鈴の内側

 母の菜々子の手指が良太の頬に食い込み色を白くしている。後ろ頭を抱える形で震えるほど強く押さえ込まれ、良太は掌を掴むのがやっとだった。振りほどくのはもちろん、声を発することなぞできるはずもなく、必死になって鼻で呼吸しながら視線を彷徨わせる。


 何これ!? 何これ!? 何これ!? ――何が入ってきたの!?


 良太の胸の内の叫びが籠もった唸りとなって母の手を越して微かに漏れる。疑問の答えは分かりきっていた。教員が細く息を吐く間に鈴の音が鳴る。机の上の冊子をめくり二枚目に戻った。ウカガイ様にまつわる禁則のページだ。


「だいたい分かってもらえたと思うんだけど――お母様はどうです?」


 白々しいという他にない教員の言葉に、母の手の力が強くなった。


「もちろんです。私は


 何を? もちろん、ウカガイ様を。


「――イマ、ミテタヨネ?」


 初めて耳にしたウカガイ様の声は、母に強く抱きしめられているせいか、くぐもり、固いアクセントを伴っていて、まるで人のものとは思えない声に聞こえた。


 良太はビクンと肩を弾ませた。より正確には、弾ませようとした。実際には母の手でがっちりと押さえ込まれて身じろぎにもならなかった。


 教員が指を伸ばし、冊子の上から机を一つ二つ叩いた。


『ウカガイ様は目に見えません。見ないようにしましょう』


 良太の瞳が書かれた文言をなぞった。鈍い振動とともに鈴の音が濁り、視界に、顔が、ウカガイ様が入ってきた。首を横に傾けて覗きあげてきた。大きく見開かれた目も、下に流れる荒い髪も、うっすら笑っているようにも見える唇も、すべてが良太の声を求めていた。


「……私の頃は」


 母が手の力をさらに強めながら、平静を装って言った。


「ウカガイ様がいらしたとき、お帰りいただく呪文みたいなのがあったと思うんですが」

「――何を言ってるの? あなた、私が見えてるの?」


 答えたのはウカガイ様だ。今度はちゃんと人の声として耳に届いた。歳は良太と同じくらいで少し乾いて低い声。教員が新一年生といっていたことから、本当に同じ学年の、奇妙な役目を負った、人の少女なのだろう。


 いや、それ以外に何だというのか、と良太はウカガイ様を視界入れつつも焦点をぼやかし呼吸を鎮めていく。


「あー……呪文ですか?」


 教員が言った。


「申し訳ありません。ちょっと存じ上げません」

「ないよ、ないよね。ないですよ」


 ウカガイ様が含み笑うように言いつつ、母に顔を寄せていく。良太は自らの口を塞ぐ母の手を握りしめ、その動きを目で追った。


 母はあたかもそこに人がいないかのように、あるいは何十メートルも先に目を凝らすようにして、ウカガイ様越しに教員を見ていた。


「じゃあ、あれは……子どもたちで勝手につくったルールだったのかもしれませんね」

「凄いね。凄いね、おばさん。私のこと見えてるよね? 見えてるのに――」

「それはありえますね」


 教員がウカガイ様の後ろ頭を越して母を見ていた。


「一応、ここに書かれていることがすべてのはずなのですが――」

「謝れば大丈夫なんて言ってる子もいたよ。無理なのに。関係ないのに」


 笑うような調子でウカガイ様が続けた。


「聞こえてるよね? ねえ、無視しないで。――君も」


 ふいに視線を向けられ、良太は躰を強張らせた。息は浅く、荒くなっていた。心臓の鼓動で躰が揺れ、音は外まで響いていそうに思えた。


「聞こえてるね、見えてるね。……ねえ、そんなに怖がらないで? 友達になろう?」


 そう問いながら、ウカガイ様が躰を起こした。ヂリン、と鈴の音が鳴った。

 音の出どころは手元だ。冊子のイラストと同じように、左の手首から手の甲の側を伝って赤い糸で編まれた細紐が伸び、中指の先から逆さにした卵のような鈴がぶら下がっている。卵の先端は咲きかけた花の蕾のように割れ、鋭く尖っていて、内側は真鍮色に鈍く光っていた。


 卵型の鈴は表面に乳白色の上薬が塗られており、細かな模様の入った金具にはめこまれている。金具は卵の最も太いところの僅かに下を取り巻き、四方から上へと伸びて、紐と結び合わさるところで十字につながっていた。


 ウカガイ様が教員の背後を抜けて良太の側へと回ってくる。一歩ごとに鈴が揺れ、弾み、音を発する。時折は澄んだ音を、時折は濁った音をたてながら歩み寄ってくる。


「ねえ友達になろう? 皆、私のこと見えないふりするから、私の声が聞こえないふりをするから、ずっと一人なんだ……だから、ね? お話しよう?」


 そう口のなかで笑いながら、ウカガイ様が机に手をつき、良太に顔を近づけた。ほんの数センチの距離に顔がある。良太の身の内には緊張だけがあった。


 母と教員が早口で会話をしているが内容が耳に入ってこない。自分を覗く同い年の少女の視線が、恐ろしく、声が鼓膜にへばりつき、躰は母の手で縛められて動けない。


「ねえ、見えてるんでしょう? 見えてるって言って? お願い」


 良太は目に涙を滲ませて必死に声を堪えた。

 すると、ウカガイ様が手首をゆるりと返して鈴を摘み持った。ゆっくりと、ゆっくりと持ち上げて、割れた卵の先を良太の右目に見せつけた。


「見えてないなら、いらないよね? ……なくても、困らないよね?」


 良太は我知らず震えた。ウカガイ様が口の中で笑った。卵型の鈴が、その鋭く尖った欠け口が嬲るようにゆっくりと迫ってくる。


「お母さんに掴まれて、逃げられないね。見えるよ、って、そういえばいいだけなのにね」


 真鍮色に鈍く光る鈴の内側に、奇妙な形のぜつが見えた。小さな嘴。頭に比べて異様に大きな閉じた瞳。雛の首だ。鈴を鳴らすための舌が雛の首の意匠になっているのだ。


「ねえ、見える? 見えてる? 逃げればいいのに、逃げられないね」


 クスクス、クスクス、ウカガイ様が笑った。鈴が迫る。

 耐えきれず、良太がまさに悲鳴をこぼす直前に、教員が一際、大きな声で言った。


「それでは! 他に何かご質問はありますか?」


 ウカガイ様が止まった。鈴も止まった。母の声が強く答えた。


「いえ、ありません。これから、息子をよろしくお願いしますね」


 大げさすぎるくらいに椅子を鳴らして教員が立ち上がった。ウカガイ様が振り向いた拍子に母の手が良太を引いた。良太は半ば抱きかかえられるような状態で強引に席を立たされた。


「……これから、よろしくね?」


 ヂリン、とウカガイ様の鈴が濁った音を鳴らした。

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