ものの見え方

 父・直幸は思案気に腕組みをした。


「まあ、良太は知らなくてもいいんだよ。古臭い話だし、はっきり言って聞いてて気持ちのいい話でもないからな。ただまあ……良太も高校生だもんな。なんというか、そういう時代もあったし――表向きにはないことになってるけど今もそれなりに残ってる話なんだよ」


 奥歯に物が挟まったような言い方だった。昔からそうだ。父だけでなく母の奈々子もときおり、そういう話し方になる。そうなる話題はたいてい二人の実家が絡む。詳しい事情は聴かせてもらえず、最後は必ず、良太は知らなくていい、で終わる。


「……あのさ」

「いや、うん。分かってる。内緒話だ。だから――」

「ヨソでは絶対に言うな、でしょ? 分かってるよ。しつこい」


 もう子供じゃない、とうっかり口にしそうになった。言うだけ無駄だ。直幸にとって良太はいつまでも子供で、都合よく大人にさせられるのだから。やり場のない反発心が言葉を研ぐ。


「まず、どこから話せばいいのやら――」


 直幸が顎を上げ、小さく息をついた。


「遡ると長い話になるから、めいっぱい編集カットを入れるとだ、向こうで使ってたあの本だらけの古い家あるだろ? あそこは元は菊池家の本家筋で使ってて、後になって分家筋に管理を任せた家らしいんだわ」

「……本家と分家って、どこで分かれたの?」

「ああ、それは俺も――父さんもよく知らないんだ。ただまあ、父さんの爺さん――だから良太にとってのひい爺さんの頃にはもう東京に暮らしてる。それこそ深川とかその辺だったとか。大元は材木屋だか大工だか……要は職人さんだな。だから昔風に言えば父さんは江戸っ子だったってことになる。まあ思ったことはないけどな」

「江戸っ子って……なんか、時代劇みたいな」

「ハハハハ!」


 直幸は楽し気な笑い声を上げ、それなとばかりに指を振った。


「実際、時代劇の世界だよ。ひい爺さんは大正生まれだし、大正は十四年しかないからな。ひい爺さんの親にその上にってなるともう明治時代だ。いつから江戸で暮らしてるのか知らないけど、地方から江戸に出てきて一旗揚げて、子どもがでっかくなったら戻ってきた、みたいなことだったらしい。材木屋って話が本当なら向こうの山のいくつかも持ってたとかな。細かいことは全く知らない。古すぎて。でも、分かることはある」


 その分かることというのが、良太の曽祖父は間違いなく江戸っ子――あるいは江戸っ子の末裔であるということだ。


「江戸っ子の定義ってのがまたややこしいんだ。何か知らないけど、三代つづけて江戸生まれの江戸育ちなんだそうで、それも下町じゃなきゃいけないんだと」

「……え、なんで?」


 シンプルに理由が分からなかった。江戸に生まれ育つだけでは何が足らないというのか。

 直幸は分かる分かるとばかりに頷き、わざとらしく辺りを気にして声を低めた。


「まあ簡単にいうと、江戸の終わりに山の手に住んでたのは田舎者だったわけだ」


 え、と絶句する良太に、うんうんと満足そうに首を振り、直幸は言った。


「知ってのとおり江戸の終わりが明治の始まりなわけだけど、あれはひい爺さんみたいな江戸っ子からすれば軍事クーデターなわけだ。それも薩長だかなんだかいう良く分からん土地から来た田舎者がやったことだと」


 王政復古により日本の中核は一旦、京都に戻る。つまり天皇と朝廷だ。しかし実際上の政治の中心は江戸にあり、そのまま乗っ取る形を取ったため、天皇を江戸城に迎え入れることになる。京都の反発は必至だ。そこで本拠は京都に残し、別邸という体裁で皇居へと名を変える。


「結果として政治の中枢を担うのは田舎者で、昔の外様大名が住んでた武家屋敷らへんを田舎者がそのまま引き継ぐと。で、それが江戸っ子的には面白くない。面白くないけど対抗しようにも江戸っ子に金はないんだな。なにしろ宵越しの金はもたない主義だから。そこで江戸っ子すなわち文化人を気取りたけりゃ下町で三代つづいてからにしろい、とそういうわけだ」


 直幸は声を殺して笑った。


「そういう意味じゃ、厳密にはひい爺さんも江戸っ子とは言えない。その前もな。何しろ東京で稼いだ金を、せっせと地方に貯めこんだわけだから。どっちかっていうと、二百年ばかし時代を先取りした出稼ぎ労働者って感じなんだろうな」


 話を聞きつつ、良太は調べていたことをぼんやり思い返した。江戸の定義は朱引きで決められている。明治時代にも拡大する江戸に線を引いた。


 なるほど、代を重ねながら、いずれ家長は田舎に戻るのだとすれば、厳密には江戸っ子とは言えないのかもしれない。いやしかし、そもそもそれがなぜ、直幸の大叔父から受けた手ひどいからかいの言葉を笑えるのか。


「さっきの皇居の話じゃないけどな。菊池家――なんて名乗れるほど大層な家でもないんだけどさ、父さんからすると本拠は東京で、別邸が向こうなわけだ。で、別邸の管理は昔は家長が、ひい爺さんの頃くらいには分家筋――つまりひい爺さんの弟の家が任されたりしていた」


 直幸はホラー映画を一時停止し、良太のほうに向きなおった。


「面白くなかったんだろうな、大叔父さんは」


 田舎で本家を盛り立てるように生活し、いずれは本家筋の人間が使う家を管理する。田舎ゆえに大人物だの名のある家だの言われていても、いざ兄が帰ってくれば田舎者あつかいされてしまう。たいした稼ぎもないくせに、と忸怩たる思いを抱えていたに違いない。


「そこで出た言葉が、お前は橋の下で拾われたそうだぞ、というわけだ。橋の下ってのはとりあえず雨風が凌げるからな。正体のしれない輩が暮らしていると。なにせほら、父さんの家は川の手前あたりだったからさ。それを知って覚えたばかりの言葉でバカにしてやろうというわけだけど――」


――バカヤロー、広重ひろしげも知らねえのか。橋は橋でも両国橋ならてえしたもんだ。


 と、大叔父が引っ込むのを待ち曽祖父がぼやくのを――それも江戸時代の浮世絵師、歌川うたがわ広重の名を引き合いにぼやくのを――聞いたため、直幸は思わず笑ったのだという。


「しっかし、良太もよくそんな細かいこと覚えてたなあ。正直あれだ、あの話を始めてすぐヤバいと思ってな。子どもに聞かせるには難しいし、時代錯誤もはなはだしいから。だから細かいところは端折はしょって話したんだよ。実際、あとで奈々ちゃ――母さんにも怒られたし」

 

 父・直幸はしょうもない話でがっかりしたろ、と付け加えたが、良太はそうでもないよと曖昧に笑い返した。東京の高級住宅地に住んでいる人を東京人と認識していた彼にとって、東京人の定義の揺らぎは充分すぎるほど大きな意味を持っていたのだ。

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