ってしまった。おそらく、この女性がとても綺麗な女性だったからだろう。


俺の名前は安原繁幸。グラフィックデザインを中心としたデザイン事務所を経営している。学生時代から他人から頼まれると嫌とは言えない性格だったので、組織の中で仕事をするのは嫌だと思っていた。それで趣味だったイラストレーターの仕事を始めたが、俺の仕事が評判を呼び、そのうち様々なデザインを手掛けるようになり、都心に事務所を借りて会社組織にした。一時は2人のイラストレーターと事務員を雇っていたが、今では一人で何もかもやっている。おかげで36歳になるのに、彼女も出来ずに独身だ。本当は事務所から近いところにマンションでも借りたいのだが、亡くなった両親が残してくれた実家を手放すのが忍びなく、不便を感じながらも実家から通っている。


俺は駅前に借りている駐車場まで女性を連れて行き、車に乗せた。車に乗せる前に、女性が安心するように、俺は名刺を渡し、自己紹介をした。女性の名前は菅原千紗さんと言った。

女性から住所を聞いてナビにセットする。所要時間は20分になっている。往復で40分かかるということか。寝るのが1時間くらい遅くなるなと思いながら、車を発車させた。

「菅原さんは、いつもこんな時間までお仕事なんですか?」

「ええ、うちはブラックですから」

「転職は考えないのですか?」

「うちは母親と二人で暮らしているのですが、今母親が働けない状態なので、私の収入だけが頼りなんです。ブラックでも給料は良いので、やめるにやめられないのです」

「お母さんはまだお若いのでしょ?ご病気か何かですか?」

女性はどう見てもまだ20代だと思ったので、俺はそう聞いてみた。

「母はまだ54歳です。長い間経理の仕事をしていたのですが、働いていた会社が倒産して、次の仕事を探そうにも年齢的に経理の仕事で雇ってくれるところがなくて、仕方なくスーパーでパートをしていたのですが、家の階段を踏み外して足を骨折してしまって、立ち仕事が出来なくなってしまったのです」

「お母さんの足は大丈夫なのですか?」

「まだちゃんと歩けないですね」

「早く良くなるといいですね」

しばらく無言で走っていると、菅原さんの携帯が鳴った。電話の会話を聞いていると、帰りが遅いのでお母さんが心配して電話してきたようだった。菅原さんは電車を乗り過ごしたこと、俺に車で送ってもらっていることを説明していた。

家が近づくと、菅原さんはお母さんに電話をした。お母さんは、家の前で俺たちが着くのを待っていてくれた。車を止め、一応俺も車から降り、お母さんに挨拶をする。54歳だと言っていたが、もっと若く見える。そして、とても綺麗な人だ。菅原さんの容姿はこの母親から受け継いだものなのだろう。お母さんは、何回も俺に頭をさげ、ビニール袋を持たせてくれた。中を見ると金柑が10個ばかり入っていた。うちの庭で採れたものだとお母さんは説明してくれた。

二人は俺が車を発車させても、しばらくは見送っている姿がルームミラーに映っていた。


菅原さんを電車で見かけたのは、あれから3日ほど経ったときだった。俺が電車に乗ると、菅原さんが先に乗っており、俺に気づいて会釈してくれた。今日も最終電車だった。菅原さんは先日会ったときよりも疲れた顔をしていた。俺も会釈を返し、座席を見渡すと菅原さんから離れた席だが、ひとつ空いていたので、そこに座った。俺はしばらく本を読んでいたが、そのうちウトウトと寝てしまった。俺は終点まで乗るので乗り過ごすことはない。ふと目を覚ますと、周りに人はいなく、この車両には俺と菅原さんだけだった。菅原さんはぐっすり寝ている。今どこを走っているのだろう?時計を見ると、もうすぐ終点に着く時間だった。やばい、菅原さんはまた寝過ごしたようだ。気を付けて菅原さんの最寄り駅で起こしてあげるべきだった。しばらくすると、終点に着くとアナウンスがあった。しずかに電車が止まる。俺は菅原さんに近寄り、やさしく起こしてあげた。

「菅原さん、終点ですよ」

菅原さんが目をさます。

「私、また寝過ごしました?」

「そのようですね」

菅原さんがすがるような目で俺を見る。

「いいですよ。また送って行きます」


車のナビの履歴から菅原さんの家を呼び出しセットする。

「一度ならず二度までも、本当に申し訳ありません」

「べつにそれは良いのですが、あなたは早く転職した方がいいですよ。今のままだと、体を壊しますよ」

「そういう安原さんも、こんな時間まで仕事なんでしょ?」

「まあ、私の場合は社員を雇っていないので、自業自得なんです」

「社員を雇わないのですか?」

「私は人に強く言えない性格なので、社員になめられてしまうのです。だから社員を雇うのに躊躇いがあるのです」

「それはたまたま雇った社員が悪かったのですよ。普通は給料をもらうために、社長の言うことは聞くものでしょ?」

「そうだとは思うんですけど」

「安原さんの会社、株式会社ギブズ・ドリームスって、何の会社なのですか?」

「イラストやグラフィックデザインを制作しているデザイン事務所です」

「デザイン事務所?ひょっとして社員募集をするとしたら、イラストレーターですか?」

「そうですね。イラストレーターと、できたら経理が出来る事務も雇いたいところです」

「あのー、私を雇ってもらえませんか?私イラストレーターなんです」

「うそ?菅原さんはデザイン事務所で働いていたのですか?」

「そうです。社長が儲けの少ない小さい仕事を次から次へと請け負ってくるので、毎日毎日が締め切りで、みんなヘトヘトになって仕事をしているのです」

「そうだったのですか。雇えるかどうかは、菅原さんのデザインを見てみないと判断できませんが、今の会社では給料はどれくらいもらっているのですか?」

菅原さんは額面を教えてくれた。うちで以前雇っていた社員に渡していた額より、はるかに安い。

「じゃあ、一度デザインを見せてもらえますか?」

俺たちは連絡先を交換した。


次の休みの日に、俺は菅原さんの家にデザインを見せてもらうために出向いた。本当なら事務所に来てもらうのが良いのだろうが、わざわざ俺から出向いたのは、菅原さんの家に行ってみたかったからというのもあるが、お母さんにも会いたかったからだ。

「わざわざ申し訳ないです」

菅原さんが恐縮して出迎えてくれた。早速菅原さんの部屋でデザインを見せてもらう。センスとしては特別目を引くというほどではないが、とても丁寧な仕事をしている。これなら俺のサポートをしてもらえそうだと思った。

お母さんの勧めで、俺は夕食を一緒に食べることになった。

「安原さんには、千紗が2回も送ってもらったうえに、安原さんの会社で雇ってもらえそうだというから、本当に感謝しているんです」

「お母さん、まだ雇ってもらえるかどうかわからないんだから、そんなこと言わないで」

お母さんが先走って言うものだから、千紗さんが慌てて窘めた。

「いや、先ほどデザインを見させてもらいましたが、充分戦力になると思いますので是非うちで働いてください」

「本当ですか?」

「ええ、お願いします。それで、給与はこれでどうでしょう?」

俺はあらかじめ用意していた明細書を渡した。

「こんなにもらえるのですか?」

「当然の報酬だと思います」

千紗さんがお母さんに明細書を見せている。お母さんも額面を見て喜んでいた。

「千紗さんから聞きましたけど、お母さんはずっと経理の仕事をされていたのですよね?」

「ええ。若い頃から経理の仕事をしていて、主人と結婚してからは主人の会社の経理をしていました。主人が亡くなって、会社を畳んでからも、この子を育てるために経理の仕事で勤めにでていたのです」

「だったら、スーパーのパートは、慣れない仕事で大変だったんじゃないですか?」

「そうですね。出来たら経理の仕事をさせてもらいたかったのですが、他に経理の人はいるということで、品出しからレジ打ちまでやりました」

「それで、お母さんさえ良ければ、うちの会社の経理をやってもらえないでしょうか?」

「私がですか?」

「ええ。千紗さんと同じ職場ということになりますけど」

「そんな、私と会うのはまだ三回目で、前の二回は挨拶だけしかしてなかったのに」

「初めて会った時、庭で採れたものだと言って、金柑をもらったじゃないですか?」

「ええ」

「うちの庭にも金柑があるんです。でも、うちの金柑は手入れが良くなくて、実は小さいし美味しくないんです。でもここの庭の金柑は美味しかった。よく手入れをされているのだなと思いました。そんな人なら、丁寧な仕事をしてくれるだろうと思ったのです」

お母さんは、驚いたように俺の顔をジッと見て、それから頭を下げた。

「よろしくお願いします」

それにならって千紗さんも一緒に頭を下げた。


それから俺たちは金柑の甘露煮を食べながらお茶を飲み、色々な話をした。話の中で、千紗さんの年齢が28歳だということを初めて知った。

俺は、社会人になってすぐに両親が事故で一緒に他界したこと。小学校6年生の時に、まだ築3~4年の中古住宅を購入して、その住宅ローンを返済するために両親は共働きで結構苦労していたこと。その苦労を見ていたので、家を売る気になれず、職場から遠くてもいまだに実家に住んでいることなどを話した。

千紗さんのお父さんについて尋ねると、千紗さんのお父さんは建築士で、小さな工務店を経営していたが、千紗さんが3歳のときに病気で他界されたと教えてくれただけで、多くは語らなかった。あまり思い出したくないのだろう。


菅原母娘がうちの会社で働くようになって、半年が過ぎた。二人は良く働いてくれた。特にお母さんの方は、経理のベテランだけあって、税理士と対等に話をしているので驚いた。千紗さんは締め切りが近づくと遅くまで仕事をしてもらうことがあるが、それでも遅くとも8時には会社を出るので、前職のように最終電車になることはない。千紗さんがサポートしてくれるおかげで俺も以前よりずっと早く家に帰れるようになった。お母さんの方は5時にあがってもらい、家の事ができるようにしてもらっている。仕事が早く終わり千紗さんと一緒に会社を出るときは、俺も夕食によばれ、ご馳走になることもある。そういう時は車ではないので、お酒も飲める。千紗さんもお母さんもお酒は好きなようで、陽気に会話が弾む。俺はこの母娘のことが好きになって来た。特に千紗さんは可愛くて、こうやっていると従業員だということを忘れて、一人の女性として見てしまう。家族がいない俺としては、この母娘と家族になりたいという気持ちが段々強くなってきた。しかし、ただでさえ他人に自分の気持ちをうまく伝えられない性格の俺は、千紗さんに自分の気持ちを伝えることは出来そうになかった。また、仕事のことを考えると、気持ちを伝えて断られた場合、一緒に仕事をしづらくなるのではないかという不安がぬぐい切れなかった。


大きな案件の納品が終わり、ひと段落した日、俺は千紗さんと一緒に帰った。最終電車ではないので、電車は混んでいる。ドアの近くに二人向かい合って立っていると、電車の揺れで時々千紗さんが俺の胸に顔をうずめる。シャンプーの良い香りがした。いくつか駅を過ぎると、ポツポツと席が空いてきた。俺はこのまま千紗さんのそばに立っていたかったが、二つ並んだ席が空いたところで、千紗さんが座り、俺を手招きした。俺たちは並んで座った。周りの人が気になって、とくに話はせず、俺はジッと外を見ていた。そのうち千紗さんはウトウトしだし、俺の肩に頭を預けてきた。まるでカップルの様で、俺は照れ臭かったが、千紗さんを身近に感じて心地よかった。

いつの間にか俺も眠っていたようだ。気が付くと終点だった。千紗さんは俺の肩に頭を預けたまま寝ていた。久しぶりに乗り過ごしたようだ。

「千紗さん、終点まで来てしまったよ」

千紗さんが目を覚まして周りを見る。

「本当だ。久しぶりにやっちゃった」

「いいよ。まだ時間は早いし、送って行くから」

まだ上り電車で引き返すことは出来るが、俺はそう言った。

車に乗ってナビをセットしようとすると、唐突に千紗さんが言った。

「安原さんの家に行ってみたいです」

「俺の家に?」

「ご両親が大切にされていた家なのですよね?どんな家か見てみたいです」

時間はまだ早いので、俺は千紗さんを家に案内することにした。

家の駐車場に車を止め、千紗さんを家に案内しようとすると、千紗さんは庭の金柑の木をジッと見ていた。

「全然手入れしていないから、可哀そうな状態でしょ?」

「ちゃんと剪定をして手入れすれば、美味しい実がなりますよ」

「そう思うんだけど、なかなかね」

家にあがると、千紗さんは部屋を見てもいいですかと言って、各部屋を見て回った。この前の休みに片づけをしておいて良かったと思った。一通り見て回った千紗さんがリビングに戻り、キッチンを見ながら言った。

「私、何か夕飯を作ります。一緒に食べましょう」

「お母さんが作って待っているのではないの?」

「大丈夫ですよ」

千紗さんは、冷蔵庫を漁って、ありあわせの物で野菜炒めを作ってくれた。千紗さんは車で送ってもらわなくても電車で帰るので、お酒を飲もうと言って、冷蔵庫からビールを出してコップに注いでくれた。


何本目かのビールを開けながら千紗さんが聞いてきた。

「安原さんは、結婚はしないのですか?」

「しないのではなくて、相手がいないから出来ないのです」

千紗さんがジッと俺の顔を見る。俺はその迫るような目にたじろいだ。

「安原さんは、他人から頼まれたら断れない性格だと言っていましたよね?」

「ええ」

「私の頼みも断りませんか?」

俺は千紗さんの顔を見て身構えた。千紗さんは俺の返事も聞かず、言葉を続けた。

「私と結婚してください」

千紗さんが言った言葉は、耳では確かに聞こえたのだが、俺の頭はすぐには理解できなかった。俺が黙っていると、千紗さんは悲しそうに言った。

「私の頼みは聞いてもらえないのですか?」

反射的に俺は口を開いた。

「千紗さんから頼まれたからということではなくて、私の方からお願いします。千紗さん、私と結婚してください」

途端に千紗さんの顔が真剣になった。そして立ち上がり、俺のところまで来ると、俺の手を掴み立たせた。千紗さんは立ち上がった俺の手を引っ張り、リビングを出て、どこかへ連れて行こうとする。千紗さんは迷うことなく俺を寝室に連れて行くと、ベッドに俺を引きずり込んだ。千紗さんは、最初からこうするために部屋の確認をしていたのか。ひょっとすると終点まで乗り過ごしたのも、最初からそのつもりだったのかもしれない。女性にそこまでされて、男としては応えないわけにはいかない。俺は千紗さんを抱きしめ、唇を合わせた。そして、ゆっくりと千紗さんが着ている服を脱がせていった。


俺と千紗さんが結婚すると聞いて、お母さんは手放しで喜んでくれた。今住んでいる家は賃貸だというので、結婚したら俺の家にお母さんも一緒に住んでくださいと言うと、新婚の邪魔をしたら悪いから、一人で今のところで暮らすと言う。一緒に暮らせば家事も手伝ってもらえるし助かると千紗さんが説得しても、あなたたちの子供が生まれたら考えますと言うだけで、なかなかウンとは言ってくれなかった。部屋数はあるので、一緒に住んでも新婚生活の邪魔になることはないので、一度家を見に来てくださいと説得すると、渋々家を見に来てくれることになった。


休みの日に車で迎えに行き、千紗さんとお母さんを乗せ、俺の家まで移動する。車の中でお母さんは、千紗さんと結婚してからのことをあれこれ話していたが、俺の家が近づくと言葉数が少なくなり、もうすぐ着く頃には黙り込んでしまった。そして家に着いてもなかなか車から降りようとはしなかった。

「お母さん、どうしたの?着いたから、降りてよ」

千紗さんに促されて、お母さんはやっと車から降りた。

庭に入ったお母さんがボソッとつぶやいた。

「こんなことって、あるのね」

俺も千紗さんも、お母さんが何を言っているのか理解できず、お母さんの顔を見た。

「この家は、千紗が3歳まで住んでいた家よ」

千紗さんの顔を見ると、千紗さんも寝耳に水のようだった。

家に入るなり、お母さんは懐かしそうに周りを見渡す。廊下の柱の下についている傷を愛おしそうに撫でながら言った。

「この傷は千紗が三輪車をぶつけてつけた傷」

それから家の中をぐるりと見て回ったお母さんは、リビングに座り話してくれた。

「千紗、この家はね、千紗が産まれるときに、お父さんが設計して建てた家なのよ」

俺と千紗さんは顔を見合わせた。

千紗さんのお父さんは建築士で、小さな工務店を経営していたそうだが、千紗さんが3歳の時に病気で他界し、建築士のお父さんがいなくては、会社運営は成り立たないため、やむなく家を売って社員の給与と退職金を出し、そして下請けへの支払いを済まして会社を清算したということだ。お父さんとの思い出が詰まった大切な家だったけど、こればかりは仕方ないと泣く泣く家を出たそうだ。庭に金柑を植えたのもお母さんだということだ。引っ越し先を色々探していたところ、たまたま庭に金柑が植えてある借家をみつけたので、そこに住むことにしたということだった。そして、菅原さん一家が手放した家を俺の両親が購入したというわけだ。

「安原さんと千紗を引き合わせてくれたのは、お父さんだったのかもしれないね」

不思議な縁としか言いようがなかった。

「安原さん、私もここに住んでもいいかしら?」

「もちろんです。そして、金柑の世話をしてください」

お母さんが嬉しそうに微笑んだ。

「まさか、あの人が建てた家に、もう一度住めるとは思わなかった。ありがとう安原さん」

お母さんは、そう言ってハンカチで目頭を押さえた。

生前お袋は、この家は家族のことをよく考えた造りになっている。とても住みやすい家だと言っていた。この家を設計した千紗さんのお父さんが、どれほど家族のことを思っていたのかがうかがえる家だ。

俺が、どうしてもこの家を手放せなかったのは、千紗さんと出会うためだったのかもしれない。


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