外向けの個別説明会

 春が目前に迫る東京は、寒いというよりも痛かった。良太の地元の寒さとはまるで質が異なる。母の奈々子に言わせれば懐かしい気候は、雲が少なく風が強いから生まれるという。言い換えれば、人を守ってくれるものがないからなのだ――と。


 良太が雑踏という言葉の意味を正確に理解したのは、受験に際して初めて東京に来たときだった。地元の商店街とも、たまに車で訪ねたショッピングモールとも異なる人の圧。誰も彼もが何かに急ぎ、誰も彼もが水流のように澱みなく動く。


 自宅から学校まで一キロ半。徒歩で約二十分。自転車はギリギリ使えない距離だが、たとえ使えたとしても良太は乗る気がしなかった。より正確には、乗れる気が――である。


 父・直幸と同様に地元で使い倒したゆえに捨てるに捨てられなくなった自転車は、少なくとも半年はただの置物になりそうだった。


「大丈夫? 手をつないであげようか?」


 そう肩越しに振り向く奈々子の顔はからかうような微苦笑を浮かべている。


「やめてよ、そういうの。平気だって」


 間髪いれずに返したものの、良太は内心そうすべきかもと思う。元々、人酔いする性質ではあるが、見上げるばかりの建物が並ぶ風景と、ひっきりなしに続く喧騒と、また人々の体臭やら湯気を伸ばす下水道やら隅に吹き溜まる埃やらの臭いに息苦しさが続いていた。


 もちろん緊張もあったのだろう。

 私立白宮学園高等学校と書かれた鋳鉄風の銘板を見ると胃まで収縮するようだった。


「入学前の説明会って普通は生徒だけで来るもんなんじゃないの?」


 声を出せば少しは落ち着くだろうかと良太は奈々子に尋ねた。受験の際、昼間際には受験生が誰とも視線を合わせず一定の距離を保って縄張りを主張した中庭に、今は良太と同じような親子連れが何組もいた。


「これは外部生に向けた説明会……っていうか、説明面談なんでしょ。きっと」


 菜々子が素っ気なく言った。

 白宮学園は中高一貫校であり、内部対外部で六割強と残りの比率だ。進学校ではあるが、殊更に優秀という学校でもない。


 しかし、地方と首都圏の教育格差は想像以上に大きい。

 良太は幸運にも地元ではトップクラスに属していられたが、こちらにくれば最低限の学力を備えているという事実以上のことは分からない。それは他の親子も同じだ。


 皆が皆、勝ち誇るのではなく、疑っている。

 うちの子は、または自分は、どのラインに立っているのだろうか。


 正確な情報は明らかにされない。ありえないことではあるが、仮に外部生の良太がトップであったとしても、入学式で新入生を代表するのは内部進学生になると両親は言った。それが事実かどうかも、良太には一切わからない。


 見かけ以上に古めかしい玄関で使い古された緑のスリッパを履き、春の訪れを忘れさせるような寒々とした廊下を抜け、良太と菜々子は教室に入った。


 受験前に中学で行われた三者面談を思い出した。

 教室の教壇ちかくに四脚の机を向かい合わせて設けられたスペースの手前で、良太を受け持つであろう三十代半ばと思しき教員が品のいい笑みとともに頭を下げる。


「――この度はご入学おめでとうございます」


 酷く言い慣れた様子の、耳にすっと滑り込んでくるような声音だった。


「新生活を前にお忙しい時期、わざわざ御足労を煩わせ、誠に申し訳ありません」


 奇妙だ、と良太は感じた。

 すぐ傍にいるのは教員である。――にも関わらず、良太の耳に届いた声は、ショッピングモールの定員たちが囁く惹句のように響いていた。


 教員の話は当たり障りのない無意味な語列に始まり、世辞とも本気ともつかない言葉が続き、近況を尋ねる質問に達する。

 

 対して母の菜々子が見せた受け答えに、良太は少なからず衝撃を受けた。

 見たことのない姿と評せばいいだろうか。少なくとも、小中と家庭訪問や授業参観で否応なく見せつけられた菜々子の姿ではない。


 教員と菜々子の間に、目には見えないが、しかし、絶対に突き破ることのできない紗幕が垂れ下がっているかのように、双方の発する声が、ある意味で音としか認識できないほどに、感情的に希薄なように思われた。


 菜々子も、また教員も、始終、意図の知れない薄笑いを浮かべており、それが良太に緊張を強いた。また厄介なことに、緊張の要不要が良太には判断しかねた。


 いうなれば、これまで暮らしてきた世界と全く良く似た、別世界に来たようだった。ありとあらゆる言葉が頭に入らないまま流れ、ふいに置かれた薄い冊子が堰き止めた。


「――それで、最後になるのですが……お住いはお近くになるとのことでしたが……」


 良太に向けられた言葉でないのは明らかだ。何度目になるか分からない煩わしさに俯くと、母の菜々子が分かっているとばかりに迂遠な調子で応じた。


「私、中学生の頃まで、近くに住んでいたんです」

「――ああ! そうだったんですか! なら……」

「あ、それじゃあ、やっぱり?」

「そうなんです。なかなか、外部の方には……特にほら、地方から来た方には、どう説明を切り出したかものかと毎回、頭を悩まされまして……」


 そう教員が愛想笑いを浮かべた。説明会という名の面談が始まって以来はじめて良太は強い引っかかりを覚えた。

 

 何が変わったのかは分からない。何の話をしているのかも分からない。

 ただ、母が呆れたように言った単語が異様に大きく聞こえた。


「――まだやってるんですね、ウカガイ様なんて」

「びっくりされますよね。わかります」


 教員の愛想笑いが良太に向かい、彼は思わず廊下の側へと顔をやった。

 ごく微か、何か、硬い、金属質な音が聞こえた気がした。

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