救いの手
都会と田舎の、あるいは内部生と外部生の違いなのだろうか。部活のイメージはもとより時間に対する感覚がまるで異なる。
もちろん硝子の意見は白宮の先――つまり大学受験やその先までを見ての考えているからだろうけれど、また中学時代から同じ学校に通うことで残りの三年のイメージができているからなのだろうが、そもそも良太は将来というものついて考えたことがなかった。
東京に来たのだから東京のやり方に従うべきなのだろうかと思う自分と、深く考えずに地元を出てきたけれども出てきたからにはと思う自分と、揺れる良太の思索を予鈴が切る。数学の授業。始まってしばらく、
――ああ、たしかにダメかも。
と良太は焦りながらペンを動かしていた。最初の一週間は様子見とタブレットを使った授業への移行期間に充てられているはずだが、ただの復習と確認として流される授業内容は、それでも良太にとっては新たに学ばなければならない領域にあった。
学校指定の色々と機能制限をつけられた――また使用できる場所も限られた――タブレットを使えば補助学習もできるが、しばらく部活に避ける時間はなさそうに思えた。
加えて、もう一つ。
タブレットに制限が付けられている理由の一つであろう鈴の音だ。
チリン、ヂリン……とどこか遠くから聞こえてくる。
途端に良太の躰は強張った。上か、下か、はたまた同じ階のどこか別の場所なのか。この一週間、たびたび幻聴として聞いていただけに、いざその音色が聞こえると耳の意識はたやすく持っていかれた。
――来るな。来るな……!
良太は口の中で唱えた。教師の言葉はくぐもっていき、代わりに鈴の音が大きく強く頭の内側に響く。忘れたくとも忘れられない、あの顔が――眼球のすぐそばまで近づけられて目にせざるをえなかった、卵型をした鈴の内側にある、雛の頭を模した舌が、瞬きのたびに瞼の裏にチラついた。
――もし。
もし顔を上げたとき、そこに顔があったらどうしよう。
そう思うだけで良太は首もあげられなくなった。
チリン、ヂリン、と鈴の音がやってくる。
「……この階だ」
そう、誰かが口にした。囁くような小さな声で。
良太自身が我知らず呟いたのかもしれない。少なくとも内部生ではない。
だが、どちらにせよ結果は同じである。独語が生んだ静かな緊張が波紋のように教室に広がっていく。ウカガイ様に慣れている半数近くの内部生は水面に突きでた石のように動じず、外部生だけが水面に浮かぶ枯れ葉のように揺れる。
チリン、ヂリン、と音が大きく強くなり、それに混じって足音が続く。
廊下の、教室のすぐ後ろから、前へ。時折、教室の様子を窺っているのか鈴の音を見出しながら進んで、良太のすぐ横に来たときだ。
ガシャン! と廊下側の窓が震えた。
これには石のようだった内部生たちすら息を呑むような気配をみせた。
「いた、いた、いたね。ちゃんと来てたね」
ぶつぶつと呟く声が聞こえる。良太は顔に強い視線を感じた。教師の授業は何事もないかのように続いているが、もはや念仏のようにしか聞こえない。
「ね。見て。こっち見て。聞こえてるでしょ? 聞こえてるんだよね? ね?」
見るな聞くなと言われても、すぐそばで存在を主張しづけられて、どうしろというのか。
カシャン、カシャン、と窓を叩く音がした。右手で叩いているのだろうか。いつもは響く鈴音が短く途切れる。もし鈴を下げる左手で叩いているなら、もっと硬質な音が混じるはず。見てはダメだと思うばかりに、その姿を想像させられてしまう。
「ねえ。無視しないで。無視しないでよ。こっちを見るだけでいいんだよ?」
声音に今までと違った。柔らかい、誘うような言葉遣い。良太は首の骨と筋肉が軋むのを感じた。どうやって息を吸い、吐いていたのだろうか。分からなくなった。
――ねえ!
と叫ぶウカガイ様の声を幻聴し、喉から悲鳴が漏れかけた、そのときだ。
「ね、菊池くんってば!」
隣席からかけられた少し大きな声に、良太の意識は教室に引き戻された。
「え!?」
と振り向くと同時に、自分でも驚くほど大きな声が出ていた。当然、教室の視線は良太の元に集中し、教員も授業を止めた。
「――どうした? えーっと……菊池?」
「えと、その」
と何も答えられずにいると、隣の硝子が小さく手を上げて言った。
「すいません。消しゴムを借りようと思ったんですけど、驚かせちゃったみたいで」
「……何だそれ?」
と教師が苦笑すると、それが引き金になったか教室にくぐもった笑い声が湧いた。
「まあ、いいや。貸してやってくれ、菊池」
そう言われ、良太は恥ずかしいやら安堵するやら、わけがわからないままに縮こまりつつ、それでも決して廊下の窓を見ないようにしながら消しゴムを手に取り、硝子に向き直った。
「えと、はい、これ――」
「……ありがとう」
そう微笑みながら手を差し出す硝子の瞳が一瞬、ほんの一瞬だけ良太の背後を見た。ポトリと彼の手から消しゴムが落ち、白く小さな手の平のうえに乗った。
「そんなに怖いかなあ? ――私」
と後から付け加えるように『私』を言い足し、硝子がノートに消しゴムをかけはじめた。その手元には、良太が貸したのと同じ形の、自分のものであろう消しゴムがあった。
ガシャン! と割れんばかりに窓が鳴った。
教室の、笑い声の余韻が散った。教員の念仏じみた授業が再開する。窓に張りついていた気配が離れ、鈴の音と足音が廊下を進み始めた。
「……もうちょっとだったのに」
という、呪詛のようにも思える言葉を連れて。
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