――僕と彼女の出会いは目覚めと共に、とても唐突なものだった。


 ポトンと。氷柱石の先から透き通った雫が一滴、軽やかで心地よい水音を奏でる。

 これに呼応するようにまた一つ、今度は倒れている少年の頬に落ちていく。その軌跡は紛い物の涙を描き、眠りに就いていた彼の心身に波紋を刻んだ。


「うっ……ん、うぅ……」

『おはよぉー。起きた?』


 間延びした声を頭上から浴びせられ、おぼろげな意識が呼び起こされる。瞼を開けば、人の顔らしきものがぼんやりと映った。

 それはぐらつく視界の上で鮮明な像を形作っていき、なんと目と鼻の先にあると判明。ぎょっとして固まり、そのまま見つめ合うこと数秒か。


『失礼な子だなぁ……。私、お化けじゃないよ』


 ぼやいて離れてくれたまではいいが、少女から恨みがましい視線を向けられてしまう。彼女の双眸は満天の星を宿しているようで、さらに左の眼は時計の文字盤を連想させる。思い掛けず心を奪われ、完全に見入っていた。


『やれやれ、親切に――あげたのに……これだから、』


 対して少女はややご機嫌斜めな様子、亜麻色の毛先を指でくるくると弄っている。


 どんな原理か知らないが宙に浮いており、その姿は常闇に差したひと筋の光のようだ。事実、全身に優しく温かい光膜を纏い、フリルたっぷりの袖なしドレスに身を包んでいた。


 なるほど、確かに薄っすら透ける異質な様から〝お化け〟だと言われても納得がいく。


 加えてこの世のものとは思えない精緻な作りの容姿に、貴族令嬢のような品の良さと。しかし不思議なことに近寄りがたい雰囲気はなかった。内に潜む悪戯心が染み出ていて、傍目に僅かな隙を感じさせるからだろう。


「……君は?」

『ありぃ? 私のことまで忘れちゃった?』


 おっかしいぁー、ちゃんと加減したのに……――少女が不穏な呟きを残しては、小首を傾げている。思い過ごしかもしれないが、敢えて聞かせているようにも。


 ちなみに、人差し指を頬に沈めるおまけ付き。狙っていそうな仕草だが、似合っていて妙に色っぽい。よっぽどの天然でなければ、相当に計算高い性格だったりして。こちらが勘繰ることさえ織り込み済みな気がする。


 彼女は腕を組んでしばらく唸っていたものの、それも飽きたようでけろっとするや、


『よしっ。じゃあ、もう一回始めからね。私はフィオーレ、フィオーレ・リノン=クラフノヴァだよ。長いので、フィーちゃんでいいです。特別に許可します』


 試しに呼んでみろということだろう。フィオーレが自身を指差し、何やら訴えてくる。有無を言わせないその空気に戸惑いつつ、ここは大人しく従っておく。


「えっ、と……フィーちゃん?」

『ぜんぜん、気持ちがこもってない。やり直し』

「フィーちゃん……?」

『ちっがーう……! もっと恋人を呼ぶように親しみを込めて。はい、どうぞっ!』

「フィーちゃん」

『まぁ及第点ね。今日のところはそれでよしとします』


 もちろんこんなやり取りをした覚えはないし、名前だって今初めて聞いたはずなのに。思い出そうとすれば、拒否の証であろう鈍痛が頭の中を駆け巡る。


「……っ、」


 たまらず顔を手で押さえ、なるべく刺激を与えないように上体を静かに起こす。その際、ふと握っていた〝何か〟に気がついた。三日月をかたどった白銀の髪飾りだ。

 状況からおそらく自分の所有物だと思われるが、例によって記憶になく確証を持てない。


『ほうほう、女物ですな。キミも隅に置けないねぇ……』


 こちらと髪飾りを交互に見て、ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべるフィオーレ。


「これは君の物、じゃないんだよね……?」

『うん、……たぶんキミの。大事にしまっておきなさい』


 先程までのふざけた調子から一転し、フィオーレが真剣な眼差しを向けてきた。事情を知っていながら話せない、というよりじっと見つめて責めているような。


 言われたように懐にしまい、しだいに頭痛が鳴りを潜めてきたのもあって立ち上がる。そして辺りをざっと見回すに、仄かに光る幻想的な苔群が目立つ。


 岩壁に限らずと地面や天井など、あらゆる場所に生息しているが――それらはまるで、意図的に配置されたかのようだ。なぜなら、その明かりは進むべき道を照らし出している。残念ながらそんな気がするだけで、特に根拠はないけれど。


 これなら独りでも壁伝いに歩けていけば、この洞窟(?)を出られるだろう。こうして結論まで至った際、フィオーレの呼びかけで現実に引き戻される。


『おーい』――「ん、どうかした?」

『ちょっと検査するよ。自分の名前、言ってみて』


 改めて考えても、襲ってくるのは鈍い痛みばかりで得られるものはない。霧がかかった感じというか、そもそも空っぽで取り出す中身がないみたいだ。


「……分からない。君のこともそうだけど、本当に何も憶えてないんだ」


 フィオーレの問いかけに首を振りながら、ようやく自覚を持てた。自分の名前を始め、何者なのかすら分からないことを。


 といっても何かしら知っていそうな人物が隣にいて、目立った怪我もしていないのだ。彼女に話を聞ければ思い出すきっかけくらい掴めるだろうし、動けるならどうとでもなる。


『ありゃ……、やっぱりダメそうだね。なら、今からキミはエド――じゃなかった、……エディにしよう。ずっとキミ呼ばわりされるよりかはいいでしょ? はい、決まり』


 現状を楽観的に捉えていれば、かなり強引な流れで仮の名前が決定。実際ないと不便で困るからいいとして、フィオーレには聞きたいことが山ほどあった。


 ところが、我が道を行く彼女に待つという選択肢はない。さっさと先に行ってしまい、


『細かい話は後にしよ。まずはここから出よっか』


 途中振り返ったフィオーレに促されるまま、エディはその後ろをついていくことにした。

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