第9話 逃走

「先生……ッ」


 盛り上がった根っこや石につまずかないように彼女は走る。走る……。


「なんで、こんな事に」

 

 なにが起こったのか、今だに少女には理解出来ていなかった。

 ここで逃げているのも――誰から、何から逃げているのか。わからない。それが不安となり、彼女の心に刺さっていた。


「はぁ、はぁ…ッ」


 それでも地図を確認しようと立ち止まる。

 ただ闇雲に逃げていても、それなりに深い山の中。すぐに遭難してしまう。


「ここから真っ直ぐきて――」


 聞こえた。

 微かに、唸り声のようなのが少女の耳に。


「とにかく、離れないと……」

 

 今聞こえた声が、さっきの軍用犬ならば急がなくてはならない。非力な少女と、訓練された犬。どちらが優勢かは、明らかである。

 

『―――ォッ』


 さっきよりはっきりと聞こえる。どうやら、かなり近付いてきているようだ。


「逃げないと――」


 少しずつ、少しずつ敵が迫ってくる恐怖を、これまでに体験するはずもない。

 とにかく一心不乱に走り――そして、自分の失敗を悔やんだ時には、すでに軍用犬が背後にまで迫っていた時だった。


「……ッ」


 “そこ”から足を踏み外しそうになり、すぐに踏ん張った。


「崖……」


 そう、“そこ”は崖だ。それもかなり高さのある――落ちれば無事で済むはずがない。


「引き返さないと…」


 右も左も崖だ。せめて来た道を少し戻らないとならないが、それを行う時間は永遠に失われた。


「るぅぅぅッ」

「ッ!?」

 

 獣の唸り声に後ろを振り返ると、そこには彼女を追っていた狩猟者――軍用犬が息を荒げながらこちらを見ていた。

 恐らく犬は『この距離なら後は飛び掛かるだけ』という間合いギリギリに構えている。


「……ッ」


 敵意を剥き出しにした相手。話し合いなんてモノに期待など出来ない。

 ならば、どうするか? 普通の成人男子なら立ち向かうかもしれない。足に自信があれば即座に逃げ出すか。知恵を振り絞り、なんらかの活路を開くか。

 しかし、そのどれも選べない人はどうなるか。絶望に身を委ねるか、捨て身の行動を起こすか。それかこの少女のように――、



「――るぁッ」


 犬は牙を剥いて、そのか細い首筋を狙い突進する。

 ――が一瞬早く、彼女は決断していた。

 

「――ッ!!」


 崖から、その身を投げ出したのだ。


「ッ!!」

 

 飛び下りたハナはまず、すぐ下の岩肌から生えていた枝に掴まろうと腕を伸ばす。無論、彼女の腕力程度では掴まりきれるかは、運次第だ。

 

 ――バシッ!


「あ!」

 

 奇跡的にも掴むことに成功した――が、すぐに落下のエネルギーが彼女を襲い、腕の筋肉にかなりの負荷がかかる。

 

「あ……くッ、うぅ」


 少しずつ手の握力が抜けていく。それでも彼女は最後の力を振り絞り――自身の真下にある“横穴”目掛けて降りようとする。

 しかし不思議である。崖の真上からでは確認はできず、地図にも載っていない抜け道……少女は何故、すぐに見つけれたのだろうか。

 

 もしも彼女が人に説明を求められても、こう言うしかない。  


『誰かが、そこにあると教えてくれた』


 ガリッ――。


「ッ!」


 岩肌に掴まりながら降りていたが、左手に痛みが走った。どうやら爪が剥れたみたいだ。


 落ちかけたのを、最後は横穴に飛び込むような形になった。

 

 体の前から固い地面にぶつかる寸前、なにかを守るように体を捻らした。

 結果、肩からぶつかるハメになったが、彼女は安堵の表情を浮かべた。


「良かった…」


 そう、ハナは首から提げた“時計”を守ったのだ。

 しかし痛みからか、ハナはそのまま意識を失ってしまうのだった。

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