第3話 模写課題

世界はわが教区―ジョン・ウェスレーの生涯(12)嵐の中の平安


メソジスト教団はウェスレーたちのめざましい働きにより大きく成長してゆき、会員も32名を超えた。彼らはその趣旨の通り、徹底して社会から見捨てられた人々――生活困窮者、身寄りのない者、病人、そして死刑囚に寄り添い、彼らに福音を伝えて回ったのである。


アルダス・ゲートの回心後、ウェスレーはクリフトンの教会に招かれて説教をすることになった。この教会は上流社会の豊かな生活をする人々ばかりが集まっていたが、彼らはただ形式的に礼拝を守り、説教を聞くだけで、その心は社交のことや遊びのことでいっぱいであった。そして、物質的に何不自由なく生活していたので、貧しい兄弟や不幸な人々の苦しみを思いやることもなく、毎日を面白おかしく過ごすだけであった。ウェスレーは、彼らの中にも病があることを見て、こう説教で語った。


「人間を堕落させるものは、飢えでもなければ劣悪な環境でもありません。それは物質的な欲望です。人は多く与えられ過ぎると、隣人のことを思いやる気持ちをなくします。飢えに泣く人や、その日のパンにこと欠く人が町にあふれているというのに、裕富な人の多くは見て見ぬふりをし、自分のことだけを考えているのです。だから、多く与えられている人は、それを不幸な兄弟と分かち合うべきです。その愛の心こそ、決してお金で買えない、神から与えられた贈り物なのです。クリフトンの教会の皆さん! どうか災いの中から救われるために、その財産の一部を恵まれない人々に分かち与え、病人や身寄りのない者、孤児たちを見舞う愛の奉仕をなさってみてください。そうすれば、心が豊かになり、内なる賜物は一層祝福され、幸いをもたらすでしょう」


今までこのような説教をした人はいなかったので、教会員は憤慨した。「まあ、何て失礼なことを言う牧師さんでしょう」。ある貴族の夫人がこう言って席を立つと、教会員たちは1人去り、2人去り、とうとう誰もいなくなってしまった。


この教会は英国国教会に属する教会だったので、以後これらの教会に属する者たちはウェスレーを嫌悪し、彼はこの時からいや応なしに英国国教会と対立状態になるのである。彼はその後、ペンスフィールドで説教する予定になっていたところ、その前日に教会から手紙が届いた。彼が狂信者だといううわさがあるので、説教を見合わせたいという内容だった。そして申し合わせたように、各地の国教会は彼との交流を断ってしまった。


しかしウェスレーは、こうした嫌がらせに屈することなく、メソジストのグループと共に病院を回り、病床に伏す人々に福音を語った。また刑務所を訪れ、死を待つ哀れな人々に永遠の命を伝えた。これら社会から見捨てられた人々は、むさぼるようにウェスレーが語る言葉を聞き、神の言葉を受け入れた。ウェスレーたちのこうした働きをあざけっていた町の人たちも、次第に理解を示し始め、やがてはメソジストというあだ名も尊敬と愛情を込めた親しいものに変わっていったのである。


そんなある日。ウェスレーはボスという小さな町の教会で説教することになった。「あまり聴衆を刺激するようなことを言わないでくださいよ」。その教会の牧師はこう言ったが、ウェスレーは、身分の高い人も低い人も、また貧しい人も富める人も等しく罪人であり、それ故にキリストの救いにあずかるよう招かれているのだと語った。すると、会衆はざわめき始めた。その時、ボー・ナッシという町の有力者が立ち上がると、つかつかと説教壇の所にやってきた。


「これは国教会条令に反するもので、聴衆を惑わすものだ。あなたは教会と神を敵に回している!」しかし、ウェスレーは静かに言った。「私が福音を伝えるべき人たちは、心貧しく福音に飢え乾いている人たちです。彼らは自分を誇らず、素直にみことばに耳を傾けますから」


すると、ボー・ナッシ氏は、それなら聴衆に聞いてみようと言った。その時、一人の老婆が立ち上がると言った。「私らは自分の魂のことを心配しています。そして、その魂の糧を頂くためにここに来ているのです。でも今、一番豊かにそれを頂きました」。そして、キラキラ光る目でウェスレーを見上げて、深々と一礼したのだった。


礼拝を終えて外に出ると、どうだろう! 教会の庭から外、通りに至るまで、ぎっしりと人で埋まっていたのである。ウェスレーの胸には潔(きよ)い炎が再び燃え上がるのだった。



<あとがき>


ウェスレーは生涯英国国教会の迫害に苦しめられましたが、その最初のきっかけは、クリフトン教会における説教にあるといわれています。彼は上流社会の裕福な人々ばかりが集まるこの教会で、「人間を堕落させるのは飢えでもなければ劣悪な環境でもない。人間は与えられ過ぎると物質主義に支配され、生活困窮者や社会的弱者たちのことを顧みることができなくなるのでそれが彼の人格をおとしめるのだ」と語り、持てるものの一部をこうした不幸な人々を救済するためにささげなさいと勧めました。


この説教に会衆は憤り、彼は国教会の条令に反する異端者であるとの烙印(らくいん)を押されてしまいました。その後説教を予定していた教会からはことごとく断られ、ある所では暴徒に暴行されかけました。しかし、こうした迫害の嵐の中でも、ウェスレーの心には平安がありました。福音は最も小さな者、社会から見捨てられた者のためにこそあるのだという揺るぎない確信の火が燃え続けていたからです。





世界はわが教区―ジョン・ウェスレーの生涯(13)あめにはさかえ


その頃ウェスレーは、刑務所の改善に尽くしていたジョン・ホワードと出会い、親交を結ぶようになった。2人はたそがれ迫るロンドンの町を歩いていた。


「ごらんなさい。まるで地獄だ」。ホワードは言った。「ジンをあおって道路に寝転ぶ浮浪者。スリや強盗が人を脅し、孤児は辻にたむろして通行人からパンや金をせびっている。また売春が当たり前のように行われている。繁栄の町といわれるロンドンがこんな状態ですから、他の町はもっとひどいでしょう」。2人はやがて「浮浪者収容施設」の前にやってきた。「ここはいわゆる人生の掃きだめと呼ばれる場所です」。再びホワードは言うのだった。


その時、一人の男が大鍋を下げて庭に出てきた。すると、あちこちから着物は破れ、髪はボサボサ、首筋にはあかがこびりついている男たちが駆け寄ってきた。そして、手に手にブリキの缶を差し出し、奇妙な声を上げた。すると、男は乱暴なやり方でひしゃくに一杯ずつ鍋のスープをついでやるのだった。それは水より薄い、何の具も入っていないスープだったが、彼らは一息で飲み干してしまった。「これじゃ、腹の足しにならねえよ」。彼らは鍋を持った男に躍りかかると、その鍋を奪い取った。もうスープは一滴も残っていなかった。すると彼らはだしに使った鳥の骨を手づかみで拾い上げると、互いに奪い合いを始めた。


「何て浅ましい」。2人は顔をそむけた。「パンをくれよう!」男の一人が目をギラギラさせて詰め寄ってきた。ウェスレーとホワードは、それぞれポケットからありったけのお金をはたき出し、スープを配っていた係員に渡した。「これでパンを買ってこの人たちにあげてください」。係員は、近くのパン屋に行き、パンを買ってきて浮浪者たちに与えた。「さあ、情け深い方たちがパンを下さったぞ。感謝して頂きなさい」。すると、彼らはパンに飛びつき、それをむさぼるように食べた。


ウェスレーは、ここで少し話をさせてほしいと言い、語り始めた。「皆さん、聞いてください。私たちはパンがなくても生きられます。着るものがなくても、住む家がなくても生きられます。でも、愛がなければ生きることができません。私たちがこうして生きているのは、神様の愛があるからです。思えば、この世にあるものはすべて神様の愛によって造られたのです」


そして彼は、神が罪人である人間を救うためにイエス・キリストをこの世に遣わして、十字架でその罪の代価を支払ってくださったことを切々と語った。いつの間にか、薄暗い建物の中に浮浪者たちが詰めかけ、押し合うようにしながら話に聞き入っていた。「先生、私はイエス様を信じるよ」。突然一人が叫ぶと、次から次へと手が上がった。そして何とその日に15人が洗礼を受けたのであった。その中には、スープを配っていた係員の姿もあった。


2人が外に出たとき、ちらちらと雪が降り出した。「今夜はクリスマス・イブですね」。ジョン・ホワードが言った。そこへ、チャールス・ウェスレーが、シー・キンチンという人の家で集会が開かれると告げに来た。彼はもうすっかり病気も癒え、健康を取り戻していた。


――と、そこへ、突然警官が一通の手紙を手にして現れた。「ウェスレーさん。残念ながら、議会の名において、今後あなたは一切英国国教会の中に足を踏み入れることも、説教することも禁じられました。もしこの法を破った場合には、逮捕します」。そして、手紙を渡すと行ってしまった。ウェスレーは、しばらく手紙を握りしめたままそこに立ち尽くしていた。


「私は、牧すべき教区を失った」。彼は、ポツンとつぶやいた。「しかし、今や世界が私の教区だ」。この時、チャールスは群がる人々の中から男の子と女の子をつれてきて並ばせた。「兄さんに、この賛美歌をささげます」。たちまち、かわいらしい合唱が流れ出した。それは、後に世界的に有名になり、大人にも子どもにも愛された「あめにはさかえ」(讃美歌98番)であった。素晴らしいクリスマス・イブとなった。



<あとがき>


社会事業家のジョン・ホワードと共にロンドンの裏町を歩いていたウェスレーは、そこにたむろする下層階級の人々の悲惨な姿に胸が締め付けられる思いでした。そして、2人が「浮浪者収容施設」の前を通りかかると、ここでもスープのだしに使った鶏ガラを奪い合うあさましい人々の姿を目にしなくてはなりませんでした。ウェスレーは、こうした社会から見捨てられた人々に心を込めて福音を語りました。


その後、裏町をたどって行くと、突然一人の警官がやってきて彼に手紙を渡しました。それは英国国教会の名において、二度と教会の中に足を踏み入れることも、説教することも禁じるというものでした。悲しみに打ちひしがれるウェスレーに、この直後、素晴らしいクリスマス・イブの贈り物が与えられました。ここにやってきた弟のチャールスが少年少女を集めて自作の賛美歌を歌わせたのです。この「あめにはさかえ」は世界的に有名になり、今なお教会の内でも外でも親しみを込めて歌われています。




世界はわが教区―ジョン・ウェスレーの生涯(14)巡回伝道を始める


ジョン・ウェスレーは、英国国教会から締め出されたときから巡回伝道を始めたといわれている。彼は馬に乗ってロンドン、オックスフォード、ニューゲート、アルダス・ゲート、ムーアフィールド、ウェールスに至るまで福音を伝えて回った。


国教会の人々は、ウェスレーを締め出しただけでは飽き足らず、新聞や雑誌などに悪口を書き続けた。大衆は訳も分からないままにこの言葉に踊らされ、面白がって彼の悪口を言ったり罵倒したりするのだった。どの町に行っても必ず路地にメソジストの仲間たちと一緒に彼の似顔絵が掲げられ、その下にあくどい言葉が書かれていた。しかし、ウェスレーはこうした迫害に屈することなく巡回伝道を続けたのである。


1739年5月2日。彼は炭坑の町ブリストルで初めて野外伝道を開いた。この時、約2千人あまりが集まっていたが、彼が聖書を読んで語り始めると、彼らは訳の分からないことを口走りながら殺到した。そこへ、どこからともなく武装した警官が2、3人姿を見せた。てっきりウェスレーは自分を捕らえに来たのだろうと思ったが、ひるまず続けた。「この英国も、そして世界中も今暗黒の中にいます。それは、私たちすべての人間の罪のためなのです。しかし、その暗黒の中に光がもたらされました。イエス・キリストの十字架の贖(あがな)いです。ここにすべての希望がかかっているのです」


「やい! 何だってわれわれを罪人呼ばわりする。人殺しや強盗を働いたわけじゃないのによ」。一人が進み出ると、ウェスレーの胸ぐらをつかんですごんだ。「皆同じく罪人なのです。あなたも、私も、この地の人々も、世界中の人々も――。しかし、そんな罪人である私たちを、神様は愛してくださった。皆さん、イエス・キリストの名を呼び求める者はすべて救われます」。突然、暴徒たちが押し寄せてきて、ウェスレーを壇から引きずり降ろした。そして、殴ったり蹴ったりし始めた。「生意気な説教をするな! くたばっちまえ!」


その時である。いきなり先ほどの警官がやってくると暴徒たちを片っ端から捕らえて連れ去った。「けがはありませんか?」一人の警官が彼に手を差し伸べて助け起こしながら尋ねた。この時、ウェスレーは自分の思い違いを悟った。敵と思っていた彼らが実は神の使者だったのである。「おまえたち、この人が言っていること分かるか?」警官はガヤガヤ騒いでいる群衆に向かって言った。「私はこの人の言ったことがよく分かるぞ。どんなに偉そうにしている人間だって、神様の前には罪人だ」


「そういうことだな。よく分かったよ」。何人かの者が、声をそろえて言った。「私らは、神様の前に罪を悔い改めなくちゃならないんだ」。この時、ウェスレーの両眼から涙があふれ出した。彼はありったけの力を振り絞って「罪人を招きたもうキリスト」という題で説教した。この時、彼は自分を迫害し続ける英国国教会の者たちとも兄弟として愛し合える気がしてきた。キリストの愛のもとでは、敵対する者たちもすべて兄弟になるのだ。


この集会で、100人以上の者が悔い改めて洗礼を受けたのだった。彼を守ってくれた3人の警官もその中に含まれていた。さらに奇跡のようなことが続いて起きた。身分の卑しからぬ紳士がつかつかとウェスレーの所にやってくると、ずっしりと重い金袋を差し出して言ったのである。「この地に先生が来られることを知って、少しずつ貯金しておりました。どうか、これを神様のご用のために使ってください」。そして、献金を渡すと立ち去った。「そうだ。これを用いてこの地に教会を建てよう」。彼はその時、こう決心した。


1739年5月12日。このブリストルの地に最初のメソジスト教会が誕生した。「ホーリー・クラブ」解散後、各地に散っていたかつての仲間たちも続々と戻ってきた。この日。礼拝後に最初の宣教のための討議が会堂で行われた。第一にメンバーは英国各地を巡回して伝道を行うこと。第二に各地に浮浪者の保護施設や学校、孤児院などを建てるための募金をすること――などが決められ、その後一同はチャールスが作った賛美歌「主イエスのみいつと」(讃美歌62番)を高らかに歌った。



<あとがき>


英国国教会から締め出されたウェスレーは、馬に乗って各地に福音を伝えて回りました。英国国教会の人々は、彼を締め出しただけでは飽き足らず、新聞や雑誌に悪口を書いたり、あくどい似顔絵やポスターを町の辻に貼ったりと、迫害を続けました。そして、ブリストルで野外伝道を行ったときには、暴徒たちから殴る、蹴るの暴行を受け、まさに彼はピンチに陥り、進退きわまったという状態でした。しかしこの後、不思議な神様の助けがありました。


彼を捕らえに来たと思われた警官が、逆に彼を暴徒から守ってくれた上に、弁護までしてくれたのです。この時、ウェスレーは「キリストの名のもとでは、敵対する者も兄弟になれる」という信念を強く持ち、英国国教会の人たちを心からゆるすことができたのでした。恩寵はまだ続きます。彼の説教に感動した一人の富豪が金貨の詰まった袋を献金としてささげました。この献金によって、この地に最初のメソジスト教会が建てられたのです。






世界はわが教区―ジョン・ウェスレーの生涯(15)生まれ変わった炭坑の町


ある時、ウェスレーは馬に乗って英国で最も社会問題を多く抱えているといわれている炭坑の町キングスウッドを訪れた。ここには大きな炭坑があって、ここに住む人々は一日中日の目を見ない暗黒の世界に生活していて、彼らには安息日(日曜日)もなければ、教会もなかった。彼らの生活は無秩序で争いごとが多く、人間というよりは動物に近かった。


すでに友人のジョージ・ホイットフィールドはここで伝道していた。彼はウェスレーが来たことを大変喜び、2人は協力し合ってこの炭坑の人々のために尽くすことを誓い合った。何よりもウェスレーを驚かせたのは、この地帯の子どもたちだった。ここに来た最初の日、汚らしい身なりの子どもたちがやってくると、ペッとつばを吐き、ナイフを突きつけてすごんだ。「金出しな。そうしないとぶっ殺すぞ」。まだあどけない顔の子どもたちが、町のごろつきが使うような言葉を吐き散らすのを見て、ウェスレーの胸は痛んだ。


「あのねえ」。彼は馬から降りると、彼らに語り掛けた。「私はお金を持っていないけど、もっといいものをきみたちにあげるよ」。「うそつけ! お金よりいいものなんかあるかい!」そして、そのうちの一人がナイフをかざしてウェスレーにつめ寄った。その時、一人の酔っ払いが向こうからやってきた。「このガキめが!」彼はその子を引き寄せると横つらを張り倒した。「親たちが一日中働いているってのに、てめえらは遊び回ってろくなまねしない」。そして、その腕をねじり上げてなおも殴りつけようとした。


「もうおよしなさい」。ウェスレーはその腕をつかんで引き離した。「こんな小さな子どもに乱暴するなんて。恥ずかしくないですか?」「このガキどもにみんなが手を焼いてるんだ。いっそこいつらを炭坑の中に埋め込んじまいたいよ」。そして、酔っ払いはそのままフラフラと向こうへ行ってしまった。


「いい子だね。こっちへおいで」。ウェスレーは、まだ泣いている子どもの手をとって引き寄せた。すると、周りに群がっていた子どもたちは、何かもらえると思ったのか近づいてきた。彼は両手で彼らを抱き寄せるようにすると、イエス様の話を聞かせた。不思議なことだが、ナイフで通行人を脅すような子どもたちが、彼にもたれかかるようにして話に聞き入っていたのだった。


ウェスレーは、ホイットフィールドと共に学校を建てる資金を集める傍ら、それができるまで空地に仮小屋を建てて子どもたちの教育を始めた。大人から面倒をみてもらえないこれらの子たちは、喜んで続々と集まってきた。ウェスレーたちは一日中彼らを教え、一緒に祈り、また話し相手をするのだった。


そのうちに、彼らの働きを見て感動した裕福な未亡人が2人、ウェスレーの所にやってきて高額の寄付をした上、子どもたちの面倒をみてくれることになった。さらに、この炭坑の中で毎日けんかと愚痴話に明け暮れしていた坑夫の妻たちがやってきて、子どもたちの汚れた衣服の洗濯やこまごまとした雑事をやってくれるようになったのである。


こうして、少し前までは狼のように凶暴で、残忍で、恐ろしい言葉を吐き散らしていた子どもたちが、さっぱりとした衣服を着て、賛美歌を歌いながら手を取り合って歩くのを見て、キングスウッドの人々は夢でも見ているように思うのだった。そして、炭坑のそばに子どもたちの学校ができたこと、宣教師が彼らの世話をするためにやってきたこと、そしてその宣教師こそ各地の教会で悪く言われ、新聞や雑誌で罵倒されているメソジスト教派を作ったジョン・ウェスレーその人であること――などのうわさが野火のように広がっていった。


この話は町の財閥の心を動かし、ある裕福な商人が学校を建てるためと称し、ばく大な寄付をしてくれた。また新聞は「生まれ変わるキングスウッド」と称し、ジョン・ウェスレーたちがこの暗黒の地を感謝と賛美に満ちあふれる町に変えつつあることを報道した。すると、各地の実業家たちがこぞって寄付を申し出たので、ようやくウェスレーたちは待望の学校を建てるための敷地を買うことができた。チャールスは記念のために賛美歌をささげたが、この「わがたましいを愛するイエスよ」(讃美歌273番)こそ、後の世まで不朽の賛美歌として人々に愛されたものであった。



<あとがき>


炭坑の町として知られるキングスウッドは多くの社会問題を抱え、人々は暗黒の中で生活をしていました。友人のジョージ・ホイットフィールドと共にここを訪れたウェスレーは、放任されたり虐待されたりしている子どもたちが悪に染まっていく姿を見て心を痛めました。彼らは町のごろつきが使うような言葉を吐き散らし、ナイフで通行人を脅して金を奪ったり暴行を働いたりしていたのです。


ウェスレーたちはここに学校を建てる決心をします。そして寄付金を集める傍ら、空地に仮小屋を建て、子どもたちを集めてイエス様の話を聞かせ、祈ることを教え、一日中彼らの話し相手をして過ごしたのです。その姿に感動した上流階級の人々が多額の献金をしてくれたので、この地に学校と教会を建てることができました。きちんとした身なりをした子どもたちが賛美歌を歌う姿を見て、やがて大人も教会に足を向けるようになり、この暗黒の町は賛美と祈りにあふれる町へと変わっていったのでした。



世界はわが教区―ジョン・ウェスレーの生涯(16)母の死と不幸な結婚


1742年7月末のこと。母スザンナの病が重いとの手紙を受け取ったウェスレーは、チャールスと共にロンドンに赴いた。すでに臨終の床にあった愛する母は、かすかに目を開いて手を差し伸べた。


「ジョン・・・よくここまでやりましたね。つらいことがたくさんあったでしょうに。私はあなたの働きをいつも祈っていましたよ」。そして、次にチャールスにほほ笑みかけた。「あなたが賛美歌作者になったこと、本当にうれしく思っていますよ。どうか神様と人に喜ばれるような素晴らしい歌をたくさん作ってくださいね」


そして、今は成人しているサムエル、エミリー、ナンシー、ケゼーを抱き寄せて祝福すると、最後にチャールスの作った賛美歌を聞きたいと言うのだった。そこで一同は「あめつちにまさる かみのみ名を」(讃美歌11番)を歌った。その夜――7月30日深夜に母スザンナは天に召されたのだった。


深い悲しみを振り払うようにして、ウェスレーは各地に伝道の旅を続けた。ロンドン、バス、オックスフォード、ウェールス、ニューゲート、アルダス・ゲート、ブリストル、キングスウッドなどを回り、その地に建てられたメソジスト教会や孤児院、保護施設、病院などを訪ねて働く人を励まし、収容されている孤児や寡婦、病人や生活困窮者などに福音を語って慰めた。その頃、メソジスト派が始めた新しい活動に「禁酒禁煙運動」「失業者救済活動」などがあった。


一方、依然として英国国教会の迫害は続き、今後は議会で顔のきく者や新聞記者たちに悪口を吹き込み、町の人を扇動してウェスレーを憎むようにさせた。こんな時に起きたウェンズベリーでの迫害は最もひどいものだった。彼が壇上に立って語っていると、一人の軍人が剣を振りかざして近づき、脅すように言った。「あんたは国教会を追われた牧師じゃないか。何の権威があってこんな所で人を集めて話をするんだ」。そして、スラリと剣を抜いて突きつけた。


「あなたの自由になさるといい。私はここで死んでも悔いはありません。この身は神様にささげたものですから」。ウェスレーがこう答えると、軍人はさんざん脅したり悪口を投げつけたりしたが、そのまま立ち去った。すると、申し合わせたように暴徒が押し寄せて彼を壇上から引きずり降ろし、上着を剥ぎ取って殴ったり蹴ったり始めた。話を聞くために集まった群衆はあっという間に逃げていってしまった。


その時、この町の大きな食料品店の主人がウェスレーを抱き起こすと、自分の家につれて行き、けがの手当てをしてくれた上、食事を出して労をねぎらってくれたのだった。その名を聞いた途端に、ウェスレーの記憶が呼び覚まされた。「ウィリアム・ホーキンス・・・」「思い出されましたか? 昔あなたに学校でかばってもらった生徒ですよ」。そうだった。彼の代わりにウェスレーは教師からムチで打たれ、廊下に立たされたのだった。2人は堅い握手を交わした。ホーキンスは彼の手にずっしりと重い袋を乗せた。中には金貨が詰まっていた。


「あなたにお会いしたときに渡そうと思っていました。どうかあなたの尊い事業のために使ってください」。そう言ってから、彼は笑顔で付け加えた。「私の2人の子どもたちは、この町のメソジスト派の教会に通っているんですよ」


1744年にロンドンで第1回のメソジスト教団の総会が開かれたが、それ以来毎年開かれるようになり、メソジスト教団は今やしっかりと英国の地に根を下ろし、その宣教活動も充実してきた。しかしながら、ウェスレーは長年にわたっての迫害や無理がたたってか、ニューキャッスルで発熱し、宿で病床に就く身となった。


すでに結婚して所帯を持っていたチャールスは兄の身を案じ、知り合いのベロネット医師を通してウェスレーにある女性を紹介した。ロンドンの商人の未亡人のバジール夫人で、教育も信仰もあるしっかり者だったので、ウェスレーにふさわしい相手と判断したのだった。こうして1751年2月18日。バジール夫人は4人の連れ子と共にウェスレーのもとに嫁いできたのである。


しかしながら、この結婚は大きな不幸をウェスレーにもたらすことになる。夫人は病的なヒステリー性格で、気に入らないことがあると、とことん相手を叩きのめすのだった。彼女は結婚して4カ月とたたないうちに、もう夫に向かって不平を言うようになり、あの手この手で彼を苦しめた。



<あとがき>


波乱に満ちた人生のことを、私たちはよく「数奇な人生」と呼んでいますが、まさにウェスレーの生涯は、普通の人が体験できないような不思議な出来事に満ちたものでした。しかし素晴らしいのは、そうした一つ一つの出来事がすべて神の恩寵によって支えられていることであります。1742年のウェンズベリーにおける事件もそうでした。彼が壇上に立って説教していると、一人の軍人がやってきて剣を突きつけて脅し、続いて暴徒たちが襲いかかって彼を袋叩きにしました。


この時、この町の食料品店の主人であり町の名士でもある人が彼を助け、自宅につれて行って傷の手当てをしたり食事を振る舞ってくれたりしたのです。驚いたことに、彼こそ昔チャーターハウスの学校でウェスレーが身をもってかばってやった旧友のウィリアム・ホーキンスだったのです。さらに、ウェスレーはこの後不幸な結婚をすることになるのですが、その中にも深い神の恩寵があったのでした。




世界はわが教区―ジョン・ウェスレーの生涯(最終回)世界はわが教区


メソジスト教団は海外にも勢力を伸ばしてゆき、1767年にはニューヨークに米国最初のメソジスト教会が建てられた。特に米国では教育に対する関心が高まっていたので、メソジスト派の学校も建てられ、子どものための宗教教育がなされた。ウェスレーはメソジスト教会の献堂式に招かれて話をすることになったので、30年ぶりにかつては夢破れて寂しく去った新大陸に赴いた。


その日、1800人の聴衆を前にして、ウェスレーは語った。「かつてこのアメリカ大陸には教会がなく、現地の人々は互いに敵対し合っていました。この地を訪れる宣教師はなく、米国伝道は難しいと考えられていました。しかし今、この米国はキリスト教精神にあふれ、伝道の熱意に燃えつつ、世界的な文化国家として発展しつつあります。福音は種をまかれたときには他のどんな種より小さいものだが、やがて育ったときには空の鳥をも宿すほどになると聖書は教えています。英国国教会から締め出され、メソジスト(きちょうめん屋)とののしられていた小さな祈りのグループがこのように英国本土を中心として各地に出て行き、今や全世界を神の国とするために働くことができ、また世界がこのグループによって、社会から見捨てられた者こそ神の目に最も尊いことを教えられ、さまざまな社会事業が行われるようになろうとは、誰が予測し得たでしょうか。それは、まさにイエス・キリストが罪を告白したわれらを救い、あふれるばかりの恩寵を注ぎつつ導いてくださったからにほかなりません」


話を終えて講壇を降りたウェスレーの所に一人の見慣れない若者がやってきて、握手を求めて言った。「私の父はジョージア州に古くから住んでいるインディアン部落の者で名をチカリといいます」。ようやくウェスレーは思い出した。「いけにえ」という言葉から誤解を生ぜしめたインディアンの首長チカリの顔をよく覚えていた。「父はあなたが去ってから、初めてあなたが真理の言葉を伝えてくれたことを知りました」


チカリの息子は言った。「今あの部落はクリスチャンで満ちています。それからもう一つ。オグレソープ将軍が、もしあなたに会ったときは、あの事件に関して謝罪したい旨を伝えてほしいと言っておられました。軽々しいうわさに耳を貸し、誰よりも大切な人を追い出したことを今でも後悔されています」


「もし将軍の所に戻られたら」。ウェスレーは、晴れやかな微笑で彼の手を握り返した。「キリストにある和解が成立したことを心から喜んでいるとお伝えください」


ウェスレーはその後、世界各地に建てられたメソジスト教会を巡り、説教をした。すでにこの教団は財政的にも宣教の方法に関してもしっかりとした体制が整えられていた。この教団に連なる者たちは、ただ教会の講壇から福音を説くのでなしに、常に社会を見つめ、不幸な隣人のために手を差し伸べながら物質的ならびに精神的な援助をしつつ、その魂をイエス・キリストへと導いたのである。そして、ついに彼らは暗黒の英国社会を改革し、新しい国家へと生まれ変わらせたのであった。


ウェスレー夫人は、最後まで夫を苦しめた末、彼に看取られながら死んだ。最愛の弟チャールスと、親友のジョージ・ホイットフィールドを天に送ってからは、ウェスレーは老齢にもかかわらず最後の改革に全身全霊を投入させた。奴隷貿易反対運動である。1791年2月4日。彼は国会議員で奴隷廃止論者のウィリアム・ウィルバーフォースに宛てて一通の手紙を出した。それは、奴隷を使うことがどんなに恥ずべき悪い制度であるか、そしてせっかく進歩の兆しを見せ始めた国家をいかに無知と野蛮な非文明へと後退させるものであるかを切々と訴えたのだった。


その年の3月2日。ウェスレーは、シティロードにおいて説教している最中に倒れ、天に召された。彼の生涯にふさわしく、最後まで働き人としてその職務に身をささげつつ、天国に凱旋していったのである。彼の死を知った人々――特に孤児や寡婦、身寄りのない者、病人や浮浪者、そして刑務所につながれている死刑囚などは涙とともに自分たちをこよなく愛してくれた信仰の導き手の死を悼み、心から冥福を祈るのだった。


ジョン・ウェスレーの記念碑には、このような言葉が刻まれている。


“世界はわが教区である”


<あとがき>


いよいよ「ウェスレーの生涯」の連載も最終回を迎えました。彼の生涯をたどって思うことは、まさにそれは恩寵による奇跡から奇跡への歩みといえましょう。彼が創設した「メソジスト教団」は、広く海外にもその宣教の輪を広げ、多くの国に教会や学校が建てられ、伝道と社会事業が両輪のように働いて人々を救いに導いたのです。


晩年になったとき、あたかも神様が最後に最大の奇跡を見せてくださるかのように、驚くべきことが起こりました。彼が二度と足を踏み入れたくないと思っていた米国にメソジスト教会ができ、彼はその献堂式のメッセージを依頼されたのです。さらに、以前言葉が足らず誤解を与えてしまった首長チカリの息子と会い、彼からすべてが誤解であったこと、そしてウェスレーのまいた種が実を結び、集落はクリスチャンで満ちていることなどを告げられたのです。世界を教区としたウェスレーの懐の中で、神様は一人も救いからもれる者がないようにと取り扱われたのでありました。


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ション・ウエスレ―のミニストリー 山下安音 @provida0012

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