第9話 おやすみなさい。

 俺がウチの玄関の鍵を開けたのは、21時を回ってからのこと。


「ただいま」


 電気のついていない廊下に、ドアのガチャっと言う音が妙に響く。


 玄関に並べられた黒のパンプスと、視界の先のドアの曇りガラスから漏れたリビングの白い光にそっと胸を撫で下ろす。


 別に何かが不安であった訳ではないけど、それでもそこに、茅柚さんがいることになぜか安心感を覚えるのだ。


 俺の後ろでオートロックの音を感じると、静かに廊下を歩く。


 リビングのドアをそっと開けると、やっぱりと言うか、予想通りというか。


 高校生、実質一人暮らしでは絶対にしない、アルコールの匂いがツンと鼻を突いた。


 そっとリビングのソファーへと目を向ける。


「茅柚さん、ただいま」


 でも、いつもなら「うん。おかえり〜」と返ってくる彼女の声も、今日だけはなくて。


 不思議に思った俺は、彼女が寝転がっているであろうソファーを覗き込む。


 すると、すでに背の低いテーブルの上には、500mlが2本空になっており、そんでもって肝心な茅柚さんは、仰向けのまま華奢な寝息を立てていた。


 黒色のソファの上に広がる亜麻色のボブ。普段はおっとりとした優しそうな目をしているのに、こう目を瞑るとやっぱり美人なんだなって思った。


 きっとお風呂には入ったのだろう、ほんのりとシャンプーの匂いがする茅柚さんは、ダボダボのスウェットの上着だけを着用していた。


 裾から伸びる、程よい肉付きの太ももに視線が向いて、すぐに首を振る。


「ほんと、そんな所で寝ると体痛くするって、言ってるのに」


 懲りないな、この人は。

 

 ふっと鼻を鳴らし、静かに廊下へ出ると自分の部屋からブランケットを持ち出す。


 再び彼女の元へ戻ると、起こさないよう、そっと足からブランケットをかけた。


「んん……」と、少しだけ身体を捩った彼女に、思わずびくりとしたけれど、でもその綺麗な寝顔にまたふっと鼻を鳴らす。


「茅柚さんでも、疲れちゃうんですね」


 そう呟いて、ちょっとした悪戯のつもりで、彼女の頬に乗った髪の毛を優しく払う。


「……ん〜」


 そうやって唸った茅柚さんがなんだか可愛らしくて、俺はまた小さく笑った。


 まぁでも、これ以上は起こしてしまうかもしれないし。


 なんて、ゆっくりと立ち上がろうとした瞬間。


「……私も、日向くんの事……」


「……ん?」


 ……。


「好きだから……」


 そんな、力無く漏れた華奢な一言に、俺は目をパチパチとさせる。


 すぅすぅと、寝息が聞こえるだけの空間で、俺は呆然と立ち尽くす。


 やがて、自然とドクドクと高鳴ってきた心拍数に、登ってきた顔の熱に。


「……」


 そっと口に手を添える。


 きっと今のは寝言だし、正直どんな夢を見ていての、そのセリフかなんてわからない。


 てか、もしかしたら今見ている夢も、俺が幼い頃の夢かもしれない。


 だけど……それでも、彼女から『好き』って言葉が聞こえたのが嬉しくて。


 俺はもう一度、茅柚さんの横にしゃがみ込むと、そっと耳元で囁く。


「俺も、ずっと好きです」


 それだけ言って、さっと立ち上がる。


 目を覚さないうちに自分の部屋に戻ろう。


 その去り際の一瞬。ふと彼女の顔に視線を向けると、心なしか唇が心地良さそうに微笑んでいるような、そんな気がした。


 値引きシールの線香花火だけ抜き取り、食品を冷蔵庫に入れてから、ノブを握る。


「おやすみなさい、茅柚さん」


 花火はまた今度やりましょう。


 リビングの電気を消すと、そっとドアを閉めた。

 

 

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近所に住む顔の良すぎるお姉さんとの半同棲生活は、意外と悪くない。 あげもち @saku24919

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