『――こっちよ、エディ。遅れないようについて来て』


 フィオーレはその身体の特性上、あらゆる障害物をすり抜けられる。しかも浮遊しての移動に疲労は伴わないようだ。精神の摩耗はあっても、肉体的な疲れとは無縁なのだろう。そんな彼女と違い、エディは悪路に苦戦を強いられていた。


 土中に張り巡らされ、地表にも進出した太い根っこ。さり気なく顔を出した石や、岩の表面に生えた普通の苔など。選り取り見取り、至るところに〝罠〟が仕掛けられている。


 足を取られないように注意を払い、地面を踏み締めながら慎重に進まなくてはならない。と思っていれば、倒木に行く手を塞がれて狭い隙間を潜り通る。


 何より近づいただけで胞子を飛ばしてくる茸はやばかった。怪しげな色は言わずもがな、多少吸ってしまったようで気分が悪い。すでに喉はからから、脱水症状も原因の一つか。


 道中、危なそうな生き物がいないか隠れていないか警戒しつつ、視界を奪うつる植物に下草をかき分けて進む。こうして不慣れなことに心身ともに疲弊していく。


 これでこの近辺に住んでいた線はほぼ消えたし、もし迷っていたらと思うとぞっとする。片やフィオーレはどんどん先に進んでいき、適宜待ってもらい歩くことしばらくして、


『ここで休憩にしましょう』


 流石は道を知っているだけあるというか、フィオーレの後に続いて開けた場所に出た。


 小さな滝の下に円形の水溜まりが形成され、その周囲や岩肌には先の不思議な苔が繁茂している。遺跡の時と同様、それらは仄かな光を放っており、夜になれば幻想的な光景を作り出すのだろう。誰かが立ち寄ったらしく、苔の一部が変色している点は気になったが。


 注意深く辺りを観察してみれば、踏まれて傾いた雑草の道が複数方向に伸びていた。


「……この森って、よく人が来るの?」

『最近見ないけど、近くの村の人がそこの水を盗み――汲みに来るし、あと……たまーに物好きな人がね』


 お前のことだと言いたそうなジト目で射抜き、フィオーレが明言せずに批難してくる。


 ここで休んだ可能性は十分考えられるが、確認できる足跡はひと回り小さい。見た感じ、あまり時間が経っていないように思えるし、過去の自分のものではなさそうだ。


「どう見たって、僕のじゃないような……(盗み扱いなんだ……)」

『放っておけばいいの。どうせすぐ還ることになるんだし』


 どこに、とは言わないけど――背筋が凍るひと言を添え、フィオーレが不敵に微笑む。頬を引きつらせたエディはそれ以上、この森については深く触れないでおいた。


 気を取り直して、両手で水をすくってみる。如何にも飲めそうな透明感があるものの、胸のざわめきを覚えて躊躇ってしまう。何故かは分からずとも、揺らめく水面を見据えるばかりで行動には移せないでいた。


『キミなら飲んでも大丈夫よ。変なもの、入っていたりしないから』


 フィオーレから心配ないとのお墨付きをもらい、ひとまず顔を濡らしてから口へと運ぶ。それは乾いた喉にじんわりと染み込み、しばし生き返ったような心地を堪能していた。


「すごく美味しいけど、ちょっと変な感じがするね」

『……ふぅーん、痛みはある?』


 フィオーレが何を思ったのか隣に来て、ジーッと凝視してくるのでとても答えづらい。彼女の場合、自覚があったりなかったりと余計に質が悪かった。どうも今回はなさそうで、素の振る舞いだと思われる。せめて、もう少し離れてもらえると助かります。


「痛いんじゃなくて、なんかこう……スーッと疲れが溶けていく、みたいな」


 これと似た感覚を知っている気がする。といっても具体的なイメージは浮かばないし、単なる思い過ごしなのは否定できなかった。


『うん、それならいいの。実はその水、マナの含有量が多くてね。天然の魔薬的な?』

「〝マナ〟……? 〝魔薬〟……??」

『分からないかぁ。すっごく簡単に言うと、マナは万物の源で何にでもなれるの。魔薬は現世体の――そう、例えば……怪我の治りを早くしたり、疲労を回復したりとか。しかも即効性の、ね。……もしかして、魔術のことも忘れた?』


 フィオーレが言いかけた〝現世体〟とは、身体のことだろう。肉体と言った方がいいか。


 その他、マナ、魔薬、魔術――どれも耳にした覚えがあるような、やっぱりないような。微かに引っ掛かりを感じるが、この程度の認識に過ぎない。


「どこかで聞いたことはあるよ、たぶん」

『あぁー、……ちょっと荒療治になっちゃうかも』


 気まずそうに頬をかいて目を逸らし、フィオーレが何やら不穏なことを呟いていた。


 その意図を読めずにいたのも束の間か。四足歩行の獣が数匹、木々の合間から姿を現す。より正しくは、狼のような姿をした別の何かだ。


 皮膚はドロドロと溶け落ち、音を立てて群生する草を腐らせている。結果として赤黒い筋肉層が露出しており、多くの部位で骨まで見えていた。およそ生きているとは思えない。しかしこれが幻覚でないなら、確かに四本の足で歩いている。


 ここでようやく〝荒療治〟の意味を察したが、エディは受け入れられずにいた。まさかそんなことしないよねと、困惑の視線で訴えかける。


『ほら、中型の骸獣――獣の汚染体なら手頃な相手でしょ? 三匹くらいだったら、今のエディでも何とかなるかなぁーって』


 そう、あんなものが森の中を徘徊しているなら一度は遭遇したはず。やはりというか、フィオーレは〝骸獣〟とやらの位置を探知できている。精度の程までは定かではないが、少なくとも今回はわざと見逃した。


「フィーちゃん……?」

『怒らないで、エディ。これでもね、なるべく遭わないようにしていたの』


 こちらが魔術について憶えている――この前提の下、実戦を通して記憶を無理やり呼び起こそうとの魂胆か。事前に知らせては効果が薄い、そう判断し黙っていたと。


「まったく……、分かっていたなら――」


 きっとフィオーレなりに悩んで、導き出した最善が現状なのだろう。視界や足場は良好。癒やしの水を後方に確保し、敵の数は最小限に留める。


 総称であろう〝汚染体〟の定義はもちろん、関連する知識を簡潔に教えてくれていたら、もっと円滑に事が進んでいたかもしれない。


 失敗は死に直結する。せめて心の準備くらいさせて、そう言おうとしたのに。


「――先に言え」


 ほんの一瞬、意識が遠のく感覚に襲われる。さながら椅子に座っている時、背もたれが前触れなく消えてしまった感じ。かと思えば、口が勝手に違う言葉を発していた。


『……ぇ、』


 呆気に取られたフィオーレを気に掛ける余裕はなく、目の前の脅威に意識を移す。


 骸獣は揃って警戒の構えで、距離を詰めようとしない。鋭い眼光で牙を剥き、こちらの動向をうかがっている。不意を突けただろうに、そうしなかったのは奇妙に思えた。


 例えば何かを恐れているとして、挙げられる候補は主に二つ。確かめる方法は簡単だ。試してみればいい。


 エディは片手で水をすくい、先頭の骸獣に向かって振りかける。すると飛ばした液体が形状を変え、逆三日月の刃と化す。例の髪飾りと見かけこそ似ているが、大きさは段違い。薄く伸ばされた水刃は獣の体長に等しく、頭部から尾部にかけて軌跡を描いた。


 垂直かつ瞬時に両断されたからだろう。僅かな間を挟み、切断面がずれて地面に倒れる。そのまま黒い靄のようなものを放ち、跡形もなく消滅。土埃は立っておらず、群草の海は綺麗に割れていた。ところが、予想外の出来事に戸惑う猶予は与えられない。


 エディの現世体は心を捨て置き、即座に地を蹴る。目まぐるしく変化していく展開に、思考の処理が追いつかなかったせいなのか。時の止まった世界で自分だけが動いていて、この様子を俯瞰しているような気分だ。


 奇妙な体感に苛われながら、まず右方の個体に狙いを絞った。相対する骸獣も負けじと飛び掛かっては、獲物を喰い千切らんとする。


 エディは迫り来る牙に、その身を自ら差し出すような動きだ。危うげに映るが、これは無駄を極限まで削ぎ落したが故のもの。この命を賭して殲滅する、そんな狂気さすら入り混じっていた。鮮やかな体さばきでかわし、骸獣の首元に触れてひと息に何かを流し込む。


 それが何だったのかは分からない。直後――彼の背後で耳をつんざく爆音が鳴り響き、生じた紅蓮の渦が対象を焼き尽くす。

 遅れて爆風に吹き飛ばされるが、伴うべき熱量が偉く小さい。これでは単なる温風だ。


 浮かんだ疑問を気にも留めず、落下の衝撃を逃がすべく受け身を取る。考えるより先に素早く体勢を整え、反撃の余地を与えまいと最後の一体に、


「いっ、つぅぅ……」


 向かおうとしたのだが、尋常ならざる頭痛によってその勢いを削がれてしまう。そこに極度の倦怠感まで追加され、いよいよ身動きが取れなくなった。


 額を押さえて歯を食いしばり、膨らみ続ける痛みに耐えるエディ。対して火炎地獄より五体満足で生還した骸獣が一匹。焼け焦げた体を〝火球〟に変え、獲物目掛けて一直線か。仇敵を道連れにせんと、復讐の化身に成り果てる。


 四つん這いの彼に出来たのは、薄れゆく意識の中で炎獣が突進してくる様を眺めること。


 最期なんて案外あっけないものだ。ある時突然やって来るし、後悔したって今さら遅い。気がつけば、命を刈り取られている。


 そこでふと、こちらを睨んでいたフィオーレと目が合う。この理由を知る術はないが、


 ――助けてもらったお礼も言いそびれたし、約束も守れなかったなぁ……。


 もはや叶わない願いを胸に抱いたまま、エディは力尽きてその場に倒れ込んでしまう。それでも骸獣は止まらない。隙を晒した標的に襲い掛からんとしていて――、


 ――次の瞬間、彼の祈りが届いたかのように、二発の銃声が重なって鳴り響いた。

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