秘匿通信
数学の授業が終わると同時に良太は机に突っ伏した。ただでさえ授業が難しいところにウカガイ様に集中力を奪われ、もし三限にもやってきたらと思うと憂鬱だった。
――なんで僕ばっかり……。
そう胸のうちに嘆くも当人――ウカガイ様に聞かねば真意など分からない。聞いたところで理由もないのかもしれない。ただ単に入学式前の面談で偶然、見つかってしまったから。ただそれだけ。運が悪かったがために今後の三年に暗雲が垂れ込めた。
「……大丈夫?」
声に顔を上げると、硝子が良太の消しゴムをつまみ持っていた。
「ハイこれ。ありがとう」
「ありがとうって……」
良太は硝子の机を、彼女自身のものだろう同型の消しゴムを見やりつつ言った。
「あの、僕のほうこそ、ありがとう」
「何が?」
と硝子は小さく首を傾けた。ウカガイ様は見えないし、ウカガイ様の声は聞こえないことになっている。他の生徒と同じく何事もなかったかのように振る舞う。なら、無視できないでいる自分が悪いのだろうか。だとしたら、
――僕は他の生徒から、どう見えているのだろう。
ツンと良太の背中をつついて洋介が言った。
「あー……大丈夫か? 保健室とか行く? 俺ついてくよ?」
これが答えだ。ウカガイ様の存在を無視して生活するなら、ウカガイ様の影響も無視して辻褄の合うように振る舞えばいい。自分が狙われていないのもあるのだろうが、洋介は良太よりずっと早くウカガイ様のルールに適応していた。
良太は強張っていた首を撫でつつ、やや青ざめた顔を振り向けた。
「大丈夫。ありがとう。っていうかヨウくん……慣れてるね」
最後、わずかに舌をもつれさせながら良太は言った。ウカガイ様のルールの一つだ。話題にしてはいけない。けれど、話題にカウントされる線がどこに引かれているのか分からない。
「ああ……えっと、まあ……ほら、あれ、中学の時、保険委員みたいなのやってたから」
歯切れ悪く言い、洋介が曖昧に唇を歪めた。瞳だけは油断なく教室側を――聞き耳を立てているかもしれない誰かを警戒していた。
会話が途切れた。短い休み時間を埋める喧騒もどこか遠くよそよそしい。
――ヨウくん、僕と距離を取ろうとしてる……?
良太の胸に疑念が湧いた。無理もないかと思う自分と、見捨てないでと叫びたくなる自分がいる。白宮学園という学校で、この地区で、どこを切り取っても数十万の人間が暮らしている東京で、最も関わりたくない事象の最も近くにいるのだ。
見捨てられても仕方ない。助けを求めても聞く人はいない。
――ウカガイ様の声と同じように。
「大丈夫だって!」
ドン、と急に肩を揺すぶられ、良太は我に返った。
苦み走ったような曖昧な笑みはそのままに、洋介が声を少し張った。
「なんせほら、俺らは――アレだから」
言って、音にはせずに唇だけを、エリートだから、と動かした。仮にそうだとして良太の何を保証するというのだろう。あまりにも薄弱な根拠に基づく励ましは、しかし、すっかり固くなっていた良太の顔を緩ませた。
「――だね。アレだから」
そう思うしかない。何かに縋って耐えるしかない。今は無理でも時間が解決してくれると信じるしかない。悩んでいようといまいと教室の扉が開き、次の授業が始まる。
集中、と祈るように呟き良太は前に向き直った。
もちろん、そんな
細く尖った黒鉛が紙を擦る幽かな音はウカガイ様の衣擦れを幻聴させ、風に揺れる廊下の窓に見開かれた黒瞳と乾いた唇を幻視する。暑くもないのに汗をかき、受験に備えて慣れ親しんだはずの英語も耳馴染みのない異国語のようだった。
何度目かに板書を写し間違え、消しゴムを手にしたときだった。
消しゴムを覆う厚紙の端から薄く滲んだ黒い線が伸びているのが見えた。
文字――あるいは数字の一欠だろうか。良太は消しゴムのカバーをゆっくりと滑らせる。
koshokosho_3
そう書かれていた。何かのIDだ。自分で書いたものではない。なら――、
良太は硝子の横顔を一瞥した。秒にも満たない数瞬の間だったが、彼女は何食わぬ顔でノートにペンを走らせていた。
クラス内にいくつかのメッセンジャーグループができているのは想像に難くない。良太の地元でも同じだった。ただ、地元ではスマートフォンを持っていない生徒がいるのもあって、さして使われることなく消えていった。
でも、と良太は思う。
おそらく白宮学園では事情が異なる。特に、内部生については。
部活に、塾に、個人的なつながりに――中学時代の三年間で数え切れないほどのグループが生まれては消えて、今も運用されているものもあるのだろう。
招待されるのでもなく、口頭で誘われるのでもなく、消しゴムに書かれたID――
ごく個人的に、また他人に悟られないように使えという意味だろう。
――なんで?
と硝子を盗み見みても理由は窺い知れない。いくつか想像できるだけだ。
そのなかでも、内部生のグループには誘えないだろうことだけははっきりと分かる。敵と評するのは奇妙な話かもしれないが、洋介が部活の先輩から聞いた話からして簡単ではない。
それに、もう一つ。
タイミングからみて、ウカガイ様の話をしようという意味なのだろう。
――なぜ?
どうして僕を助けようとしてくれているのだろう?
考えていても答えは出ない。良太は内緒話を連想させる簡単なIDを記憶し、指で擦って滲ませた。
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