第八話 聖女と皇妃

 私たちと皇妃様は私たちが帝宮で暮らし始めてからもしばらくはお会いする機会がなかった。


 別に私たちはそんな事気にも止めていなかったけどね。関係なく楽しく暮らしていたから。


 ただ、皇帝陛下は頻繁に離宮に来てくださって、皇太子殿下も沢山いらっしゃるのに、皇妃様だけが会いに来ないのである。その意味をよく考えておくべきだったのだ。


 ある日、いつものように皇太子殿下と外で遊んでいた時の事だった。森の中を走って追いかけっこしている時に、藪を飛び越えようとして皇太子殿下が足を滑らせて藪に頭から突っ込んでしまったのだ。


「もう、何やってるの。大丈夫?」


 と私は言って殿下を藪から引っ張り出し、彼の頭に付いた葉っぱなどを払い落としてあげた。


「大丈夫だよ。ありがとう。リレーナ」


「もう、気を付けなさいね」


 幸い、頬に擦り傷が出来たくらいで済んだので、私はホッとして、そのまままた遊び続けたのだった。


 ……ところが翌日である。


 朝、朝食を終えて食堂でみんなでおしゃべりをしていた時の事だった。コーヒーを飲んでクッキーに生クリームを乗せて食べるという罪な味を楽しんでいた私たちの所に、ケライネが慌てた様子を隠そうともせずに飛んできたのだ。


「た、大変です! リレーナ様。皇妃様がご来訪になりました」


 ……?


「誰? コウヒサマって」


 ケライネは少しズッコケながらも気を取り直して言った。


「皇帝陛下のお妃様です。皇太子殿下のお母様でもあらせられます」


 あーあー。なるほど。そういえば一度も会った事がないけど、そんな方もいらっしゃったわね。くらいの感じだった。


 アルミーナもふーんみたいな顔をしていた。


「皇帝陛下の奥さんか。そういえば会ったことなかったわね」


「言われてみればそうだな」


 ウィルミーも紅茶に口を付けて慌てる様子もない。シルリートに至ってはコメントもせず真っ黒なコーヒーと生クリームのハーモニーを楽しんでいる。


 のんびりしている私たちに対してケライネは大いに焦っていた。


「何をのんびりしているのですか! 早く玄関ホールへ! お出迎えしないと!」


 まぁ、皇妃様というからには皇帝陛下と同じくらい偉いわけだから? お世話になっている私たちとしてはお出迎えくらいするべきなんでしょうね。


 ということで、私たちは仕方なく席を立って、ノソノソと玄関ホールに向かったのだった。


 玄関ホールに入るなりこうだ。


「遅い! 私を待たせるとは何事ですか!」


 キンキン響く大音声に聖女四人はのけぞったわよね。な、何事なの?


 見ると離宮の入り口に、侍女を五人くらいも従えた、薄紫色の豪奢なドレスを纏った迫力たっぷりな美女がいた。


 金色の髪を複雑な形に結い上げ、レースや花でモリモリに飾っている。鼻は高く輪郭はシャープで、サファイヤ色の目付きもキツいけど、物凄い美人である。ついでに言えばプロポーションも抜群だ。私はまだろくに胸も膨らんでいないので、ちょっと羨ましい。


 その美女が柳眉を吊り上げて私たちを睨んでいる。正直、私は聖女になって一年半以上、結構チヤホヤペコペコされてばかりいたので。睨まれたり怒鳴られたりするというのは、ちょっと新鮮な感じがしたわね。


「リレーナというのは誰ですか!」


 美女がまたキンキン声で叫んだ。私は思わず耳を押さえてしまったけど、ご指名では仕方がない。手を挙げて言った。


「私がリレーナよ」


「貴女なの! 私の可愛いあの子に怪我をさせたのは!」


 間髪入れずにまた怒鳴られた。久しぶりに他人に怒鳴られて、最初は新鮮だったけど、こうも一方的に怒鳴られればムクムクと反骨心が膨れ上がってくる。むー。どうして私が怒鳴られなきゃなんないのよ。


「なんの事よ! ていうか、貴女誰よ!」


 私の言葉に、美女はこれ以上ないほど目を丸くしてしまった。というか、アルミーナもウィルミーもシルリートもケライネも目を丸くしている。


「え? リレーナ、マジで言ってる?」


 アルミーナがこれ以上呆れようがないという感じで言った。何よ。


「おい、リレーナ。我々は皇妃様が来たから、と言うことで呼ばれたのではないか」


 ウィルミーの言葉に私はポンと手を打つ。ああ、そうか。


「という事は貴女が皇妃様!」


「当たり前ではないですか! この無礼者!」


 キンキン声で全力で怒鳴られた。ぬおー、うるさい! そ、それは気が付かなかた私が悪いかもしれないけど、名乗らずいきなり怒鳴り付けてくるのが悪いんじゃない!


 えーっと、この人が皇妃様だとすれば、さっき彼女が言った「可愛いあの子」は……。


「え? 皇太子殿下が怪我したの? いつ?」


「とぼけるつもりですか! 昨日ここから帰ってきたら顔に傷を負っていたのです! リレーナとやらにやられたと言っていましたよ!」


 私は大きく首を傾げる。は……?


「えーっと、傷ってあの、ほっぺたにちょびっと擦り傷が付いた、あれよね? あんなの傷の内に入らないじゃない。それにあれは殿下が自分でズッコケて怪我したんですよ?」


「あの子はこれまで擦り傷一つ負わせないように、大事に育ててきたのですよ! それなのにこの離宮に出入りするようになってから、手は汚すわ日には焼けるは、挙句に顔に怪我をするなんて! 許せません! リレーナとやら! 今後二度と貴女はアーロルドに会うことまかりなりません!」


 皇妃様は興奮して一気に捲し立ててきた。後から考えると、皇太子殿下は帝室の唯一の男子で、失えば皇統が途絶えてしまう可能性がある大事な大事な皇子なのだ。それを育てる皇妃様のプレッシャーたるや相当なものだっただろう。過保護すぎるほど過保護になっても仕方がないかも知れないわね。


 でも、そんな事は当時の私には分からない。


 なんだか知らないけど、一方的に怒鳴られて責められて、私はだんだんムカムカムカムカしてきたのだった。皇太子殿下が怪我したのは私のせいじゃないのに。どうして私が責められねばならないのか。


 まして今後殿下に会ってはならないとか、どうしてこのおばさんに決められねばならないのか。言ってはなんだけど、皇太子殿下が私を気に入って、彼の方から私に会いに来るんであって、私が会いに行っている訳ではないのだ。それを如何にも私が殿下に付き纏っているかのように……。


「聖女だかなんだか知りませんけど、こんな作法も言葉遣いもなっていない娘を皇妃にしようだなんて、皇帝陛下もどうかしていますわ! 私は断じて許しません! アーロルドのお妃は私が決めます!」


 プチーん! とキレてしまった。


 私は自分の靴を脱ぐとそれを掴み、ケライネが止める間もなく、大きく振りかぶるとそれを皇妃様に投げつけたのだった。


 バチーんといい音がしたわよ。靴は皇妃様の顔面に命中して跳ね返った。皇妃様は大きくのけぞった。あまりの事に周囲の時が止まる。


 皇妃様が仰向けにひっくり返っていた顔を戻す。お顔には見事に靴の跡が付いていた。そして惚けたような表情の皇妃様の鼻から赤い血が垂れ始めたのだった。


「きゃー!」「た、大変だ!」「皇妃様お気を確かに!」


 皇妃様付きの侍女が驚愕して大騒ぎになる。皇妃様はあまりの事に呆然としてしまっていたわね。


 そんな中、私はもう一方の靴も脱いでガシッと手に取った。もちろん、もう一発やってやろうと思ったのだ。


「ばか! 止めろ!」


 ウィルミーが慌てて私の腕を掴む。アルミーナも必死で私を羽交締めにする。


「止めなさいレーナ!」


「レーナ落ち着いて!」「おやめください!」


 シルリートもケライネも止めに掛かるが、私は収まらない。怒りに任せて私は叫んだ。


「ふざけるなー! あんた達が勝手に私を皇太子殿下と結婚させるからって私を帝都に連れてきたんじゃないの! 私だって来たくて来た訳じゃないのに!」


 まぁ、帝都に来て美味しいもの食べて、アルミーナとウィルミーとシルリート、それとケライネ達と仲良くなって楽しく暮らしているわけだけど、それはそれである。


 馴染んだ故郷、父さん母さん兄弟姉妹と離れる事を余儀なくされ、遠路はるばる帝都までやってきたのは断じて私の希望ではない。皇帝陛下の要請という名の命令のせいなのだ。皇太子と結婚してくれというから来たのだ。


 それなのに来てみれば聖女は四人いて、結婚は保留。挙句に皇妃様は今、皇太子殿下と私たちは結婚させないと言った。


 じゃぁ、私はなんのために帝都なんかに来たのか。最初からそう言ってくれれば、私は故郷にいられたのに!


 怒り狂った私を止めるのに、聖女が三人と侍女が三人必要だったらしい。どうやら怒りのあまり聖女の力が暴走し掛かっていたようなのよね。身体が赤い燐光を発していたらしいから。


 そうこうしている内に皇妃様も我に返った。そして顔を傷付けられ、鼻血まで出した事にそれはもう半狂乱になって怒った。


「ゆ、許せません! その娘を、そやつを! 打首にしなさい! 皇妃を傷付けた罪です!」


「へんだ! やれるもんならやってみなさいよ! 人に命令する前に自分で掛かってきたらどうなのさ!」


「言わせておけば! そこに直りなさい! 私が首を落としてやりますから!」


「その前に私があんたの首に噛みついてやる!」


 皇妃と聖女の罵り合いというカオス空間に、その時、飛び込んで来たものがあった。


 赤毛の長身のハンサムと、小柄な金髪の少年だ。赤毛のガルヤードと金髪のアーロルド様だ。皇太子殿下は母親の元に走り寄って叫んだ。


「お止め下さい! 母上!」


「アーロルド!」


 流石に皇妃様が驚いて口を噤む。皇太子殿下は皇妃様のお顔を心配そうに撫でた。


「おいたわしい。大丈夫ですか? 母上?」


 皇太子殿下の鎮痛な声に、私も流石に罪悪感を覚えてしまう。皇太子殿下は婚約はともかく、私の良いお友達だ。お友達の母親の顔に靴を投げ付けた、と考えると、それは確かにやり過ぎだった。怒りがシオシオと抜けてゆくのが分かる。


「ですが母上、私は大丈夫だと申し上げましたよ? 私の怪我はリレーナのせいでもないと言いましたよね?」


 皇妃様はバツが悪そうに殿下から目を逸らした。どうやら、アーロルド様が説明したのにも関わらず、よく聞かずに怒り狂って離宮までやってきてしまったらしい。


「それなのに一方的にリレーナを責めたら、リレーナが怒るのも当たり前です。」


 皇太子殿下は静かな口調で皇妃様を諭した。以前の、オドオドしていたアーロルド様とは大違いだ。この人、いつの間にこんなにしっかりした少年になったのかしらね?


 そして皇太子殿下は次に、私の所に来た。私はアルミーナやウィルミー、ケライネにがんじがらめに押さえ込まれている。殿下は私の様子を見ておかしそうに微笑んだ。それを見てちょっと緊張が緩む。


「リレーナも、やり過ぎだよ。君は怒ったらすぐ手が出るんだから」


 ……否定出来ない。アルミーナやウィルミーと取っ組み合いになるときは、大体私が先に手を出すのだ。


「ちゃんと母上に謝って。ね?」


 うぐぐぐぐ。皇太子殿下のキラキラした青い瞳に真っ直ぐに見詰められて、こんな風に諭されたら、如何に私でも陥落せざるを得ない。私はガックリと項垂れながら皇妃様に謝罪した。


「靴を投げたのはやり過ぎでした。ごめんなさい、皇妃様。謝罪します」


 アルミーナが「おお!」と驚く。アルミーナと喧嘩になって、私が自分から謝ったことなどなかったからだろう。


 私の謝罪にも皇妃様は納得しなかった。それはそうだろうね。


「そんな謝罪で許されるとでも! この……!」


「母上」


 皇太子殿下が今度は皇妃様のところに歩み寄り、少し厳しい目付きで皇妃様を睨んだ。皇妃様がうぐぐっと口を噤む。


「いいですか? 聖女様達は皇帝陛下に匹敵する存在です。その聖女であるリレーナを侮辱したのは母上が先ではないですか。本来は罰せられるべきは母上でしょう。それをリレーナが聖女の慈悲で免じて下さったのですよ。これ以上話がこじれると、皇帝陛下でも庇って下さらないかもしれません」


 皇太子殿下は明確に皇妃様を脅迫した。まだまだ小さいと思っていた息子に脅されて皇妃様は驚きを隠せない様子だったわね。私も驚いた。三つも年下で、いつも私にくっついて歩いているアーロルド様がこんな大人みたいな物言いをするなんて。


 そもそも皇太子殿下は幼少時から私達よりも厳しい帝王学教育を受けており、しかももの凄く頭も良くて優秀だったのだ。性格が内気で引っ込み思案だったものが、私と遊んでいる内に私に感化され積極的になったものだから、本来の優秀な部分が表に強く出始めていたのだった。


 皇妃様はまだ少しゴニョゴニョ文句を言っていたが、やがて皇太子殿下が侍女達に命じて離宮の外へ連れ出させた。皇妃様も強くは抵抗しなかったわね。


 皇太子殿下は私の所に来て私の手を握るとニッコリと微笑んだ。


「心配しないで、リレーナ。私がちゃんと母上と話をして納得してもらうから。また遊ぼうね」


 アーロルド様はそう言い残して離宮を出て行った。ガルヤードも私達に一礼して殿下を追って去って行った。


 ……聖女達は呆然である。


 考えて見れば、今の状況はかなり危なかった。皇帝陛下に匹敵するほどの権威をお持ちの皇妃様と聖女達が徹底的に対立してしまったら、聖女を皇族に迎え入れるという話がおじゃんになっていた可能性もあるし、私達聖女の扱いがどうなったかも分からない。聖女は神殿では無条件に崇められる神の加護を受けし者であるから、その聖女と帝室が対立すればそれは神殿と帝室の対立にもなりかねない。


 そんな危機を皇太子殿下がさらっと救って下さった。私から謝罪を引き出して皇妃様の顔を立てる一方、皇妃様を脅迫して黙らせてそれ以上事態が悪化する事を防いだのだ。


 三歳も年下でちょっと軽くみていた皇太子殿下の有能さ、毅然とした態度、その素晴らしい機転に、私はちょっとかなり感動した。この瞬間から、私の中でアーロルド様は仲良しな年下の遊び相手から、将来が楽しみな婚約者候補へと意識が変わったのである。


 ……が、この時、アーロルド様にときめいたのは私だけではなかったのだ。


「ふーん、良いわね。あの子」


 アルミーナが呟いた。顎に手を当てて、うっとりと目を細めている。


「あのような立派な男だとは思わなかったな。うむ。見直した」


 ウィルミーがウンウンとしきりに頷いていた。


「あれなら私の事をしっかりと守ってくれそう……」


 シルリートもなんだか頬を赤らめて呟いていた。


 ……元々、アーロルド様と仲良しで、他のみんなは皇太子殿下に興味がなかったせいで、私がアーロルド様の婚約者第一候補だった。


 それが、私と皇妃様が大げんかをしてしまい「あんな娘とアーロルドは絶対に結婚はさせません!」と皇妃様が怒り狂ったこと、他の三聖女もアーロルド様に興味を持ち始めてしまったことで、皇太子妃の座を目指す争いは、一気に混迷を深めてしまうことになるのであった。

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