空の屋上
野々宮 可憐
空の屋上
そこにはピンクの薔薇の髪飾りをつけた先輩がいる。
僕だけがその存在を知っている、先輩が。
蒸し暑い空気に階段を登る音が響き渡る。頂上には重厚な扉が立ちはだかっていた。そっと銀色のドアノブに手を伸ばすと、ぬるい感触が指先を支配する。
うるさい心臓の鼓動が聴こえないか心配だ。
深呼吸をひとつして、手汗でドアノブが滑らないように力を込めて捻り、開けた。風が僕の体にぶつかるのと同時に
「ばぁ! 今年もようこそいらっしゃいました!」
冷たい体を持った彼女は、僕に抱きついた。
この学校は屋上の出入りが禁止されている。だけど夏休みの間、夏休み最終日にある文化祭準備の下調べのために屋上の鍵が特別に生徒会本部に渡される。僕は二年連続でその役目を担っていた。
「ねー聞いてる? 君がいない間、ほんっっとに暇だったんだからね! だーれも来ないんだもん。ソーラーパネルの点検におじさん達が来たくらい!」
「仕方ないじゃないですか。この時期しか屋上が開かないんだから」
「まぁそうなんだけどねっ。さぁ! 今年こそ当てられるかな〜?」
彼女はふわりと飛び上がり、フェンスの上に着地した。
「私は一体何者なのか!」
彼女は屋上を住処とする幽霊である。
ことの始まりは、一年前だった。
当時僕は高校一年生で、生徒会本部役員をしていた。それで押し付けられたのが、屋上整備員。
今年から文化祭のみ屋上が自由解放され、全校生徒は打ち上げられる花火を間近で見ることができるとのことで、そのために屋上をよく点検して掃除して、不備があったら報告するというのがこの役割だ。
僕はこの仕事を知った時唖然とした。こんな危険な役目は業者にやらせろよって思った。でもうちの学校はフェンスがめちゃくちゃ頑丈だし高いしで安全だし、経費削減したいしで業者を呼ばないという判断をしたらしかった。
ちなみにこの役員はすごく人気がなかった。その理由は単純で、めちゃくちゃ暑いから。だから特に意見も何も出さなかった僕が、この誇り高き役割を担うことになった。
最初の一日だけちゃんとやって、後は適当にサボろうと思った。でも彼女はそうはさせなかった。
「こんにちは〜! ようこそ
屋上に入った途端、彼女が扉の上から向日葵のような笑顔を逆さまにして現れた。
小麦色の肌を隠すようにこの学校の制服を着て、茶色がかった黒髪を肩より短い位置で揺らしている少女だった。
「生徒が来るなんて初めて! 私の事見える?」
少女は寂しそうに笑った。まるで僕が彼女を見えないのだと決めつけるように。
「……見えるけど、君って何……?」
僕はラムネのビー玉のように透き通った彼女の瞳を見て言った。彼女は唖然として、すぐに炭酸が弾けるように笑った。
「見えるのー!? 私はね! ここの幽霊だよ!!」
初対面の時、僕は声を上げて腰を抜かした。彼女は「驚きすぎだよ〜!」とか言ってケラケラ笑ってたけど、ラノベの主人公じゃあるまいし、そんな簡単に理解できる訳が無かった。幻かと思ったら彼女がひんやりとした手でツンツンと触ってきた。
僕はすぐに帰ろうと思った。熱中症だ、この暑さにやられたんだ、と思って休もうと思った。
扉を閉めようとしたその時、彼女が僕の袖をキュッとつまんで
「行っちゃうの? 明日は来てくれる?」
と上目遣いで言ってきた。主人に置いていかれる子犬のような目をしてた。僕の家族である犬のだいすけが僕を見送る時の姿と彼女が重なった。これは置いていけない、置いてくやつは人間じゃない、と思わされてしまった。
僕は顔を覆い隠して情けない声で
「飲み物を買ってくるだけだよ……」
と言った。そしたら彼女はニヤリと笑って、僕は初対面である彼女の策にまんまと嵌ったことに気がついた。
それから炎天の下、僕と彼女の夏休みが始まった。彼女は自分のことを『先輩』と呼ばせ、後輩なら敬語だよね! と敬うように指示してきた。
そして僕は課題があっても、どんなに雨が降ってても、学校が開いている日は屋上に足を運んでしまった。彼女は屋上に長い間ずっとひとりぼっちだったようで、少し同情してしまったからだった。
でも屋上にずっといた彼女は、自分の居場所のことを知り尽くしていて、不備などを明確に教えてくれた。だから僕は屋上整備員として非常に優秀だった。
ので、僕は今年もこの役目に抜擢された。指名されなくてもやるつもりだったけど。
「ねー、何をぼーっとしてるの? せっかく来たんだからおしゃべりしようよ」
先輩は去年のように僕をツンツンしまくる。幽霊のくせに、先輩のことが見えている人には触れるようだった。
「いや、去年のことを思い出してただけです。今年も課題持ってきたから、知恵を貸してください」
「仕方ないなぁ〜! その代わりに来られる日は来るんだよ
先輩が人差し指を真っ直ぐに立てて偉そうに僕に言う。
こうして、盆休みを入れなければ三十一日間の、僕と先輩の夏休みが幕を開けた。
一日目
僕はノートと問題集と飲み物を屋上の床に展開した。すごく書きにくいけれども机を持ってくる訳にもいかないので去年から我慢している。
「先輩、ここの部分教えて。……先輩?」
彼女はふわふわと浮きながら目の中のぐるぐるマークをくるくる動かしていた。
「円の公式……? 数列……?」
「え? 先輩、わかんないんですか?」
「うるさいやい! 習ってないだけだもん!!」
「へぇ〜。先輩って高一なんだぁ。先輩に関する情報、初めて自分からゲットしました」
僕は去年、どうしても謎の少女である先輩のことを知りたくて、あらゆる手で訊きだそうとしたが、どうしても僕に自分の情報を教えてくれなかった。
分かっていることは、屋上にいること、この学校の生徒であったこと、つけている髪飾りの花が好きなこと、そして今ゲットした高一であること、だけだ。
この学校の七不思議とかを調べようと思ったけれど、「そんなのずるい!!」とインターネットを使うことを制限された。
もしこのようなずるい手を使ったら、少し嫌いになると言われた。そしたら僕は彼女の言うことを聞かざるをえない。
「じゃあ先輩って呼ばなくてもいいですか?」
「だめです。私は先輩です。ほら、ちゃっちゃっと解きなさいよ」
先輩は腕を組んで屹然とした態度をとる。僕はとにかくペンを動かした。
「暑かったら言ってね。抱きしめてあげよう」
先輩の身体は冷たい。腕も、足も、唇でさえも。
だから去年は温度を下げるために後ろから抱きしめられたりしていた。
僕は立派な男子高校生で、標準的男子高校生だ。女子と目が合ったら好きになってしまうような、普通の。
男子高校生は女子に抱きしめられたら、その子を意識するなと言われても無理だ。例え、それが幽霊であっても。加えてこの屋上には僕と先輩の二人だけだ。先輩についての情報は分からないのに、先輩の可愛いところも、変なところも、去年知ってしまった。
もうどうしようもない。僕は、先輩のことが好きだ。
「何見てるの? 見惚れちゃった?」
「いや別に。なんとなくですよ」
去年、文化祭の時に絶対に叶わない想いを打ち明けようとした。でも、初めての緊張のせいで小さく呟くようになってしまった告白は、あっけなく打ち上げられた花火に掻き消された。
あとはラブコメによくある通り、我に返って僕の告白は失敗に終わり、僕と先輩の夏休みが終わってしまった。
この日を、また逢える日をどれだけ待ち望んだか分からない。でも、告白はできない。よくよく考えなくてもわかるけど、先輩は幽霊。付き合うことを抜きにしても、きっとこの気持ちを受け取ってはくれない。その後どう接すればいいか、僕は分からない。
だからせめて、最終日。今年は必ず花火よりも大きな声で打ち明ける。
「なぁ開青くんよ。今更だけど、君ってどっか遊びに行かないの? 毎日来てよとは言ったけど、友達優先でもいいんだよ? 泣くけど」
「学校が空いてない日は普通に遊んでますよ。それ以外は屋上整備員の仕事あるので」
「嘘つき! 屋上整備員の仕事するのは最初と文化祭直前だけでしょ!!」
先輩はビシッと僕を指さす。僕は見ないふりをして解きまくる。先輩は飛べるのに僕のノートの目の前に正座した、と思ったらノートに覆いかぶさった。僕は驚いて仰け反る。
「暇だよぉ〜開青くん。去年はまだ教えられたのに、今年は教えられないんだけど〜。まぁいつもに比べたら、話し相手がいるだけ全然マシだけどね」
そしてノートの上でジタバタしだす。でも僕にとってはなんの問題もない。先輩は不満そうな顔をして起き上がる。ノートはクシャクシャになっていない綺麗なままだ。
「今年も触れないや。君には触れるのに」
僕のペンケースを指で弾いて、つまらなそうに呟いた。ペンケースは微動だにしない。先輩の指が無常にペンケースを通過した。
「先輩って結局なんなんですか? なんで僕だけに見えるの? 僕がおかしいんですかね」
「おや〜? 去年の話忘れちゃった? 私が何者か当ててみてって言ったでしょ! 開青くんはおかしくないさ。霊感が強いんじゃない?」
先輩は起きてふわりと浮いた。そのままあぐらを書いて僕を眺め続ける。先輩は思い出したように口を開いた。
「そうだそうだ。私、開青くんがいない間にいろいろ試したの。でも結局出られなかったよ。屋上から。見えない壁があるみたい。床にも側面にも」
先輩は浮いたまま体を横に倒して屋上をごろごろと転がる。僕はようやく目標の数だけ問題を解き終わったので、先輩の方に目を向けた。
相変わらず不貞腐れた態度でごろごろ転がっている。
「まぁまぁ、今年も僕がいますし、色々おしゃべりしますよ。何から訊きたいですか?」
「じゃあ最近の流行りものについて教えてよ! 勉強してきてるでしょ?」
去年と同じセミの鳴き声とグラウンドから聴こえる部活の声援に包まれながら、先輩と和気あいあいと雑談を始めた。
「なるほどねぇ。今はチョコマシュマロとしっとり系のクッキーと氷タンフルが流行っていると。去年もそうだったけど、君は流行りものに疎いねぇ〜。勉強してきてよぉ」
僕はまったく流行を知らない。だから色々調べさせられていたら、あっという間に下校時間になっていた。今日は学校の都合上、午後からしか来られなかったけれど、もう少ししたら学校は一日中開くはず。先輩ともう少し一緒にいられるはず。
「分かりましたよ。明日までに勉強してきます。ほら、帰りのチャイムが鳴りました。僕帰りますね!」
「え〜! 待ってよぉ〜!!」
先輩が僕の服をつかもうとするが、あっけなくすり抜けて腕が掴まれた。ひんやりとした柔らかい感触が伝わる。何度も言うように、僕は単純な男子高校生だ。
「ちょっと先輩! やめてくださいよ! 僕が男子高校生であることを! 先輩は忘れ」
「明日も来るよね?」
先輩は上目遣いで僕を見る。ずるい。ずるすぎる。僕はずるずるとしゃがんで顔を隠した。
「……明日までに流行を調べてくるって言ったでしょ……。何があろうと来ますから……」
先輩はパッと笑って手を振った。またあした! とか呟きながら。
僕は名残惜しいけど、少し熱いドアノブを捻って開けた。
夏休みが始まって二日目
「ははーん、今はこの曲が流行っているんだね。リズムいいなぁ」
僕はちゃんと予習してきて、先輩に流行りの曲を聴かせた。
「ねね、これにダンスとかあったりするの?」
「あります。先輩、ダンスならできますよね? 踊ってくださいよ」
「えー! 恥ずかしいから開青くんもやってよ!それならやる!」
先輩はひまわりのように無邪気に笑った。先輩のダンスが見れるのなら、己の恥などあってないようなものだ。全力でやってやる。
「じゃあこれやって見ましょうか。あ、これ二人でやるやつですね」
「ちょうどいいじゃん! やろうやろう」
体育評価Dの僕は頑張る。それでもかなりおかしな動きをしているらしく、先輩にケラケラ笑われた。結局、今日一日はダンスの練習に費やしてしまった。僕は汗だくになった。
「明日も来る?」
「明日から一日中学校が開きますけど、夏休み追加学習っていう訳わかんない授業があるので、午後から来ますよ」
「そっかぁ〜。懐かしいな夏休み追加学習。あれうざいよね。頑張れよ後輩!」
先輩はポンと背中を押した。なんだか明日も乗り切れる気がする。
夏休みが始まって三日目
「終わりました〜!」
「おつかれぃ! 待ってたよぅ。昨日のダンス復習してた! でも忘れてる部分もあるから確認しよ! そしたら二人で踊ろう!」
先輩はわくわくと踊りながら僕を歓迎する。ちなみに僕は、昨日帰ってからは勉強なんかせずに自室でダンスの練習をしていた。部屋を通りがかった姉に冷ややかな視線を送られた気がしたけど、そんなの知らない。
「僕もう踊れますよ。昨日練習したんで」
「そんなのずるいよ! 私だって練習できたんならしたもん!」
先輩は僕が出したスマホを食いつくように見て頷きながらダンスの練習をした。
「よしっ! できる! じゃあやってみよう!」
腕を掴み、僕は青い空の下に連れてかれた。
「音楽再生! よーい! スタート!」
僕と先輩は、太陽だけに見守られながら二人で踊る。先輩は見たことないぐらい楽しそうで、僕は自分がどんな顔をしているのか分からないぐらい高揚した。
何回か先輩も僕も振り付けを間違えて、二人でまた動画を見て学んで、もう一度実践をする前にチャイムが鳴った。
「じゃあ明日こそ完璧にやろうね」
「もちろんですよ。先輩もちゃんと復習してくださいね」
「もう覚えたから大丈夫! じゃあまたね」
先輩が手をひらひら振ったのを確認して、扉を閉めた。
夏休みが始まって四日目
「今日も来ましたよっと……、先輩?」
いつも先輩は出迎えてくれる先輩が出てこない。あの人どっか行けないんだけどな……。
「ばぁ〜!!」
上から先輩が降ってきた。いつも先輩といる時はドキドキしているが、今回のドキドキはいらない。
「びっくりしたね? 嬉しいなぁ。いつもいつも反応がよくて楽しいよ私は」
先輩はふわふわと浮いてくるくる回っている。
「あんまりひどいと僕帰りますよ。ダンスの練習はしましたか?」
「もちろんだよ。めっちゃ踊れる」
先輩は自信ありげにブイサインを作った。
「なら、撮ってみましょうか。スマホ置いて」
先輩の頭上に疑問符が浮かんだのが見えた。
「え? たぶん私映らないよ?」
「映る映らないじゃなくて、一緒に踊って撮ったっていう事実が大事なんです。ほら、やりましょう」
僕はスマホの録画ボタンを押して赤くした。先輩は嬉しそうにふわふわ浮きながら、僕と一緒に踊った。
太陽だけが僕らを見守る中、何度も踊って、ようやく満足できるダンスができた。その時僕と先輩はできるだけ強くハイタッチした。
夏休みが始まって五日目
「こんにちは……。来ました……」
「あらぁ? げんなりしているね。今日で追加授業終わるんだよね? どうかしたの?」
先輩は心配そうに眺めてくる。僕は悩みの種である紙切れを出した。
「進路希望調査?」
「そうです……。僕は夢なくて……」
昔は沢山夢があった。サッカー選手になりたいと願った。けれど現実は簡単にそれを否定した。僕は今日渡された進路希望調査の紙をひらひらと力無く振る。
「じゃあ今日は私と将来について語り合おうじゃないの!」
先輩は朗らかに笑うが、僕は一つの過ちに気づいた。
先輩には将来がない。僕がしたことはあまりにも先輩に対して失礼じゃないか?
「あ! 将来がない先輩にこの話はキツくない? って顔してる〜!」
先輩は楽しそうに言い当てた。僕は固まる。
「別に気にしてないよ! 私も未来があるかもの話しがしたいし!」
「どういうことですか?」
「気にしなくていいよ。生き返ったらの話」
こんな感じに誤魔化されてしまったら意地でも教えてくれないことは去年学んでいる。僕は唸りながらも、先輩と一緒に将来について語り合った。
「私はね〜、可愛いお嫁さんになりたかったんだ〜。高校生時代にたっぷり青春して、誰かと恋してキスをして。きゃー! 恥ずかしい!」
先輩は顔を覆い隠す。頬は赤く染められないようだった。
「僕は、人助けができる仕事がいいなとは思っているんです。好きな人を助けられるような」
「すごくいいじゃないの。君と結婚できる人は幸せだねぇ〜」
好きな人──先輩を助けるには、どうしたらいいんだろう。ずっと太陽のように笑っている先輩を屋上から連れ出すには、僕は何になればいいんだろう。
夏休みが始まって六日目
「私もなんか食べたーい!!」
先輩がじたばたと僕の昼食を見ながら言う。登校途中のコンビニで買った冷うどんだった。
「でも先輩、箸持てないし食べ物も貫通するじゃないですか」
「それはそうだけど〜! はぁ……。実体がないと辛いよ……。なんか幽霊って取り付くイメージあるじゃん? 私全くできないの。ソーラーパネルのおじさんでも試したし、君に入ろうとしてもぶつかるし」
先輩は体操座りで文句を言う。残念ながら僕には解決できない問題だ。
「仏壇スイーツなら食べられたりするんですかね。明日持ってきてみます?」
「いらない! 仏壇スイーツは美味しくない! それに、幽霊に直接食べさせるやつじゃないでしょ!」
「失礼だなぁ。僕は落雁結構好きです。まぁ幽霊には……そうかもですけど」
先輩がむっと僕を睨みつけた。
幽霊。そう、彼女は屋上にいる幽霊。彼女は本当に幽霊なのか。僕は未だに信じられないままでいる。
「ねぇ、そろそろ先輩について教えてくださいよ。一年経ったし、良くないですか?」
「やだー! 謎の屋上少女でいたーい! 知りたいなら暴いてよ! 名前を当てられたら全部教えてあげるから!」
先輩はふわっと浮かんで逃げてしまった。
夏休みが始まって七日目
僕は相変わらず膨大な量の課題を解く。先輩はそれを覗き見していた。ふと顔を上げると、ピンクの髪飾りが目に入ってきた。
「その髪飾り、綺麗ですよね」
「去年も褒めてくれたよね。この髪飾りの花の名前は覚えてる?」
「セントセシリアですよね。ピンクの薔薇の」
「そーだよ!『温かい心』とか『君だけが知る』が花言葉! 私の一番好きな花!」
先輩は立ち上がり青空の下へ行く。水色の空の下に咲くピンク色の薔薇は、対象的で可憐だった。
僕の好きな花もセントセシリアだ。去年好きになって、今の僕の家の庭にはピンクの薔薇の蕾がある。夏に咲くように調整したので、咲いたらサプライズで持ってこようと思っている。
「あ、すみません先輩。僕明日は来られません」
「えー! なんで!?!?」
「三者面談がありまして……。午前中にあるので午後は親と話し合いになると思うんです」
先輩は見るからにしゅんとするが仕方ない。僕だって憂鬱だ。
「まぁ仕方ないね。存分に話し合ってくるがいいさ。行ってらっしゃい!」
夏休みが始まって八日目
「なりたいものがない……。まぁよくある話ですよ。空本さんの成績なら焦る必要はありませんし。でも、とりあえず進路希望は決めておいてくださいね」
三者面談。先生は僕の成績を見ながら呟く。隣の母は口を開いた。
「私としては、開青がいいならなんでもいいんですけど……」
ちらりと僕の方を見る。僕はその場しのぎの言葉を唱えた。
「もう少し考えてみます。ありがとうございます」
夏休みが始まって九日目
「先輩……ぼくは何になればいいんでしょうか……?」
僕は屋上で弱音を吐いた。昨日のことを思い出しては嫌な気分になる。
「え〜。私はこの間も言った通り、可愛いお嫁さんになりたかったから、アドバイスなんてできないよ。周りの人からは能天気って言われたけど」
先輩は相変わらずふわふわ浮いて僕を見つめる。スカートは物理法則に従わないらしい。
僕は再度、空白の用紙を睨みつける。先輩は僕のおでこを弾いた。
「そんな顔しないのー! 大丈夫だよ! 私が保証する。開青くんは立派な大人になれるさ! にしても、空気を読まないお空だねぇ。こういう時は青空でスカッとするべきなのに、曇りですよ」
先輩は空を見上げてぶつくさ文句を言う。何故か先輩を見ていたらどうでもよくなってきてしまった。
「空気を読まない空って、なんかいい表現ですね。気に入りました。今度から使おうかな」
夏休みが始まって十日目
先輩と過ごせる三分の一が終わった。悲しい気分なのに、空は憎たらしいほど快晴で、空気を読まない空だと感じた。
昨日と同じように空白の紙を眺めつつ階段を登る。
「やっほーい! いらっしゃい! あれ、今日はなんか大荷物だね。ダンボールだ。どうしたの?」
「文化祭の準備ですよ。センスを貸してください。宣伝用看板を可愛くデコるなんて、男子高校生には酷です」
先輩はケラケラの笑ってグッドサインを作った。
「お悩み進路はもういいの?」
「まだ悩みますよ。でも、今日はこっち優先」
「いい事だ。じゃあこの先輩が力を貸そう」
僕は飲み物とカバンとダンボールを床に展開する。
貰ったシールを先輩が指さした位置に貼っていった。流石は女子高生で、センスのない僕から見ても可愛いものとなった。
夏休みが始まって十一日目
昨日の看板の出来の良さをクラスメイトに感動され、今日も看板作りを任された。
今日は昨日の雲を全て吹き飛ばしたかのような快晴で、ジリジリと屋上を太陽光が焼いていた。
「早く終わったなぁ。じゃあ次は進路でも考えよう」
僕はカバンから進路希望調査とペンケース、そして分厚い大学資料を取り出した。
「重くて嫌んなりますよ。今度は鞄を
僕は鞄の中身を見て溜息をついた。 先輩が突然真面目な顔して口を開く。
「
「え?
「そうそう。日本語のいい所だよ。色んな表現があるの。君の進路希望だって、空白って言うより
先輩が僕の空の用紙を指さす。突然の謎発言に、頬が緩んでしまった。
「ふっ、なんかいいですね。その発想。僕は好きですよ」
先輩は僕が喜んだのか嬉しかったのか、満面の笑みでくるくるしだす。
「今日の
「伽藍堂じゃないですか?」
「それそれー! ほら、開青くんよ! 上を見たまえ!」
先輩は空中に浮きながら空を指さす。
「嗚呼!! なんて素敵な伽藍堂!」
先輩が急に叫んだ。恐らく僕を笑わせるために文豪のようなおかしな言い方をしているのだろう。僕は見事に引っかかって笑ってしまった。
「なんですか? その語り草。妙に語呂がいいな」
「大丈夫さ。
「めっちゃ謎理論ですね。でも僕はめっちゃ好きです。なんの解決にもなってないけど」
先輩は手を後ろで組んでニコニコしている。
すると、後ろからガチャリと音が鳴った。
「
振り向くと、確かこの学校に務めて五年目の
「屋上整備員の仕事をしていて……。ついでに文化祭準備もここでやってました」
先輩は慌てる僕を見て楽しんできるようで、先生の横にたって腕を組んでいた。
「君は仕事熱心だね。こんなに暑いのに毎日来てるらしいじゃないか」
「まぁ、屋上が好きなんですよ。虫もいないし、特別感があるし」
「そうか。熱中症だけには気をつけるんだよ。転落は……まぁこんなに柵が高いし、無理だと思うけど気をつけなさい。たまに様子を見に来るね」
先生はすぐ帰って行った。先輩は先生が消えた扉を見つめる。
「もしかして、知ってる先生ですか?」
「さぁどうかな」
先輩はそっぽを向いた。もしかしたら、あの先生なら先輩のことを知っているかもしれない。機会があったら訊いてみよう。
夏休みが始まって十二日目
僕は去年と同じく先輩に急かされて課題を全て終わらした。
「お見事! やるじゃないの」
「先輩のおかげというかせいというか……」
先輩は先程から僕にバックハグをしている。暑い暑いと僕が言ったから冷ましてるらしい。逃げ出したいけど逃げ出したくない。
そんな僕らを、蝉や吹奏楽部や野球部の音が包む。去年と同じくうるさいばかりだ。でもどこか心地いい。
「君は相変わらず帰宅部のエースなの?」
「そうですよ。目指せインターホンです」
「君は夏休みの学校が開いている日は部活に明け暮れている訳だね。熱心で素晴らしい」
先輩は感情がこもってない拍手をする。拍手とはいっても音は鳴っていないけれど。
「先輩の部活は、相変わらず教えてくれないんですか?」
「うん! 教えないよ! 言ったでしょ。暴け!」
先輩は元気に否定する。僕が呆れようとした時、ガチャ、と扉が開く音がした。
「あ! 空本くん! やっぱり居た!」
声を出したのは見知った顔、ポニーテールを揺らしながら来たのは
「
同じ生徒会の同級生だった。横田さんはにこにこと笑顔を見せてジュースを差し出す。
「これ、差し入れ! 暑い中毎日頑張ってるって先生に聞いたから、来ちゃった。手伝うことある?」
先輩は僕の背中に隠れ、誰? 誰? と僕に訊いた。しかし応えられない。
「ううん、もう終わったから、帰ろうかなって思ってたところだよ。」
先輩との時間を邪魔される訳にはいかない。横田さんを早く帰らせないと。
横田さんはパッと顔を明るくして
「そうなの? じゃあ一緒に帰ろう?」
と言う。……困ったな……。まだやることあるって言っても、ついてきそうだし、先に帰ってって言ってこの後の生徒会活動に支障をきたすのも嫌だ……。
先輩はとトッと僕の背中を押した。そのせいで、僕は横田さんに一歩近づいてしまった。
振り向くと、先輩は笑顔でひらひらと手を振っていた。
ここで帰ったら負けな気がする。
「横田さんごめ」
「早く行こう!」
僕の声は呆気なく掻き消され、屋上から連れ出される。ガチャリと音が響いた。
夏休みが始まって十三日目
僕は懲りずに屋上への階段を上り、扉を開ける。先輩は驚かしに来ず、柵のそばで野球部を見守っていた。先輩が振り向く。
「おや、来たんだ」
「来ますよ。昨日はすみませんでした」
「何について謝ってるの? 青春しなさい若者よ。あの子、きっと開青くんのことが好きだよ。私も女の子だもん。わかっちゃう」
先輩の表情は見えない。声に含まれている感情が分からない。
すごく嫌で複雑な気分だ。僕は先輩の事が好きなのに、別の子を勧められた。でも、先輩は僕に先輩のことを恋愛的に好きになって欲しくないのかもしれない。というかきっとそうだ。もう遅いのに。
何度も別の子を好きになろうとした。でも天真爛漫な笑顔をすべてをかっさらう。先輩以外を好きになれたらどんなに楽なんだろうか。
「私もあの子みたいな恋したかったなぁ……」
先輩は寂しげに呟く。その時、またガチャリと音がした。そこには晴川先生と、横田さんがいた。
「空本くん! 来たよー!」
来るなぁあああああ!
「今日もやってるかな? 様子を見に来たよ。こんなに暑いのによく来るなぁ」
先輩は屋上入口の上へ飛んでいって座った。僕らを微笑ましく眺めている。
「どこ見てるの?」
「いや、別に。僕はちゃんと仕事してますよ。お気なさらず」
「そうかな? これ、僕からの差し入れです。じゃあねまたね」
先生は帰っていく。横田さんは帰らない。
「ちょっとおしゃべりしない? 私も屋上にいたい! なかなかないじゃん! こういう機会!」
「そうだね……。でも暑いからちょっとね」
僕は応じる。こういうタイプは断るより要求を少しだけ飲んだ方が楽だと姉から教わった。
「空本くんは宿題終わった? 私は英語終わったよ」
「全部終わった。面倒見がいい人がいてね」
「全部!? すごいね!!」
あぁ、早く先輩と喋りたい。今日はリバーシ持ってきたのに。
僕がどうにか横田さんを帰らせようとしても、先輩は僕の口を塞いだり耳元で、青春しろよ青春しろよ……、と囁いたりする。僕はあなたと青春したいのに。
結局、昨日と同じく横田さんと帰らされてしまった。
夏休みが始まって十四日目
今日こそはと屋上に入ろうとするとカギが開いていて、嫌な予感がしつつも開けたら横田さんがいた。そして先輩が横田さんの隣に座っていた。
「あ、空本くん! 待ってたよ!」
無邪気に僕と先輩の時間の終わりを告げる。先輩はニヤニヤとこちらを見ていた。
相変わらず僕が横田さんに何か言おうとすると口を塞いで、たまに叩いたりキックしてきたりする。こんなに僕と横田さんをくっつけたいのかと悲しくなった。
「ねぇ、空本くん。これ踊ってみない? 誰もいないしさ。私これずっとやってみたかったんだよね! お願い!!」
見せてきたのは、先輩と踊ったダンス。
「ごめん、僕めっちゃ運動音痴で、ダンス苦手なんだ」
夏休みが始まって十五日目
とうとう僕と先輩の夏休みの半分が終わってしまう。今日こそは先輩の制止を振り切ってでも横田さんに来ないで欲しい旨を伝える。もう生徒会のしがらみとかどうでもいい。
昨日と同じように扉を開ける。横田さんが待っていた。
「空本くん、こんにちは」
昨日よりも元気がないように見える。そして横田さんはもじもじしだした。
「ごめ……、上手く言えないかも……。私ずっと、空本くんが好きだったんだ……! よかったら付き合ってください!!」
横田さんは深々と礼をして僕に右手を差し出す。僕は人生で初めて告白された。
屋上で、先輩がいるところで告白されたくなかった。僕の返事は決まってる。
「ごめんなさい。好きな人がいます。付き合えません」
僕も礼をした。横田さんより、深く、深く。
「そっかぁ……。ありがとう!」
横田さんは急いで屋上から出ていく。先輩が近寄ってきた。ひたすら僕の頭を撫でる。
「そうかぁ、いらんお世話焼いてごめんね」
「いいんですよ……。そういえば、あの子の紹介全くしてなかったですね。横田恋香さんです。同じ生徒会で、バレー部の」
「バレー部かぁ……。あの子見る目あるなぁ〜。でも相手が悪かったね」
先輩はひたすら僕の頭を撫で続ける。僕の好きな相手が、あなたであることに気づいているのだろうか。
夏休みが始まって十六日目
雨が降っていた。それも土砂降りで、仕方ないから傘を持って屋上に来た。
「おお……来ると思ってたけどやっぱり来るんだね」
濡れない先輩は僕を出迎える。暗雲の中にセントセシリアの髪飾りが一つ咲いていた。
「去年も来たでしょう」
「今年は皆勤賞だね。最終日に賞状授与しよう」
今日は濡れて床が座れないので、立って雑談をする。他の人から見たら異様の光景だ。でも僕にとってはかけがえのない光景だ。
突然、ガチャリと音が鳴る。これ以上聞きたくない音だった。振り向くと、晴川先生がドアノブを握っていた。
「まさか今日もいるなんて……。何をしているんだい? こんな土砂降りの中で突っ立って……」
晴川先生は呆然と呟く。僕は誤魔化す言葉を考えるけれど、上手くいかない。
「……ちょっと相談室まで来なさい。待っているから」
ガチャリと閉まる。先輩は僕の肩を叩いた。
「今年はよくデートを邪魔されるね。残念だなぁ」
「デートって……。ようやく横田さんから逃れられたのに。だって、明日から盆休みなんですよ?学校が一週間開かないんです。会えないなんて……」
先輩はまた笑顔を貼り付ける。それがどうしようもできないのが悲しい。
「いつものに戻るだけだよ。あっ、今日はもうそのまま帰りなね。さすがに雨降りの中おしゃべりは難しいさ。雨音の合唱で、君の声がよく聞こえないからね」
ひらひら手を振る。そしてふわふわ飛んで扉の横に降り立った。
「さぁ行きな。一週間後、待ってるよ」
どうにか抵抗しようとしたけれど、先生に不審がられて屋上の立ち入り許可がもらえなくなったら困る。
僕は先輩に礼をして、上靴を拭いて、屋上から立ち去った。
「お、来たね。そこに座って。このお菓子は好きに食べていいから」
晴川先生は煎餅類が入った皿を差し出した。僕は一つ取って口に入れる。
「なぁ空本君、何か悩んでいることがあるのかい?」
「悩んでいること……? 進路とかですかね……?」
「屋上によくいる理由を教えてくれないか? 去年もずっといたって噂だけど、ただ屋上が好きなわけじゃないんだよね?」
晴川先生は真っ直ぐに見つめてくる。もしかして僕が飛び降りるのではと心配しているのかな?
実は好きな人が屋上にいるんですなんて言えない……。
「あの、質問に答えてはいないんですけど、この学校七不思議とかあったりしますか? 例えば……屋上に住む幽霊とか……」
流石にこの訊き方は不審だな。しかし晴川先生の目が見開いた。
「もしかして、屋上に幽霊がいるのかい?」
急に僕の心を読んできた。バレた、そういう反応をしてしまった。どうしよう。
「その幽霊は、ピンクの薔薇の髪飾りをつけた少女かい?」
晴川先生はすごい剣幕で詰め寄る。なんで、なんで知っているんだ。僕だけが知っているはずなのに。
「そ、うですね。名前は教えてもらってないけど、女の子が、います。この学校の高校一年生らしいんですけれど……」
晴川先生は力無く椅子に座って呟いた。
「そういう事だったのか。彼女はずっと屋上にいたのか」
「知っているんですか!? あの子のこと」
僕は自分でも驚くくらい机を叩いて晴川先生を問い詰めた。晴川先生は腕を組んでぽつりぽつり真実を口にし始める。
「彼女の名前は、
頭の中が真っ白になる。あの人が?雨雲を吹き飛ばすようなあの人が?
「飛び、降りた? それ、自殺ですよね……?」
「そうだよ。僕は当時、教科担任でも顧問でもなかったから、彼女のことをあまり知らなかった。快活な少女だったらしいよ。でも、彼女の部活のバレー部でいじめにあっていたようで、加えて進路にも悩んでいた。忘れもしない。文化祭の次の日の、快晴の日だったよ。彼女があの高い屋上から飛び降りたのは。怖かっただろうなぁ」
先生は悲しげに俯く。僕は微動だにできない。じゃあどうやって先輩は天真爛漫に笑い続けているんだ。じゃあどうして泣き叫ばないんだ。
「彼女は、死んでいないんだ。ずっと植物状態で、面会ができない。意識が屋上に閉じ込められているのかもね」
死んでいない、その事実に僕は少しの希望を見出す。でも、僕は植物状態というのがどういう状態か知っている。奇跡が起きない限り、目を覚ますことは無い。
「彼女が飛び降りるまで、屋上の柵はあんなに厳重じゃなかったし、一年中解放されていたんだ。彼女の事件があって、二年間屋上は閉鎖されていた。でも多くの人の要望で、文化祭だけは屋上が開放されるようになったんだ」
「それで、屋上整備員が発足したんですね。先輩は、ずっとひとりぼっちだったようです。それで、見える僕は彼女のところに遊びに行っていました」
「そうだったのか。ありがとう。僕らは、教師達は、空野さんを守れなかった……。彼女にどう謝罪すればいいのかわからない……。お願いだ。少しでも空野さんとと一緒にいてくれ……。君にしかできないんだ。身勝手なのは分かってる」
晴川先生は机に手を付き頭を下げる。別にお願いなんかされなくても、僕は屋上に通い続けるのに。
「大丈夫です。僕は屋上が開いている間はずっと通います。空野先輩に、身勝手だけどどうしても伝えたいことがあるんです」
夏休みが始まって二十四日目
とうとうこの日がやって来た。友達と遊びに行ってる時も、家族で親戚の所へ行く時も、ずっとこの日のことを考えていた。いつも通り、ドアノブを捻り、風が体にぶつかる。
「やぁ!! お久しぶり〜!!」
先輩は初日と同じように驚かしてきた。ずっと天真爛漫にはしゃいでいるのは、本心からの行動なんだろうか。
「空野先輩」
僕が呟く。先輩が固まる。
「は、え? 暴いたの? 暴かれちゃったの?」
こんな顔を初めて見た。驚きと絶望が混ざったような、そんな顔。
「……そっかぁ。バレたら仕方ないね。そうですよ。私は空野春花。幽霊なんかじゃありません! 意識がここにあるだけ? なのかな? 本当の年齢は……たぶん二十歳! 春花先輩でいーよ」
春花先輩は、笑う。その真意が掴めない。
「なんだか哀れなものを見る目で見つめているねぇ〜? そんな顔しないでよ。多分教えたのは晴川先生だな? まぁ改めて教えてやろう」
春花先輩は飛んでフェンスの上に立った。
「私はこっからお空に飛んだの。それでショクブツジョータイ? になっちゃったってお医者さんが言って、その後急にこの屋上に飛ばされたんだ。今ね、私の身体は空なの。ここに来た時は、人が大っ嫌いだった。だって誰も助けてくれなかったし? この体は泣けなかった。だからずうっとぼんやり空を眺めてたの。自分が死にかけたところに閉じ込められるって、酷いよねぇ……」
独り、語り続ける。
「誰のせいかわからないけど。神様のいたずらっていうか、罰なのかな。誰かと恋をして、青春したかったっていう未練があったから、私はここから出してもらえないのかも」
フェンスの上で動かない僕を眺める。先輩は泣かない。でもきっと実体があったら、雨のように泣いていたんじゃないかと思う。
「でも、私は結局寂しいの嫌いだった。しばらくしたら、誰か来てくれないかなぁって、ずっと考えるようになっちゃった。そんな時、開青くんが来てくれたんだ。私、心まで空だったんだけど、君が埋めてくれているんだよ」
春花先輩はフェンスの上で一緒に踊ったダンスを披露した。
「あと一週間だよね。屋上が開放される期間って。せめて一緒にいてね。お願い」
フェンスから降りた先輩は、死人のように温度がない手で、僕の手をとる。
「一緒に、います。ずっと……」
なんだかプロポーズみたいになってしまった。
春花先輩はセントセシリアの髪飾りをキラキラ輝かせて頷いた。
僕と春花先輩の最後の一週間が始まる。
夏休みが始まって二十五日目
今日もちゃんと来たものの、春花先輩とどんな話をすればいいか分からなくなってしまった。春花先輩は恐らく僕のこの様子に気がついている。
「ねぇ、踊ろうよ。新しい曲いっぱいあるでしょ? 全部全部やってみたい!」
春花先輩がそう言うので、あらゆるダンスを調べて全力で踊った。明日、また最初の時みたいに動画を撮るらしい。大丈夫だ。まだ、明日はある。
夏休みが始まって二十六日目
「さぁ、撮るよ撮るよー! 大丈夫。私めっちゃ復習した!」
春花先輩は宣言通り、完璧にキレよく踊る。僕はタジタジで、さぞカッコ悪かっただろう。
休憩している時に、ふとこんなことを尋ねた。
「先輩はずっと屋上にいるんですか? どこかに行っちゃったりしない?」
「えー、どうなんだろう。消えるとしたら天国に行く時かな? でも君が卒業したら、私も消えたいかも。暇なんだよ。どこまで飛べるかなぁって試す時間があるぐらい。ちなみに結構高くまで飛べたよ。空はね〜、空だったよ。何にもなかった。天国も」
春花先輩は自慢げに話す。僕はあなたに消えて欲しくない。そのために、僕は何ができるのだろうか。何になればいいんだろうか。
夏休みが始まって二十七日
今日は文化祭直前ということで、お化け屋敷のお化けを布で作っていた。
「屋上から出られたら、私も参加できるのにー。本物の幽霊とかどう?」
「ブラックジョークですか? 笑えませんよ」
穏やかだった。和気あいあいと雑談しながら、できたのは先輩のセンス全開の可愛いお化けだった。
夏休みが始まって二十八日目
いつものように先輩と文化祭準備をする。僕の嫌いなあの音が聞こえた。
「開青ー! お前ずるいぞ! 屋上開いてんなら言えよ!」
クラスメイトがずかずかと入ってくる。
「だってこれ僕の仕事だし……。お前ら持ち場離れていーの?」
「俺らもここで作業したい!! 暑くてもいいからいれろ!!」
駄々をこねてきた。春花先輩を見ると
「賑やかなの嬉しい! 開青くん! いいでしょ?」
と手を組んで祈るように懇願していた。
春花先輩に言われたらしょうがない。
「分かったよ……みんなで準備しよう」
クラスメイト達は快晴の空の下、ダンボールを広げ始めた。僕と春花先輩の貴重な時間ではあったけれど、彼女が嬉しそうだったのでどうでもいい。
夏休みが始まって、というより春花先輩と別れるまで今日を含めて残り三日。
僕はずっと考えていたことを春花先輩に発表することにした。
「今日は彼らは来ないのか。寂しいねぇ。やっぱり、あったものが無くなるのは嫌だね」
力無く笑った。僕は声に力を込める。
「僕、絶対に生徒会長なります。そして、絶対に屋上を開放する。そうすれば、春花先輩は寂しくないですよね?」
言ってやった。言ってやったぞ。春花先輩の頬は緩みまくり、喜びに満ち溢れているような笑顔になっていた。
「すごくいい! めっちゃいい! ありがとう!頑張ってね開青くん!」
「あと、春花先輩、これ」
僕は照れを隠せないまま、ようやく咲いたセントセシリアを見せた。
「えー!? 私の一番好きな花だ!! めっちゃ嬉しい! ありがとう! あ……でも私持てないから、いつでも眺められるようにあそこに置いてもらえる?」
春花先輩は、僕と一緒に踊って、一緒に悩んだ屋上の隅の影を指さして、僕は大人しくその指示に従った。
春花先輩に告白する一日前、文化祭は二日制のため、今日から学校は賑やかになっていた。
僕は作った可愛いお化けを被りながら学校中を練り歩く係。今日は屋上が開いていない。屋上整備員の仕事がもう終わっていて、先生たちが最終確認をしているからだ。
でも予め、明日の花火は一緒に見ようと春花先輩と約束しているから、何も問題は無い。明日をひたすら楽しみに待つだけだ。
長かった夏休みが終わる当日。そして、最後の花火が始まる直前。
ようやく屋上が開放された。僕は、いの一番に駆け出す。春花先輩は屋上の上から僕を驚かさなかった。どこかに隠れているはずだ。花火が始まるのは十五分後、早く見つけ出さないと。
走る、走る。広い屋上を、熟知している屋上を駆け回った。
走ったんだ。探したんだ。
花火が打ち上がった。僕はその花火をひとりで、枯れかけたセントセシリアの横で最後まで見た。見てしまった。
あれから一年経った。一年が経ってしまった。僕は先輩に宣言した通り生徒会長になった。晴川先生の協力もあって、屋上開放を達成できた。僕が必死でこの偉業を達成した理由は、僕だけが知っていればいい。
でも、彼女はいなくなった。いたらきっと
「生徒会長になって屋上開放!? すごいじゃん! 開青くん! すごいよ! ありがとう!」
と、ひまわりみたいな笑顔を見せてくれたと思う。
信じたくない。けれど彼女はいなくなった。毎日屋上を歩いているけれど、春花先輩は屋上から完全に姿を消したことがわかった。隠れているんじゃないかと思ってひたすら探した。
けれどいない。彼女がいたという証拠は、嫉妬するほどに笑いながら僕が一人踊っている動画だけになってしまった。彼女がどうなったのか、もう僕には分からない。
でも、きっといつ春花先輩が戻ってきても、もう寂しくない。空の屋上は僕が消した。空の下の屋上は、いつも生徒で賑わっているから。
今日、また夜空を大輪の花が彩る。
さっき、横田さんが幸せそうに、彼氏と二人で花火を見ようとしているのを見かけた。僕は今年も独りで見る予定だ。
ただ、少しの奇跡を期待していた。叶うはずのない、また春花先輩がふわふわ浮いて驚かしてくれるような奇跡を。
「花火が打ち上がる五分前でーす!!!」
実行委員が大声で報告する。屋上は人でごった返していた。
「開青くん!」
ふと、春花先輩の声が聞こえてきた。もしかしたら、と思って上を向いても、誰もいない。幻聴だとしても嬉しかった。
「開青くん!! ちょっと!! ようこそ!! お越しくださいました!!!」
雑踏から、一際大きな声が聞こえた。思わず振り向く。
そこには、腕も足も記憶より細くて、少し痩せている、でも紛れもなく春花先輩が、セントセシリアの髪飾りをつけて自分の足で立っていた。
「あれ? 私がようこそお越しくだされましたかな?」
相変わらず素っ頓狂なことを言う。間違いなく春花先輩だ。
「って、うわ! 急にやめてよ〜。私めっちゃ筋肉落ちてるんだから」
自分を抑えきれず、春花先輩を抱きしめる。死人のような冷たさは、もうどこにも無かった。強く早い心臓の鼓動を感じる。
「去年は、ごめんね。私、去年のこの日に起きたんだ。きっと私の心も身体も、君が満たしてくれたんだよ。だから、空の身体に戻って来れたんじゃないかな」
フェンスの上で可憐に笑っていた先輩は、地に足をつけて可憐に笑っていた。僕は今、自分がどんな顔をしているかわからない。
「リハビリに一年かかって、色んな人に駄々を捏ねて、今日来たんだよ。君とのこと、全部全部、覚えてる。だからね、これをあげようと思って」
春花先輩は空の色をした青い薔薇のネクタイピンを僕に取り付けた。確か、花言葉は『奇跡』。
「生徒会長になって屋上を解放したんだって? すごいじゃん。これはご褒美だよ。ずっとずっと、ありがとね」
去年、僕に見せたひまわりのような笑顔と同じ顔をしている。こんな奇跡あってもいいのか。
「こんな奇跡あってもいいの? って顔してるね。ハッピーエンドならなんでもいいんだよ。もしかしたら、いつかこの話が映画になるかもね」
春花先輩は相変わらず僕の心を読む。本当に目の前にいる人は春花先輩なんだ。
「先輩、僕、医者になることにしたんです。ありがちだけど、あなたのような人を治したいと思って。なりたいものを見つけたんです。あなたのおかげなんです。色んなことを、話したい。また、一緒に踊りたい……!」
「いいよいいよ。時間はたっぷりあるんだ。全部やろう。ずっと一緒にいてくれるんでしょ?」
意地悪で愛しい笑みをニヤリと作った。僕も反撃をする。
「空っぽな心を埋めたのは誰でしたっけ?」
どうやら仕返しは成功したようで、顔を赤くして俯いてしまった。
「私ね、実はね、横田さんに嫉妬してたの。君が断ってくれた時、ちょっと安心しちゃった。それでね、」
「待ってください。それは僕が三年前から言いたかったことなんです」
「花火が打ち上がりまーす! 三! 二!!」
打ち上がると同時に、僕は打ち明ける。
夜空の屋上で、盛大に
「ずっと好きでした! 付き合ってください!」
花火よりも大きな声で言ってやった。
春花先輩は、赤い血が通る熱い唇で、僕に勢いよくキスをした。
空の屋上 野々宮 可憐 @ugokitakunaitennP
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