アンブレラ・ロータス ―星の終末を巡る頂点捕食者たちの激闘、または世界を巻きこんだ姉弟喧嘩―

茶々乃々 常夏

第1話・迷宮踏破

序章・山脈都市

奥羽の〈鬼〉

 深淵が嫌いだった。

 夜の絶海。

 光なき空。

 死者の瞳。

 そして、伽藍堂がらんどうの街。


「――……カナタ」


 誰かが名前を呼ぶ。

 顔を上げると、夜を背にした女が立っていた。

 喪服のようなワンピースを着ている忌々しいほどに美しい女。

 咀嚼姫そしゃくひめ

 数多の生を受けながらも、満たされることない乾いた心を持ち続ける彼女は、妖しく目を細めて嗤っていた。

 カナタは面妖な狐に見つめられているように感じて、静かに息を呑む。

 やがて、後ろを見た。

 そこにはありったけの宝石箱を撒き散らしたかのような輝きを放つ、煌びやかな街が広がっていた。


 天蓋へと伸びる摩天楼。

 来る人を誘う、数々のネオン。

 煙が溢れ出る、工場に備え付けられた無数の煙突。

 そして、街を囲うようにそびえる山脈群。


 まばゆい深淵が、そこにはあった。


 子どもが描いた絵のように、様々な建物がごちゃごちゃと混ざり合っている。薄氷のような秩序だけで成り立つ街は、静寂と静謐だけを保っていた。


 ――ここは、深山幽谷に栄える山脈都市。


 もう、この街には人がいない。

 街を守護する鬼は一掃され、嘲笑する主も解放した。

 生きている者はカナタと咀嚼姫だけ。


 それを再認識した瞬間、ここでの罪過が走馬灯のように脳裏を走った。

 こうなるはずじゃなかった。

 ただ、この地の因習を断ち切るだけのはずだった。

 己が持つ正義感に従ったはずだった。


 ……しかし、結果はどうだ?


 無邪気にも彼女の野望に加担し、人の営みと矜恃を奪い去っただけではないか。

 後悔と罪悪が胸を蝕み、自らの心の在りようを決意する。

 

 突如、一筋の赤い糸が視界を分断した。

 それは闇夜の中でも赤く光り輝き、咀嚼姫のなびく黒髪と色白い首筋を切り裂く。

 彼女が表情を変える間もなく片膝をつくと同時に荒れた風と空気を裂く鈍い音が遅れてやってきた。

 たった一本の赤い糸は彼女の頸動脈を正確に断ち切った後、意思を持つかのように仔細な動きで闇の中に身を隠す。


 やがて、糸が帰った方向から赤く光沢帯びた何かがゆらゆらと現れた。

 その正体はカナタとさして変わらない年齢の男だった。

 首にゴーグルをかけ、血でできた鎧で身を覆い、人を視線だけで殺せるかのような眼差しをこちらに向けている。

 しかし、その凶眼とは裏腹に今にも倒れ込みそうなほどに息が上がっていて、ところどころ流血している。


 山脈都市を守護する鬼。


 自らの力で固めて装着した血の鎧を除けば、カナタとなんら変わりない普通の人間だ。

 山脈都市を壊滅させた相手を討ち取った男の表情はいまだに晴れない。

 それもそのはずだ。

 街を壊滅させ、仲間を一掃し、主を逃した相手は一人ではないのだから。

 おのずとその凶眼はカナタに向けられるはずだったが、男は獣のような唸りながら跪く咀嚼姫に憎悪を向けていた。


 ふふっと楽しげな声が隣から聞こえてくる。

 頸動脈を切り裂かれて、今にも死に瀕しているはずの咀嚼姫がおもむろに立ち上がった。


「まだ生き残りがいたのね」


 どこか楽しげな声。

 彼女の周囲には無数の血の粒が漂っている。まるでその空間だけが無重力になっているようだった。


 鬼はその様子を見ると、さらに目を見開いて激昂した。

 それに呼応して鎧が解放され、大振りの太刀の形を成す。

 男から離れてもなお落下することのない太刀が咀嚼姫に向くや否や目にもとまらぬ速さで飛来した。

 避ける様子も見せない咀嚼姫はただ指先を一本、示すように鋒に向けただけだった。

 果たして、心臓目掛けて放たれた血の太刀は、指先で休む蜻蛉のようにピタリと止まった。


「悪いけれど、ソレはもう喰らったの」


 先刻の楽しげな声とは打って変わって、興味をなくした声音とともに指先に止まる太刀を押し返す。逆再生されたように押し戻された血の太刀は、避ける体力すらない男の胸を貫く。

 無残に倒れゆく男は、口を動かして声にならない呪詛を吐くと力を失って目を閉じた。

 遺体となったモノを残して、その場には静寂が訪れる。

 カナタは、何もせずに立ち尽くしていた。

 己が犯した罪と無力さを呪いながら一連の出来事を目に焼きつけていた。


 日本三大境界域が一つ、奥羽おうう境界域きょうかいいき

 大厄災を封じ込める呪術都市。

 〈咀嚼姫〉にしてカナタの姉――湊ハルカは、その奥羽境界域の秘宝ひほう呪物じゅぶつを喰らうことを目的として、襲撃を行った。

 その目的を達したにも関わらず、人の営みと矜恃を破壊し続けていた。


 そして、カナタは目的も知らずに加担してしまった。

 怒りと後悔で震える身体を誤魔化すように、本能のまま叫ぶ。


「咀嚼姫ッッッッッッッ!!!!!!」



 これが後に語り継がれることとなる境界域襲撃事件――『秘宝会戦』

 奥羽境界域の壊滅と歴史的な秘宝呪物の奪取。

 そして、咀嚼姫とその弟が袂を分かつこととなった分岐点。

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