第30話 予感
「わぁ……つぼみ、大きくなってる」
屋上のガラス小屋の中にある小さな庭園。春……とまではいかないものの、試行錯誤の末に、朝など気温が低い時間でも室温を保てる様な仕掛をしてある。
「これがスノードロップに、ハーブ、白見草、ネーブルフラワー。もうすぐ花が咲くかな……ぁ」
屋敷自体が緩やかな高台にあるので、屋上から見える街は絶景である。白銀一色に染まった街は、雪が見たことのない少女には、どのように写ったのか。
『ハナ君――』
階下から自分を呼ぶ声がするのに気づき、
「先生――ぁ、そうだ。朝ご飯の用意しないと」
名残惜しそうに一度だけ振り返り、ハナは先生の下に走っていった。
◇ ◇ ◇
(空気が、変わった?)
今日は週に1度の買い出しの日。
この街は大きく分け、多くの貧困な人々が住む区域と、それなりに裕福な人々が住む区域と、貴族や富豪が住む区域に分かれている。
ただ戦争の影響か、貴族や富豪も数える程度しか居ない。
みんな、どこか遠くへ行ってしまった。それなりに裕福な人々も、少しずつ…減ってきている。逆に貧困な人々は増える一方――街の経済から治安まで、すっかり落ちぶれてしまった。
「すいません、いつものお願いします」
「あいよ」
顔なじみとなった店の亭主。庶民街に店を構えているが、値段はこのご時世なのに良心的。
少女が橋の下生活をしている時も、売上げが良かった日だけ、ここで果物を買っていた。
「しかしお嬢ちゃん。なんか来る度に可愛くなってるね~」
「そう、ですか?」
いつもの簡素な服に、もらった毛布で作った少しくすんだ色のコートだけ。装飾も化粧もしてない。
「いやいや。格好の話じゃなくてね…なんか、今が楽しいって顔をしてんだよ。前はほら、言っちゃなんだけど、明日にでもおっちんじゃいそうな顔してたからなぁ…」
不思議そうに顔に手をあてながら、
「私、そんなにヒドい顔してました?」
「はっはっはっ。今はもう大丈夫だよ。ほら、パン一つオマケしとくよ」
「え、それは悪いです…」
「いいからいいから。それじゃ、旦那によろしくな」
「あ、はい。ありがとうございました」
街の様子は、彼女が屋敷に通う前から変わらない。
雪は降り積もってるので見える路上に人は居ない。みんな雪がしのげる場所に集まっているだろう――しかし、
「なんでだろ。空気が、変」
言葉には出来ない奇妙な感覚。例えようがない、もどかしい気持ち。
どこか街も、そわそわしている。
「気のせい…かな」
見えない影に怯えるように、少女は屋敷への帰路を急いだ。
◇ ◇ ◇
「この庭の名前、ですか?」
「いつまでも庭や小屋では呼びにくいからね。この場所にも名前が必要かな」
いつものように屋上で花に水やりをしている矢先の会話。
空はそろそろ、夜へと表情を変える。
「名前、なにがいいかな」
「……他人から見れば、ここは不思議な場所だろう」
「?」
「季節に関係無く、色とりどりの花が鮮やかに咲く、この空間。この国の童話に、四季の花が咲き乱れる……そう、楽園のような大地が登場する」
「それ、私も読みました」
「あの大地こそが、この場所であるかもしれない」
「そうですね。そうだと、どれだけ素晴らしいかな」
「誰が幸せに生きる権利を持ち、絶望の運命から解き放たれる場所――願わくば、ずっとこのまま……」
最後の一言は、とても小さく発音された。
「先生、なにか言いました?」
「……ただの独り言だよ。さぁ、そろそろ夕飯にしようか」
「はい!」
闇に近付いた夜空に、羽毛のような雪が――ゆらり、ゆらりと降りて来る。
誰もが己の明日を心配する中、空を見上げて雪をじっくり見る者なんて皆無だろう。
西の空に、いくつもの煙があがってる――それに気付いた者は、居なかった。
◇ ◇ ◇
この日、ハナは橋の下へとやってきていた。最初はここから通っていたが、最近では毎日屋敷で泊まっている。この時期に外で寝るのは自殺行為――体力の無い彼女ならなおさら――なので、せめて雪が無くなるまで…と自分に言い聞かせている。
「お母さん…。私、これで良かったのかな」
彼女の胸元には見慣れない銀のロケットが、手には指輪があった。ロケットには、世界でたった1枚だけの写真が入っている。
この橋の下の家。その下には母親の遺品の入った箱を埋めてある。これはその中のモノで、ひとつの願掛けをしている。
『アナタが幸せになった時、アナタにとって大切な人に出会えた時に…これをあげる。だからそれまで大切にとっておきなさい』
その言葉を最後に、母親は永遠の眠りについた。
亡骸に火をつけ、燃え尽きるまで――傍らで眺めていた記憶は、ハナの中に今も強く残っている。
「幸せ、なのは確か。少なくとも、この街では1番くらいに――でも先生は、大切な人なのかな」
あまり感情を表に出さず、突拍子も無い事をさらっと言い、どこか普通の人とは違う何かを感じる人。
「なんだろ……ここが、熱い」
胸元を押さえながら、その場にしゃがみ込む。
気温はかなり低い。雪も足首が埋まるくらいの量がある。しかし、彼女の心は熱をもっていた。暖かく、優しく、もどかしい……それが何なのか、ハナには分からなかった。
「……ぁ、そろそろ戻らないと」
掘り出した箱を抱え、屋敷に戻ろうとした―――その時だった。
鼓膜を切り裂くような爆音。
さらに爆音と轟音。
視界を、聴覚を、触覚さえも浸食する悪魔が、街を、ハナを襲った。
「ッ!?」
どうやら橋の近くで着弾したらしい。少女は爆風と川の水を浴び――そこで意識が途切れた。
もしも意識が残っていて、橋の下から出ようものなら、彼女はすぐに死んでいただろう。
何故なら、街を襲った悪魔がまさに今、橋を通っているからだ。
彼女はのちに知ることになる。
――自分が体験したモノの、強大さに。
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