応援コメント

すべてのエピソードへの応援コメント

  • それにしても例文の為に隆が何度もワインを掛けられるのは不憫でなりません。作者様、是非とも彼にクリーニング代を。

  • 信用に値する。何故ならば「にも拘わらず」と正しく書いているからである。無自覚に「にも関わらず」と書いている人がどれだけ多いか――なんちゃって。

  • 表現することの「責任」への応援コメント

    現代の創作者が直面する複雑な問題を深く考察しており、非常に考えさせられました。

    暴力的なキャラクターや非道徳的な行動が読者に悪影響を与えた場合に、作家はその影響を無視してよいのかという問いですよね。
    私が執筆している作品は、現代の道徳や規範に対して挑戦しているので、耳が痛かったです。

    私も津角夢双様に賛同します。創作者は、表現の自由を享受しつつも、その表現が社会に与える影響を常に考慮すべきだと思います。そして、自己の視点や価値観を見つめ直し、表現の「距離」を適切に保つことで、より成熟した、影響力のある作品を生み出せるでしょう。

    作者からの返信

    柿うさ様

    「暴力的なキャラクターや非道徳的な行動が読者に悪影響を与えた場合に、作家はその影響を無視してよいのか」という問いを、私はしていないつもりですが、誤解を与えかねない文章を書いたことは認めます。申し訳ない。

    結局のところ、文体には著者の人格が滲み出ざるを得ないということを、吾々書き手がどれだけ強く認識しているか、ということです。誰も彼もが判で押したような文体を用いているということは、人格も似通っている、いや、敢えて言えば“似たような人格に飼いならされている”のではないか、ということです。その画一的な文体でよしとしているということは、実のところ本気で言いたいことなど何もないのではないか、ということなのです。

    読み手も書き手も、書かれた内容ばかりに意識をふっています。建物は外観だけではただのハリボテでしょう。骨組みがいい加減では話になりません。小説もまったく同じことです。

  • 人称視点の違いによる「文章の距離」感、そして同一視点間においても生じる「文章の距離」。このように言語化していただけると理解が深まります。その距離感を意図的にコントロールすることは本来書き手の企みになるのでしょうが、その距離感がはっきりと読み取れてしまう読み手からすると、書き手の意図が透けてしまう。表面的な字面しか追わないライト層からすればたいした問題ではないのでしょうが、ほんとうに熟練の読み手というのは厄介な……。律角夢双さまのようなレベルで読まれる方に耐えうる作品を書くことは、まだまだ自分は先のことになりそうです。とても勉強になりました。

    作者からの返信

    卯月二一様

    なに、御大層なことを述べておりますが、かくいう私も書き手の企みには鈍感でありますし、おそらくは的外れな読みをしていることもままありましょう。

    ただそれでも、「文章はその人を映す鏡」ということは、忘れないようにしたいものですな。

  • 犀川ようさんの作品で律角さんのこちらの作品が紹介されておりましたので拝読しました。

    律角さんが意図なさったことと合致しているか不安なのですが、感想を述べます。

    私が書いた作品に対する感想を読むと、読み手が自分自身を投影させたのちに解釈しているのではないかと思ったことが何度かあります。

    また、書き手と、書いている対象との距離が開きすぎている小説も読んだことがあります。しかもそれは有名な作家の名前がつく賞を受賞していました。
    確かによく取材してありました。
    作者にとっては思い入れのある題材だったそうです。
    しかし、まるで歴史の概説書のようでした。
    なんら胸に迫るものがありませんでした。



    作者からの返信

    亜咲加奈様

    読み手は多かれ少なかれ、自身を投影させたのちに解釈するものでしょう。書き手の意図なんぞ、それこそ神でもなければわかろうはずもない。それを承知の上で、一文一文に拘ってこその書き手というものではありますまいか。

    私は“有名な作家の名前がつく賞を受賞した”作品には何ら期待をしておりません。といいますか、所謂(大衆小説でない)文学と呼ばれる作品の書き手がまず先頭きって、文体を死滅させたのです。彼らの興味は「何を書くか」にばかり向き、「どのように書くか」については完全にないがしろになっています。胸に迫らなくて当然です。

  • 難しいなぁー、私、普段そこまで、
    考えて、なかったかもです。
    今、読んでいて、気付かされましたねー!

    作者からの返信

    レディブラック様

    別に難しいことを申したわけじゃありません。神は細部に宿る、ただそれだけのことです。言うは易し、行うは難し、ですが。

  • 活字が読めなくなったことは、これまで三度あります。どれもストレスだと思います。読めるようになってから、様々な作品を読んでいますが、読みにくい、読みづらいと感じることは多いです。
    文章の錬度が生煮えなものは置いときまして、見た感じは出来はいいのに、すんなり頭に入って来ない作品に出会ったときは、またストレスから活字が読めなくなってきたのかと心配に思っていました。
    こちらを読ませていただきまして、なるほど文章の距離感かと、深く感じ入りました。

    一文を短く、一行あけては改行し、難しい漢字や表現を避ける書き方が求められるジャンルや作品はあります。また、ネット小説やタイパやコスパを求められる時代の風潮、出版不況と物価高騰の中で作品を世に出していくとき、いろいろなジャンルの書籍も読みやすい書き方にしていく流れがある気がします。
    とくにカクヨムは、利用者は20、30代が多いらしく、ラノベやライト文芸作品が多いため、似通った書き方のものが目につくのも必然かもしれません。

    それでも、ごく希にですが、襟をただして正座して拝読しなくてはと思える作品に出会うことがあります。
    これまでは、なぜそう感じたのか、自分でもうまく説明できませんでした。適切な文章の距離感が良かったのやもしれないと、思えてきました。

    日々の研鑽が足らないと痛感しました。

    作者からの返信

    snowdrop様


    「一文を短く……必然かもしれません」までの内容については、当方でも似たような認識を持っています。そしておそらくは今後も悪化の一途をたどるでしょう。本編ではかなり持って回った書き方をしましたが、要するに「子どもっぽい」文章が増えたということです。近すぎるのも、遠すぎるのも、どちらも世界(もちろん人間を含む)に対する捉え方が稚拙であることの証左です。自分はそうならないようにしたいものです……。

  • 改めて、テクストというものは一目変わると浮き上がる模様が変わるものですね。

    自分の場合は「テンポ」や「ノイズ」と呼んでいたものを緻密に説明されていて、改めて勉強になりました。

    こちらの頁の例だけで言うのならば、例文の二つ目は明らかにテンポが悪くなっていると私は感じます。1つ目の例文で「一瞬の間をスローモーションで再生する」感じが、二つのカットに分かれている様な間の悪さです。
    緊迫したスピード感が削がれるノイズが有るように思いました。

    書き手が言語化したテクストをどう解釈、咀嚼、味わうかは読み手に依存します。これはどうしようもありません。
    ですが、書き手としてその壁を理解した上で、読み手が心地よい読書体験が出来るように推敲し、文章を磨き上げる事は苦行でもあり、なにやら中毒めいたものでもあるように思います。

    優れた料理人に必要なものは、敏感な味覚、嗅覚であり、客にとって心地よい店というのは食器は勿論、内装やロケーションにまで気を配られたもの。なんだかそれと似ているなぁ、等と書きながら思いました。

    勉強させていただきました。ありがとうございます。

    作者からの返信

    続セ廻様

    お付き合いくださりありがとうございました。

    読み手依存なのはもうどうしようもないことですので、ある程度割り切りも必要なのでしょう。

    読み手の心地よい読書体験、というのも方向性の1つとしてはアリでしょう。ですが今どきの読者向けの「読み心地」を追求すると、昨今のweb小説にありがちな、「1行ごとに改行」「一文はとにかく短く」「難しい表現は使わない」となってしまい、結局は距離が近すぎる、遠すぎる文章になってしまうように思えますね。

    料理と同じで、料理人の細部の拘りまで理解してくださる読み手はいつも一握り。ですがそういう方が読んでくださることを願って、日々研鑽を積んでいくしかないのでしょうな。

    編集済
  • なるほど……?
    律角さんが文学作品に求めるものと私が求めるものは違うんだなあということが、とりあえずわかりました。

    私は文章の上手い下手、近い遠い、人称の違いなどはあんまり気にしていなくって、大事なのはその文章が物語に没入させてくれるか、最後まで読んだ時に何某かの感動(どの方向へでも心が動かされるという意味で)が得られるかを重視しているので、こちらの例文を読んだだけでは、それが悪文かどうか、正直判断がつきませんでした。

    随分と回りくどい言い方だなあ、客観と主観が混乱しているなあと思っても、最後まで読んでみたら、人間感情を獲得しかけているAIの手記だったというオチかもしれないし……。

    いろいろな考え方があるもんだなあと、面白く拝読しました。

    作者からの返信

    鐘古さん。駄文にお付き合いくださったことにまずは感謝申し上げます。

    とりあえず、私の意図せんところが伝わらなかったであろうということは、何となく了解しました。それは仕方のないことです。現代において私のような意見は奇人のソレと受け取られるであろうことは重々承知しておりますし、そもそも私自身の文章能力の低さが最大の問題なのは言うまでもありますまい。

    感動を得られるかを重視している←鐘古さんにかぎらず、現代の書き手の多くがこれを口するというのは、私の方でも心得ております。まぁ、別段それが悪いことだとは申しません。ですがそんなに感動を与えたいならば、テキトーに描いた下手くそな絵を持ってきて、「これは盲唖の子どもが一生懸命描いた絵です」とでも宣伝すれば済む話ではないですか、とだけ申しておきましょう。

    客観と主観が混乱している←もしや「近い≒主観」「遠い≒客観」と考えておいででしょうか? 残念ながら、私はそのような意味では用いておりません。まぁその理解でも完全に間違いとまでは申しませんが、そこを超えた意味合いを匂わせたつもりでありました。が、力不足だったようです。申し訳ない。

    悪文かどうか判断がつかない←そうですか。それが鐘古さんの本当に素直な感想だというのならば、致し方ありません。

    編集済
  • ふむふむ。
    そんななけなしの気力を振り絞ってくださったのに、先日は変なもの読ませてすみませんでしたー!
    身内に怒られたので、ああいう曲芸は三年に一回くらいにします( ;∀;)
    で、律角さんは近いのが好きなのか、遠いのが好きなのか。
    作品によるのか。
    これから明かされるんですかね。
    わくわく。

    作者からの返信

    鐘古さん。最終章のコメントは意図的に挑戦的な(挑発的な?)返しをしておりますが、別に怒ってるわけじゃないのでご安心ください(←お前が怒らせないかを気にしろよ、というツッコミは〆切ました)

    文章論としてはわりとオーソドックスに纏めたつもりだったのですが、まぁ私のオーソドックスの基準など全くあてになりませんな。御免してつかあさい。

    あと、曲芸は3日に1篇くらいでもイイと思いますよ(←ハ?)