あのとき

 あのとき――怜音が話題にした「あのとき」というのは、良太がまだ小学校に入るかどうかというとき――つまり六歳か七歳くらいの頃の話だ。


 良太の地元では、逸徒行いっとこうという奇妙な行事があった。

 それは小学校に上がるころから半ば参加を義務付けられている儀式で、未就学児や小学一、二年生を中心にグループを作り、奇妙な仮面をつけた大人に追い立てられながら村中を走り回るというものだった。


 その行事の、子どもたちを追い立てる大人の被る仮面が、良太にとって天敵だったのだ。


 歌舞伎役者の赤い隈取に似ながら、おどろおどろしく血涙を流すように彩色された仮面をつけ、梵字に似た奇妙な模様を入れた蓑笠を身に纏い、火の粉散る松明片手に子供を追う。


 もちろん、怜音のように鬼ごっこの亜種として笑う者もいるにはいたが、良太をはじめ仮面を被る大人たちに怯えて眠れなくなる子供も頻出する奇祭である。


 良太がはじめて参加したのは四歳のときで、あまりの恐ろしさに一緒に参加していた怜音の手を痕がつくほど強く握りしめていた。待ち遠しくて午後の授業が遠く感じた祭とは逆に、その日が迫れば身が強張る謎の儀式だった。


 一年目は泣きながら逃げまどい、二年目は悲鳴をあげ、三年目に参加を拒否した。


 怖かったのだ。ただでさえ暗い村の夜道を、不気味な仮面を被った大人たちに追い立てられるようにして、あちこち歩きまわるのが嫌だったのだ。


 そのときはじめて、何が怖いのか、と怜音に尋ねられた。

 それまでも村の大人が企画した肝試しなど怖い思いを幾度もし、そのたびに怜音に心配されてきたが、何が怖いのかと直接的に聞かれたのは初めてだった。


 良太は悩みに悩んだ挙句に恥を忍んであの仮面が怖いと答えたのを覚えている。

 怜音の答え――もしくは疑問は、信じられなくらい単純だった。


『何で?』


 怜音にとって、仮面を被った大人は怪異でも恐怖の対象でもなく、ただ仮面を被って祭りを盛り上げようとしている大人でしかなかった。

 

「怖いのは知らないからだよ」


 そう不満げにいう怜音の顔を、良太は今もはっきりと思い出せる。

 怖いのは、良く分からないまま行事に参加させられ、謎の存在に追い立てられるからだ。


「謎が謎で無くなれば怖くはないよ」


 怜音は両手を腰に置いて自信満々に言った。

 そのころの良太はずっと怜音の庇護下にあったという引け目もあって、今にして思えば恥かしいくらいの反発心があった。だから、


「じゃあ、調べてみよう」


 良太は、そう答えることができた。

 そもそもにして妙な行事だった。地方に伝わる祭礼のほとんどは寺――つまり仏教か、神社すなわち神道に由来している。加えていくつか地方独自の伝承に基づく祭礼だ。


 その意味で、逸徒行は奇妙だった。

 村の誰もが由来を知らず、追い立てられながら回るコースに、寺と神社が含まれているのだ。


 仏教と神道が同列に参加しているということは、紀元六百年ごろ、神仏習合が起きてから始まった祭りに違いない。


 そのあたりから調べてみると、意外なことが分かった。

 鬼のような仮面をつけた大人に子供が追い立てられる風習は、全世界に点在したのだ。


 日本で代表的なのは秋田のなまはげだ。、旧正月の前、大晦日に、未婚の若い男が角のついた赤い顔の仮面をつけて、前年の怠惰を戒めるために来訪する。いまでこそ鬼のような見た目をしているが、元を正せば反省と来年への対策を意識させる来訪神である。


――そう、一年のうち、特定の期間に、特定の戒めを意識させる。


 やりかたは奇妙かもしれないが、現代のシステムで例えればスマートフォンに設定したリマインダーに等しい。一年のうち特定の期間に忘れないように行う儀式だ。


 怜音は仮面の大人たちに怯える良太を誘い、正体を暴こうと言い始めたのだった。

 その基本原理は単純だ。

 分からないから怖い。

 怖いから分かろうとしない。

 だから、いつまでも怖いままなのだ。

 原理にしろ、理屈にしろ、理解できれば怖くないというのが怜音の主張だった。

 仮面を被っていようが、理解できない呪文を唱えていようが、同じ人間だと言ったのだ。良太は虚勢と反骨心と、芽生えたばかりの興味から、役場や学校で逸徒行を調べはじめた。


 なぜ神社も寺も関係なく参加しているのか。

 なぜ子供を脅かしながら村中を回るのか。

 怜音と連れ立って村中を歩いて調べ、小学二年の終わりだったか、発表するに至った。


 まず、逸徒行の歴史は浅かった。誰もが忘れつつある第二次世界大戦中に始まったのだ。


 関東――特に東京からの疎開者が多かった良太の地元では、言葉もおぼつかない子どもたちが自らの足で避難できるようにするのが喫緊の課題としてあった。


 親しみやすく、絶対に忘れられず、なおかつ一回で覚えられるやりかた――

 それが、逸徒行という儀式だったのだ。


 寺も神社も回るのは宗教的な理由からではなく、避難に適した場所を覚えさせるためだ。大人が怖い仮面をつけて追い回すのは空襲を再現している。一九四三年に始まった逸徒行は単なる避難訓練だったのである。


 命名に至っては当時の寺の住職によるダジャレと密教系の修行を組み合わせたものだった。

 つまり、逸徒は走って逃げるという意味で、行っとこう、から逸徒行である。

 それが半世紀余りの時間を経るなかで変質し、他の地域の祭りも吸収し、由来を誰もが忘れたころに形だけが残った。


 そうと理解したとき、良太のなかで奇祭の意味は大きく変わった。

 あらゆる祭事には意図や目的が存在し、多くの場合、それらは忘れられたまま続いている。

 なぜなら、理屈を抜きに実行させるために――。


「ウカガイ様もそう、か――」


 怜音からのメッセージを再読しながら、良太はひとりごちた。

 理由も目的も分からないが、あのウカガイ様も同じ村社会システムのなかで生まれた儀式だろう。

 怖い存在であることは、自制を促す装置として最も大事な機能なのである。

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