ウカガイ様にしてはいけないこと
教員は薄青い冊子の表紙を開き、丁寧に折り目をつけて良太の前に突き出した。
つられて視線を向けた良太はそこにあるイラストに、思わず顔をしかめてしまった。
『ウカガイ
すべての漢字にふりがなを振った太い丸ゴシックの題字の下に、およそ高校生に向けて採用されたとは思えない――例えるならフリー素材でも賄えてしまいそうだが小学生向けにわざわざ発注されたような――ニコニコマーク顔の男女四人が上下二段に別れて並んでいた。
上段の隅に『
「お母様はご承知かも知れませんが」
そう前置きを入れ、教員は良太に語りかけた。
「これがウカガイ様です。このあたりの風習というか、制度と言いますか……近隣の小中学校には必ず一人――じゃない、えーっと……」
教員が言い淀むと、菜々子が苦笑まじりに尋ねた。
「
「ああそう! それです。――失礼しました。あまり口にする気がないもので」
教員が俯きがちに髪を撫でた。それで、とページを繰って続ける。
「ウカガイ様にはルールがありまして、これは必ず守っていただかないといけないんですね」
『
そこに並ぶ文言と、冒頭と同じ画風の柔らかい絵と、禁止を伝えるための赤いバツ印。内容が多くないのもあって、良太の目は自然と教員の説明に先んじて禁止事項を読み、何やら得体の知れない気持ち悪さを覚えて小さく喉を鳴らした。
一つ。ウカガイ様は目に見えません。見ないようにしましょう。
二つ。ウカガイ様の声は聞こえません。聞かないようにしましょう。
三つ。ウカガイ様に触れることはできません。触らないようにしましょう。
四つ。ウカガイ様が歩くと鈴の音が聞こえるといいます。鈴の音に気をつけましょう。
教員の声が全ての文言をなぞり、良太はようやく違和感の正体に気づいた。
ウカガイ様とやらの生態――といえばいいのか、見えないだの触れないだのは断定的に書かれているのに、つづく禁止がそれら生態はまったくの嘘であることを前提にしているのだ。
そして、もう一つ――。
さきほど、ごく微かに聞こえた気がした高く金属質な音は――。
あの、と良太が顔を上げると、教員は分かっているとばかりに笑った。
「最初はちょっと変に見えるよね。でもこれ、こういうものだと思ってください。なんていうか……そういうテイ? 見えないってことにしとこう、聞こえないってことにしとこうっていう感じです」
「えと、そうじゃなくて……」
「うんちょっと待って。禁止事項はほんとに大事で。このページのは簡単に守れると思うんだけど、最近はスマホあるしSNSあるしで、破ると簡単に謹慎とか停学まであるから」
罰則の話には良太もぎょっと声を詰まらせた。教員の手がページを繰ると、先の説明通りに姿を撮影することの禁止や、声の録音禁止などが並んでいた。
チリン、とまた微かに金属の音が聞こえた気がし、良太は思わず顔を上げた。その動きは予想になかったのか、冊子に前のめっていた躰を起こす。
「えっと、どうしたの?」
「いえ、今、鈴の音が聞こえた気がして」
「鈴の音? いやいや、だってまだ学校が始まってない――」
教員が言いかけると同時に、先程より強く金属質な音が鳴った。今度ははっきり鈴の音だと分かった。妙なリズムで、たまに歪む、硬質な鈴の音だ。母と教員が微かに目を見開いた。今まで聞こえていなかったのだろう。
「もしかして、新一年生……?」
母が呆然とした様子で尋ねた。鈴の音が廊下に響いた。しまったとばかりに教員がページを何枚か繰り、また戻しながら言う。
「――えっと、良太くん、もしかしたらこっちに来るかもしれないんだけど――」
チリン、ヂリン、と鈴の音が鳴った。近づいている。確実に。
「初めはびっくりするかもしれないんだけど――」
濁ったような鈴の音に靴音が混じった。この教室の前の廊下を歩いているのだ。
教員が目的のページを見つけて慌てて広げた。
「あ、あった! ここ! 入ってきちゃうかもしれないから――」
そのページには、窓越しに教室の様子を窺うウカガイ様が、例の毒にも薬にもならなそうなイラストで描かれていた。鈴の音が一際に強く聞こえた気がした。靴音とともにやってくる。
そして、良太の視界の端を影となって掠めた。
「絶対に見ないように、反応しないようにしてね……」
教員が言った瞬間、良太は首の筋肉が軋むような感覚に陥った。反射的に見ようとした躰を強引に押し留めようとしたがために。
何かが廊下の端から――いや、確実にウカガイ様が、廊下の窓から教室の様子を窺い見ながら歩いてくる。チリン、ジリンと今やすぐ真横を歩いていた。
良太は混乱した。冊子にある禁止の理由はいわば設定で、それらが実際に効力をもっているのだとして、どうしてしてはいけないのか。
チリン――と鈴の音が鳴り、止まった。
良太の顔は食い入るように冊子に向いているが、瞳はぐるぐると彷徨っていた。母も教員も凍りついたように黙っていた。なぜ止まっているのだろうか。何を窺っているのだろう。
ガシャン! と廊下の窓が鳴った。良太は思わず悲鳴をあげかけ顔をやる。
――いた。
ウカガイ様が――正確にはウカガイ様とされている女子生徒がいた。
窓硝子を叩いたであろう生白い右の掌と額をぴったり張りつけていた。整えているのか怪しげな艶のない黒髪の間から、大きく見開かれた瞳が覗き、その愉しそうな視線と、良太の視線が絡んだ。
ウカガイ様の唇が、乾いたような青白い唇が、ぐにゃりと歪んだ。
笑ったのだ。そう認識したときだった。
「良太」
母が言った――と同時に、良太の後ろ頭を掴んで手で口を塞いだ。
母の躰の向こうでガラガラと教室の扉が開く音が聞こえた。
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