江戸から東京、ウカガイ様

 良太はまず東京の歴史から手を付けることにした。

 中村由佳にも話したように、東京イコール大都会というイメージからくる引け目を捨てたい。いずれは歩き回って調査をするかもしれないのだから。


 良太はキャンパスノートを開き、古地図と現代地図を並べ、資料を眺めていく。

 小中学校の授業や当時の東京への憧憬もあって江戸東京の概略は知っている。


 たとえば、江戸時代の始まりは一六〇三年に天下を統一した徳川家康が幕府を開いたところからとか、その終わりは王政復古の大号令がおこなわれた一八六七年であるとか、そういった受験勉強を基礎とした情報だ。


 しかし、江戸から東京に至る詳細な発展過程となると知らないことだらけだった。


 幕府成立以前の江戸は満潮時には海水で満ちる汐入地が多く、神田山を切りくずし台地を確保するとともに、日比谷入江を埋め立てることから始まる。その後、水上輸送路と上水を確保するためにいくつもの川の流れを変え、さらに家康の居城を守る堀を作った。


 そうした超大規模な土地の改造を経て始まった江戸は、当然ながら事実上の君主である家康の居城を中心に発展していく。


 すなわち江戸城――現在でいう皇居である。場所は千代田区。直に接しているのは文京区、新宿区、港区、中央区、台東区の五つ。


 ここでポイントになるのが台東区である。台東区はその名の通り上野台地の東に位置し、そこに住んだのは水路を利用する労働者だった。一方で山を崩して作られた台地や高台には武家屋敷が建てられていく。


 つまり、江戸東京は千代田を中心に土地の高低を基準に下町と山手に分けられたのだ。


川向かわむこうに、川の手前、山の手か……」

 

 そう呟きながら、良太は古地図と現代地図の川を指でなぞった。慣れない資料にあたり始めて一時間、数週間ほど前に父・直幸が言っていた言葉の意味がようやく実質を見せ始めた。


 江戸時代は士農工商に基づく身分制度が敷かれている。

 武士は軍事に携わる者として君主に近しい家から居城の周辺から山側に屋敷を構え、町人は東側に町屋敷を広げる。当然、山の手はくらいも高く屋敷も大きく、下町は狭い土地にひしめき合って生活する。東京の異様なまでの人口密集はこのころから始まっていたのだ。


 その後も江戸は拡大を続け、人口増加によって土地が足りなくなると山の手側にも町民たちが住むようになり、逆に下町に武家屋敷が建つようになっていく。住環境の変化によって武士と町民、山手と下町の境界は曖昧になり、ついに一八一八年、幕府主導で朱引と呼ばれる江戸の範囲認定がなされた。


 朱引によって定められた江戸の基準は先の五区、境界にあたるのが新宿区や墨田区、品川や渋谷、荒川、北区など、川近くが辺境だ。

 そう考えると、良太には一つ不思議なことがあった。


――お前は橋の下で拾われたんだそうだぞ。


 父・直幸がまだ子供のころ、酔った父方の大叔父に、そう言われたことがあったという。良太にとっては顔も知らない曽祖父の兄弟ゆえに想像もできないが、父・直幸は過去の嫌な思い出を語るにしては楽し気に見えたのを覚えている。


 あれは、なぜだったのだろう。


 良太は一つ息をついた。理由は本人に聞けばすむことだ。あまり気乗りはしないけれど。あまり遅くまで学校に残っていても仕方ない。ひとまず本を借り出しあとは家で読もうと顔をあげ――、あっ、と良太は小さく呻いて机に突っ伏す。


『図書の貸し出しは一人三冊まで、火曜から金曜の昼休み、放課後十六時三十分までです』

 

 無人の受付カウンターの壁板に、そう書かれていた。

 時刻は十六時三十五分。たったの五分だが時間切れだ。閉室時間まで二十五分の猶予があるが、居残って図書委員ないし司書職員の手を煩わせても心証を悪くするだけだろう。それに調べている内容が内容だ。悪目立ちしてもいいことはない。


 良太はため息まじりに古地図など一部の写真を撮り、資料を元の位置に戻した。

 日の入り近づく廊下の左右に首を巡らし、良太はそれにしてもと唇を曲げる。

 

――中村さんも教えてくれれば良かったのに。

 

 図書室で出くわしたときに知っていれば、その場で借り出せただろうに。

 逆を言えば、その時に聞いておけば良かったのだろうけれど。


 ぺたりぺたりと廊下に靴音を響かせ、遠くにまだぎこちない運動部の掛け声と吹奏楽部の奏でる『トッカータとフーガ ニ短調』の漏れ音を聞きつつ、角を曲がったときだった。


 


 小柄ながら異様な圧を放射するセーラー服。ボサボサの髪に乾いた唇。

 ウカガイ様――だが。

 躰こそ一瞬にして凍りついても、どこか様子がおかしいと気づくだけの余裕はあった。


 ウカガイ様は、良太の存在に気づいていないようだったのだ。

 一目見れば二度と間違えようのない姿。ウカガイ様としか思えないセーラー服の少女は、いつものような血走りくらい愉悦を覗かせる瞳ではなく、諦めのようにも憧れのようにも見える複雑な色を湛えた瞳で、夕日に染まる窓の外をぼうっと眺めつづけている。


 いったい、いつからそこにいたというのだろう。

 少なくとも良太が図書室にいるあいだ鈴の音はなかった。それ以前からいたとすれば軽く二時間は佇んでいたことに――

 

 ハッ、と良太が気づくのと、ウカガイ様が――ウカガイ様と目される少女がうれいを含んだ息を細く長くつくのは、ほとんど同時のことだった。


 ウカガイ様が振り向く直前、良太は咄嗟に廊下の角に身を隠す。


――ヂリン! 


 と鈴の音が鳴り、短い残響が続いた。良太の胸のなかで破裂せんばかりに心臓が暴れる。ともすれば悲鳴が漏れそうな口を可能な限り静かに両手で塞ぎ、祈る。


――神に。


 それがどこの何という神か分からない。

 いや、あるいは、まさに当のウカガイ様に祈らされていたのかもしれない。


――お願いだから、こちらに来ないでください、と。


 良太の祈りが通じたのか、あるいは単なる偶然か、チリン、ヂリン……と、ときおり音を濁らせながら鈴の音色が遠ざかっていく。様子を窺い安心したがる自分をなけなしの気力で抑え込み、良太は神の気配が消えるのを待った。


 やがて、鈴の音が完全に聞こえなくなってから、良太は慎重に壁を離れ、図書室の方へ引き返すようにして下足箱を目指した。


 なぜなら、ウカガイ様のしかけた罠かもしれなかったから。

 角を曲がれば、そこにウカガイ様がいたかもしれなかったから。

 なぜなら。


 廊下から生徒たちを見ていたウカガイ様は、からだ。


 振り向く直前、良太はたしかに見た。

 手首から垂れる赤い組紐が、握りしめた手の中に繋がっているのを。

 ウカガイ様は、鈴の音を鳴らさずに動くこともできるのである。

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