はじめの一歩

 朝、いつものように形成される白宮学園の制服の列を見つけ、良太は人の流れに乗った。昨日までと同じように俯きがちではあるが、表情はわずかばかり明るい。依然としてウカガイ様への怯えはあるものの、これまではなかった興味や関心が感情の一部を占有したからだ。


 ――見てはいけない、触れてはいけない、話してはいけない……。


 と、昨晩あらためて確認したウカガイ様に遭遇した際の基本事項を、良太は胸中に唱える。


 具体的な対処法はきわめて単純だ。無視すること――最初に教えられた「設定」どおり、ほかの生徒と同じように、そこにいないかのように振る舞うこと。


 もちろん、それが難しいのだが。

 他の生徒と良太では決定的に違うところがある。

 ウカガイ様は良太に執着しているのだ。


 なぜ? そう問いかけることもできない。調べようにも手がかりがない。ウカガイ様の由来を調べる過程でわかればいいのだが、叶わない場合はkoshokosho_3を頼るべきか――


「――っはよーす!」


 良太の思索を断ち切るように、洋介が溌溂とした声で挨拶しながら彼の肩を叩いた。


「おはよう、ヨウくん」


 そう声に出したとき、良太はふと肩の力が抜けたような気がした。あれだけの緊張が一朝一夕で完全に抜けるはずがない。そう自覚したとき、思わずため息が零れた。


「なんだよ、朝からため息とか……昨日、あれからまた何かあったん?」

「ごめん。でも大丈夫。あの後は普通に家に帰ったし――」

 

 良太はと唇だけを動かして言った。


「出なかったから。ちょっと考えごとしてて」

「考えごとって……ああ、部活? やっぱサッカー部くる?」


 言って、洋介は良太の首に腕を巻きつけた。

 良太は苦笑しながら答える。


「ごめん、やっぱり運動部は無理かも。っていうか、ちょっとやりたいこともあるから部活じたい保留って感じになるかなって」

「なんだよー、同じクラスの奴いたらいいなって思ったのに」

「ごめんね」

「や、まあいいんだけどさ。やりたいことって? 勉強? あ、塾とか?」

「そんな感じ。親も入ったほうがいいかもって言うしさ。本当は嫌なんだけど」


 良太は嘘をついた。ウカガイ様を調べる時間が欲しいなどと言えるわけがない。

 二人は他愛のない話をしながら校門をくぐった。

 教室では、すでに久我硝子といつもの二人が揃っていた。昨日まで一緒にいた一人は外部生らしき生徒はまだ来ていないのだろうか。


「おはよう」


 と、硝子に声をかけられ、良太も応じながら席に着く。やはりkoshokosho_3を連想させるような発言はなかった。ほかの二人がいるからだろうか、すでに仕事を終えたと思っているからだろうか。


 怜音の推測どおり、koshokosho_3が久我硝子だとしたら、いつもの二人にはそのことを教えていないのかもしれない。


 もしくは推測が間違っていて、二人のうちどちらかがkoshokosho_3なのか――

 良太は首を小さく左右に振って疑問をひとまず脇に追いやる。


 ここ最近は集中が途切れがちだったのもあり授業内容の理解が遅れていた。今日からはより真剣にこなしていかなければならない。ただでさえ進行が速いのに加えてウカガイ様の調査もあるため復習の時間がどれだけとれるか分からないのだ。


 いくらウカガイ様の謎を解き明したとしても、そのとき授業についていけなくなっていたら何の意味もない。


 教員の言葉を一言一句、聞き逃さないよう、良太は耳をそばだてた。どこか遠くで鈴が鳴っていた。ダメだ。意識を教員へ向ける。しかし、すぐに廊下の外を意識してしまう。良太は一旦、躰を起こし、両眼を閉じて深呼吸した。


 ――大丈夫。大丈夫。大丈夫だ。


 相手は人間だ。逸徒行で赤い仮面を被っていた大人たちと同じ。

 そう信じ、また授業に没入していく。


 何度も何度も同じ作業を繰り返し、そして実際におそらく上階から響いてきたであろう鈴の音に背筋を震え上がらせ、ようやく放課後を迎えたとき、良太はすでにぐったりしていた。


「――大丈夫?」


 今日だけで十回は聞いた気遣うような言葉だが、口にしたのは意外な人物だった。

 久我硝子だ。

 予鈴のあとすぐ周りに集まってきたいつもの二人を差し置いて、小首を傾げるようにして良太に尋ねた。


「ちゃんと相談してみた?」


 そう続けられたのも良太には意外に思えた。うかつに口にすれば怪しまれてしまうからだ。


 案の定、二人組のうち活発そうなほう――萩原はぎわら沙織さおりが訝しげに眉を寄せて硝子に言った。


「相談って? なんの話?」

「ちょっとね。沙織たちにはあんまり関係ないかな」

「え……?」


 硝子の反応が予想の外だったのか、萩原沙織は一瞬きょとんとし、傍らにいた二人組の大人しそうなほう――中村なかむら由佳ゆかと顔を見合わせた。

 中村由佳が腰を曲げるようにして沙織の躰越しに尋ねた。


「菊池くん、なにか悩み事があるの?」


 雰囲気どおりの控えめで大人しい、街中であれば聞き落としそうなくらい小さな声だった。

 まさか存在を――名前をちゃんと憶えているとは思っていなかったのもあり、良太が答えに窮していると、沙織が苛立たし気に目を尖らせた。


「……何? 無視? 由佳が聞いてるんだから返事くらいしなよ」

「えっ、あっ、違くて」


 良太が慌てて否定すると、ちょうど部活に向かおうとしていた洋介が彼の肩に手を置いた。


「良太はあれ、部活どうするか悩んでたんだって。そんなキツい言い方しなくていいだろ?」

「――は? 誰お前。あんたには聞いてないんだけど」


 たった一度のやりとりで場に緊張が走った。

 良太と由佳はほとんど同時に顔を強張らせ、どちらともなく口を開こうとしたときだった。


「沙織、やめて。――そういうの見るのも嫌いなの」


 硝子の穏やかだが独特の鋭さをもった声に、沙織が不満げに唇を結んだ。

 その反応に満足したのか、硝子は柔らかい微笑を洋介に送った。


「ごめんね、小山くん。沙織はちょっと過敏なところがあるの。ほら、中村さんって控えめでしょ? むかし色々あったから」

「ちょっと、硝子……!」


 沙織が慌てたように低い声をだした。その背中の向こうで由佳も気まずそうに唇を吊る。

 洋介がもう一つポンと良太の肩を叩いて言った。


「――んじゃ俺、部活行くわ。また明日な」

「あ、うん。部活がんばってね、ヨウくん」

「あんま頑張るって雰囲気じゃないけどなー」


 と、先ほどまでの空気などなかったように洋介はいつもの調子で答え、去り際に沙織を一瞥して教室を出て行った。

 動くなら今以上のタイミングはない、と良太も腰をあげた。


「えと、それじゃ僕もちょっと……用事があるから」


 硝子と挨拶を交わし、鞄を取って――一度は背けた躰を咄嗟に戻して言った。


「あの、ごめんね、中村さん。無視しようとしたわけじゃないんだ」


 え、と由佳が驚いたように小さな手を握りしめた。


「あの、私も、ご、ごめんね。……悩み事なんて、そんなに簡単に言えないよね」

「大したことじゃないんだけどね。それじゃ、また明日」


 言って、教室を出てすぐ、良太は重いため息をついた。

 先ほどのやりとりで、ウカガイ様への対処がなぜ難しいのか理解わかってしまったのだ。


 田舎育ちの良太にとって、人を無視する・無視されるということの意味は重すぎたのである。


 また一つ息をつき、どこか遠くで鈴の音を幻聴し、良太は図書室を探し歩き出す。

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