第二話 聖女と皇帝陛下

 四十日も掛けて到着した帝都は想像以上の大都会で、私は正直怖気付いていた。


 こんなとんでもない所で、私はこれから一人で暮らしていかなければならないのだ。


 親も兄も姉も弟も一緒に来てはいないし、同行してくれている町の神官様も私を帝宮に送り届けたら帰ってしまう予定だ。つまり私は一人ぼっちになる。


 本当にこんなところで一人でやっていけるのだろうか。コウタイシ様のお嫁さんになるというのだけど、農村でしか暮らした事に無い私に、こんな大都会に住んでる人の嫁が務まるのだろうか? 


 不安しかないのだけど、四十日以上掛けて帝都に来てしまったからには後には引けなかった。馬車はどこもかしこも人で一杯の帝都の路地を難儀しながら進んで、半日以上掛けて帝宮の門に辿り着いた。


 門にね。高い鉄柵で帝宮の範囲は区切られていて、そこに金色に輝く立派な門が聳え立っていた。そこを潜ると、急に辺りから喧噪が消えた。そこは広々とした草原のような空間に林が点在するような広大な空間だった。私は目を瞬いてしまう。なにこれ。


 ずっと後に知ったけどここは帝宮の前庭部分みたいなもので、そこに敷かれている小道を進むと、今度は整備された大庭園が現れる。花壇や刈り込まれた灌木の間に噴水や彫像などが点在していて、その中に立派なお屋敷が何軒も建っていた。


 しかし馬車は全てを無視して進む。日が傾き始めた頃に帝宮の敷地に入ったのだけど、それから辺りが夕日に染まる頃まで庭園の中を馬車は走ったのだ。妨害するものも無かったのだから、下手をすると帝都の街路よりも長い距離を馬車は走ったかもしれない。


 そして暮れなずむ空の下、一日の最後の夕日に染まる巨大なお屋敷を、私は見たのだ。


 宮殿である。正確には主宮殿というらしい。皇帝陛下がお住まいになると同時に、執務をなさる帝国の中心である。馬車から降りた私はひたすら唖然とした。車寄せの所に聳え立っている柱。今はオレンジ色に染まっているその柱は大理石で出来ていて、信じられないくらいの高さまで立ち上がって天井を支えている。私の身長の十倍はありそうな高さだ。太さも、私が五人はいないと周囲を手で巡らせられない位に太い。


 そんな柱がずらっと十本くらいある。床もつやつやと磨き上げられた白い大理石。そこに金で縁取りされた赤い絨毯が敷かれていて、それがずっと建物の奥まで伸びていた。


「どうぞ。お進みくださいませ」


 出迎えてくれた黒い服を着た女性が私と神官様を促した。こんな綺麗な絨毯に足跡を付けて良いものか? 私は怖じ気付いて神官様を見上げたのだけど、神官様のお顔も引き攣っていたわね。今考えてみれば町の神官様だって帝宮の主宮殿に上がるのなんて初めてだったのだろう。


 私と神官様は侍女の案内を受けて、宮殿の中をおっかなびっくり進んだ。入り口から入ったところはエントランスホールになっており、なんというか、本当に屋内なのかと疑ってしまうような広さがあった。何しろ、私の故郷の村の家が並んでいる区域はほとんどすっぽり入ってしまうほど広かったのだ。しかし、神々が舞い踊る天井画が描かれている、つまり天井があるのだから屋内で間違い無い。


 しかも夕方なのに明るい。見れば天井から驚くほど明るく光り輝く照明が幾つも幾つも下がっていた。この当時の私はシャンデリアという名前すら知らない。しかし無数の蝋燭の火で輝くそれを見て、蝋燭代を想像して恐れおののいたのだった。実家では蝋燭は貴重品で非常用だったからね。どうやら皇帝陛下はとんでもないお金持ちらしい。


 ホールから広い廊下をただただ進む。壁は白地に金で美しい文様が描かれていて、そこに様々な絵が飾られ、彫像が置かれ、陶器が鎮座している。床には赤い絨毯がずーっと続いていた。私はほへーっと、開いた口が塞がらない状態でグルグルと周囲を見回しながら歩いた。


 凄いとか、感心とか、そういう事以前に、何が何やら分からない。なんだこれ、なんだこれと唖然呆然としていたのだった。


 考えても見て欲しい。私は当時十四歳。帝国の北の辺境の農村で育った田舎少女だったのである。それまで行った事のある一番の大都会は領主様のお住まいの領都で、最も豪華だった場所はそこにあった領主様のお城だ。当地の領主様は子爵だったけど、お住まいだったのは今考えればごく素朴な飾りもあまりない石造りのお城だった。あれが私には信じられないほどの豪華なお城に思えていたのだ。


 それがいきなり、帝国の中心であり皇帝陛下の権威を示すために帝国の技術と芸術の粋を集めて建築された帝宮の主宮殿にやってきたのだ。理解が追い付かなくて当然である。正直に言って、ここが建物の中だという事も信じられなかったわね。子供の頃に暗い森の中に迷い込んでしまったのと同じような、恐ろしくて怖くて不安な気分に襲われたものだった。森とは違って真昼のように明るかったけど。


 そして廊下を延々と進んだ挙げ句、私と神官様はなんだかもの凄く広いお部屋に通されて、臙脂色のソファーに座らされた。この時の私にはそのフワフワしたソファーが何で出来ているのかも分からない。座っていてもお尻の感触がないものだから宙に浮いているのではないかと何度もお尻の下を見てしまったわね。


 ソファーの前には白くて大きなテーブルがあって、そこに白地に花の絵が描かれたカップとソーサ、そして小皿に小麦色の焼き菓子が乗せて並べられた。出してくれた侍女は「どうぞ」と言ったけど、私は神官様と顔を見合わせてしまう。いや、お茶とお菓子なのは分かったけども、こんなカップとお菓子は見たことが無い。でも、出された物に手を付けないのは失礼にあたるかも知れない。それに歩いたし緊張したしで喉も渇いている。


 私は意を決して両手を伸ばし、カップを手に取った。指先でちょんと触れたら驚くほど熱かった(私はこの時磁器に始めて触ったのだ。それまでは木のカップしか使った事がなかった)ので、繊細な形状で張り出している取っ手を慎重に持って、そーっと口に近付けた。


 私はカッと目を見開いてしまった。……なにこれ? お茶なのに甘い!


 私が知っているお茶は正確には薬草茶で、生水を飲んでお腹を壊さない為に薬草を煮出したものだった。すごく渋くて苦いのが当たり前だったのだ。


 しかしここで出されたのは本物の紅茶で、しかも砂糖が入っていた。私は砂糖なんてそれまで存在も知らなかったわよ。その不思議な味わいに、私は思わずぽわーんと顔が緩んでしまった。なにこれ、美味しい。


 そのまま私は手を伸ばして小皿のお菓子を手に取った。今考えればただのクッキーよね。でもそれまでお菓子と言えば木の実とかパンの焦げた部分に蜂蜜を付けたものくらいしか食べた事がなかった私には、それがなんだかも分からない。


 口に入れて硬直したわよ。あ、甘い! 蜂蜜より全然甘い! 美味しい! 何これ! 私は思わず、三枚あったクッキーを一気に全部口に入れてしまった。口の中が幸せな甘さで満たされる。す、凄い! この世にこんなに美味しいものがあるなんて!


 嚥下して思わず落胆したくらいだった。ああ、何という事をしてしまったのか……。もっと大事に食べるべきだった。何なら一枚だけ食べて、後は後日に残しておきたかった。もっと、もっと食べたい!


 と思ったら侍女がおかわりを出してくれた。私は目が点になる。え? 良いの? とその侍女さんの顔を見上げてしまったのだけど、侍女はニコニコと笑ってどうぞと促してくれた。私の顔が輝いたのは言うまでも無い。私は夢中で手を伸ばしてクッキーをバリバリとむさぼり食ったわよ。


 クッキーを多分二十枚くらい食べて、紅茶を三杯もおかわりした私はようやく満足した。し、幸せ! 凄い! 帝都凄い! なんて思いながら私はフカフカソファーの上でうとうとし始めていた。口の周りにはクッキーの食べかすが沢山付いていたと思うのよね。顔はだらしなく緩んでいたことでしょう。


 そのタイミングで入り口から入ってきた侍従が言ったのだった。


「おいでになりました」


 その瞬間、侍女達はビシッと直立不動になり、神官様は慌ててソファーから立ち上がった。私も促されたけど私はもう半分寝てたからね。神官様が両手で私の脇から手を入れて、引っ張って無理矢理立たせてくれた。何とか立ったけど、立ったままうつらうつらしてしまった。疲れていたし、クッキーで満腹になってしまったんだから無理もないけどね。


 なので神官様も部屋にいた侍女や侍従が一斉に頭を下げた時も、私は頭をフラフラさせながら半分以上寝ていたわね。


「そちらが聖女様か?」


「は、はい。左様でございます!」


「ふむ、そうか」


 なんて会話が夢うつつで聞こえたわね。そうしたら私の前に大きな人影が立った。そうしたら神官様が私を前に出すふりをして私の背中をつねった。痛い! それで一瞬、少し目が覚めたのだった。


 私の前に立っていた人は小柄な私よりも頭三つ分くらいは大きい男の人だった。茶色い顎髭がまず見えたわね。綺麗に撫で付けられている髪も茶色。年齢は父さんと同じくらいかな? 灰色の瞳を私にジッと向けていた。青地に紋章が幾つも描かれたマント。その下に紺色のコート、白いシャツ、臙脂色のタイ。様々な宝石と金の鎖。夢うつつだった私にはその豪華な格好の人が神様からのお使いか何かに思えたわね。


 その男性がすっと跪いた。周囲から驚きの声が上がったわね。その人が跪くなんてことは普通はあり得ないから。その方が跪くのは神々に対してのみ。


 つまりその方は私を神々の一柱として扱って下さったのだ。


「初めて御意を得ます。聖女様。私は皇帝ヴェルマーカスと申します」


 なんと皇帝陛下その人だったのよ。皇帝陛下といえばあなた、この帝国、世界で最も大きな国の一番偉いお方で、神々に最も近い人間と言われているお方ですよ。そんな凄い方が私に跪いたのだ! とんでもない事だ!


 ……なんだけど、半分以上寝ていた私は、その人が誰なのかも何なのかも何が起こっているのかも認識してはいなかった。


 私はこっくりと頷くと、その方に言った。


「初めまして。リレーナ、です……」


 私はそう言い残してぱったり倒れた。らしい。皇帝陛下が慌てて支えて下さったそうだ。


 私は皇帝陛下のフカフカなマントに顔を埋めながら、スーッと眠りに落ちていった。


  ◇◇◇


 という何とも締まらない皇帝陛下との初対面だったのだけど、皇帝陛下はお優しくて寛容な方だったから怒るような事はなかった。私はそのままお部屋に運ばれて着替えさせられ、ベッドに寝かされた。お部屋は最上級の客室で暖房も効いていて、ベッドは雲のようにフワフワ。


 私は眠りこけて昼くらいまで目を覚まさなかった。まぁ、長旅と緊張で凄く疲れていたのよ。起きたら見知らぬお部屋でパニックになったけどね。


 私には侍女が付けられていて、特に専属侍女になってくれたのがケライネだった。この時十五歳で私より一つ年上。伯爵家の四女で成人と同時に帝宮の侍女になったのだそうだ。白に近い金髪と紺色の瞳の可愛い娘で、黒髪と水色の瞳の私とは見た目が対照的だとよく言われる事になる。ケライネの方がずっと背は高い。


「落ち着いて下さいませ。聖女様」


「でも、でも!」


「ここは帝宮です。聖女様? 大丈夫です。誰も貴女を傷付けたりしませんよ」


 ケライネは大混乱していた私を諭して落ち着けてくれたわ。私も自分がどうしてこんな所にいるのかをようやく思い出した。ただ、ずっと一緒にいた神官様はいなくなっていたし、知っている人なんてこの帝都には誰もいないのだもの。不安で落ち着かなくて私は涙ぐんでしまった。


 ケライネは仕方なさそうに私を抱き留めて慰めてくれたのだった。この時ケライネがもっと事務的な貴族っぽい嫌な娘だったら、私は孤独のあまり病気にでもなったかもしれないわ。ケライネが優しい娘で本当に良かった。幸運だった。


 私はお風呂に入って着替えて、そしてお部屋から連れ出された。不安な私はケライネの手をずっと握っていた。


「聖女様。心配しないでも大丈夫ですよ」


「うん……」


 それでも私はケライネの手が離せず、ケライネも苦笑して私の手を握っていてくれた。ケライネは後々「あーあ、あの時のリレーナ様は可愛かったのになー」と私の事を何度も揶揄ったものだ。本当は上位の存在である聖女の手を引いて歩くなんて侍女にとっては僭越な行いで、彼女は後で侍女長にちょっと怒られたらしいんだけどね。彼女はその事を私には言わなかった。


 日差しが差し込む廊下を進んで、大きな白い扉を潜ると、そこは細長いキラキラと眩しいようなお部屋だった。目がチカチカした。非常に装飾が多くて鏡が何枚の壁に掛けられ、彫像や花や陶器で飾り立てられている。部屋の中央には細長いテーブルがあり、テーブルは白い布で覆われていた。テーブルにも沢山の花がいけられている。


 左右には彫刻と金で飾られた椅子がずらっと並んでいたわね。そしてその一番奥の席に誰かが座っていた。


 ケライネに手を引かれて近付くと、そこに座っていた男の子、クルクルフワフワした金髪で済んだ青い瞳をした男の子が椅子から飛び降りた。そして私の事をちらっと見るともじもじと目を伏せた。


「殿下」


 彼の後ろから年嵩の侍従が声を掛ける。男の子はビクッと肩をふるわせ、そして顔を伏せたまま小さな声でこう言った。


「……初めまして聖女様。父上から、あ、皇帝陛下からお相手をするように命じられました、アーロルドです。よろしく……」


 これが、私と皇太子殿下、アーロルド様の出会いだった。

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