反転

 自宅に戻った良太は自室のベッドに横たわり、今日の調査報告を怜音に送った。


 つまり、目下のところ成果なし。


 調査一日目から何か分かるということはない。それは怜音も承知しているだろう。だから返信は時間があるときでいいと付け加えもした。中村由佳が約束を忘れていなければウカガイ様のもじきに届くはずだ。その間にできることといえば考えることくらい。


 足が鉛のように重かった。


 あの後、だいぶ慣れたつもりでいた通学路をそのまま引き返すことはできなかった。それまで鈴の音を頼りにウカガイ様の存在を把握していただけに、音もなく動けると分かったことで尾行ツケられていたら――かれていたら、という考えに頭を支配されてしまった。


 入学前最後の面談で、タクシーを捕まえた母がそうしたように、いくつもの角を曲がらなければならなかったのである。通学路を除けばほとんど知らない土地だ。あまり大きく道を外れることはできない。


 けれど悠長にもしていられない。

 下手にグルグルと回っていたらウカガイ様に遭遇してしまうかもしれない。

 そのときウカガイ様は、鈴を手の内に握りこんでいるかもしれない。


――自分は、とてつもない存在を相手にしてしまったのではないか。


 そんな、後悔に似た感情を拭いきれない。

 いくら神の代行といっても所詮は人で、同級生で、少女であるというのに。


 恐れを振り払うには知るしかないといっても、知らなければならないことが多すぎた。それに対して知る手段は少なすぎる。先に知らされた対抗策は無視するということ。母が口にしたウカガイ様を追い払う呪文とやらは担任の教師がやんわりと否定した。


 かつて存在したルールが今はなく、今のルールがいつまで続くのかも分からない。

 できるのは神の乱心に目を伏せ、耐えながら、怒りを買わないようにすることくらい。


――これが、おそれ敬うということなのだろうか。


 吐きだすたびに息が重力を増していく。

 母が帰宅し、夕食の準備が整い、父が戻った。連絡はなかった。怜音からも、由佳からも。


 いつの間にかあか抜けて慣れない味に変わっていた夕食を片付けながら、良太は尋ねた。


「――ちょっと気になってたんだけど、ウカガイ様って会社にもいたりするの?」


 それとなく尋ねたつもりだが効果はなかった。話題自体が自然を装うには無理がありすぎる。

 両親は一瞬、箸を止め、何をバカなと言わんばかりの笑みを見せ、父の直幸が言った。


「いや、いないよ。父さんが子供のころは――小、中、高までだったかな」


 母・奈々子が、食事中にウカガイ様の話なんて、と非難がましい目を直幸に向けた。それから良太のほうに首を振る。


「いつまでも気にしてたってしょうがないでしょ? そろそろ慣れないと勉強だって――」

「分かってるよ」


 煩わしさが良太の声に滲む。言われなくても分かっているのは本当だった。考えるには情報が乏しく、授業の復習をするしかない。けれど、頭の片隅に――それでいながらあまりに強い圧を放つ――ウカガイ様がいる。集中力できるわけがなかった。


 食事を終えてからも、良太は何するでもなくリビングに残っていた。

 待っていたのだ。父と二人きりで話す機会を。

 その直幸はソファにもたれて映画を見ていた。インディーズ――自主制作のホラー映画だ。


 それなりに家事の手伝いをし、受動的ながら頼まれればいわゆる家族サービスもする、少なくとも家長として合格点はあげてもよさそうな直幸の、いくつかある欠点の一つ。家族にはあまりこころよく思われていない趣味の一つがグロテスクなホラー映画の鑑賞だった。


 母の奈々子は何が面白いのか分からないと述べて退散するのが常で、良太は画面を見るのも隠れているのも嫌だった。くわえて、文句を言うのも嫌だった。


 それは怖がっていると思われたくないから――ではなく。

 良太が文句を言えば、おそらく直幸はどこかに隠れて見るだろうから。


 そうして今まさにしているように、目を覆いたくなるほど残虐な血しぶき乱れ飛ぶ映像を見ながら滑稽とばかりに笑っているだろうから。部屋にこもって粒子の粗いホラー映画を見ながら笑う父を生むくらいなら、同じ空間にいるほうがマシだった。


「良太ー? お風呂はいっちゃってー」


 リビングの外から母の奈々子がそう声を投げてきた。

 直幸と奈々子はホラー映画趣味を否定しないが、肯定もしない。人間は誰でもひとつくらい欠点があるからと大っぴらに言い、ひどいなと父が笑うのもいつものことだ。


 良太はちらと直幸の様子を――画面を見やった。

 鬱蒼とした暗い森のなかを、血と泥で汚れた女優が泣きながら走っていた。何かに追われているのだろう、しきりに振り返っている。もうすぐ残虐シーンが来るかもしれない。


「良太ー?」


 返事が遅いからだろう、奈々子の呼び声が繰り返す。直幸は振り向きもしない。タイミングとしては、今をおいて他にないように思えた。


「ごめーん。母さん先でいいよー」


 あらそう? と心なしか喜んでいるようにも聞こえる声が返ってきた。これでいい。ホラー映画を見ながら笑う父の姿を想像しないですむし、母がいては聞けない話も聞ける。話していれば胸が悪くなるような映像も見なくていい。

 良太は席を立ち、直幸から充分な距離を取って、ソファーに腰を下ろした。


「――お?」

 

 と、すぐに直幸が物珍しそうな視線を良太に投げた。画面では、女優の主観と感情を再現するかのように森の映像がぐるぐると回り、切迫した音楽が鳴っていた。


「あのさ」


 良太は言った。慣れたもので、直幸のほうに向きなおるのとほとんど同時に、女優の鋭い悲鳴が走った。粘着質な水音。視界の端にチラチラと映りこむ不鮮明で乱れた格闘。そこまでは予想通りだった。


 しかし、直幸が良太と視線を絡めたまま、フスッ、と吹き出すように笑うとは思わなかった。ある意味で一番見たくなかった瞬間だ。落ち込んでいく気分を奮い立たせて良太は聞いた。


「ちょっと今日、東京のこと調べててさ――」


 授業で少し触れたのもあって気になった、と嘘までついて。

 昔の話を聞いた。

 今日まで忘れていた子どもの頃の違和感について。


 直幸はきょとんと瞬き、リモコンで音量を下げつつ、母の様子を探るように浴室のほうへ振り向いた。水音。今度は作り物フィクションではなく現実の音だ。幽かに鼻歌が聞こえる気がする。


「……母さんには内緒だぞ?」


 子どもの頃から使われている、冗談めかした男同士の約束とやら。


「実は、俺の家が本家筋で、大叔父さんは分家だからさ」

 

 直幸は先ほどと全く同じように、滑稽だとばかりに鼻を鳴らした。

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