第8話 追加目標、引き抜き。

 紺色の少女は泣いていた。


「アーシュ様!」

「おおっと! 妙な真似はしないことザんす! あんたの大事な大事なご主人様がどうなってもいいなら、話は別ザんすけど」

「くっ、あんた、最低よ!」

「負け犬の遠吠えは気持ちがいいザんす」


 駆け寄ろうとしたスティアーナが、悔しそうに表情をゆがめる。


「さあユエ! やるザんす!」

「でも」

「どうしたザんす! お前、今朝から調子がおかしいザんす! まさか昨晩、ターゲットにほだされたザんすか!」

「……ッ!」


 切れ長の瞳の少女はフルフルと首を振った。


「図星ザんすか?」


 静寂が室内に満ちたのは、一瞬だった。


「ヨーホホホ! これは傑作ザんす! 『学校』の卒業生のあんたを理解してくれる人間が現れるとでも、本気で思ったザんすか?」


 とんだお笑い種だと、伯爵は強く主張した。


「ああ、もういいザんす。高い買い物だったザんすけど、壊れてしまった以上、もういらないザんす」


 今度は、興味を失ったかのように伯爵が言う。


「え?」

「言った通りの意味ザんす。そんな不良品、手元に置いていても邪魔なだけザんす。あとは勝手にするザんす」


 きな臭い。


「どういう風の吹き回しだ、ボナステージ伯爵」

「どうもこうも、これで我輩優しい性格ザんしてね? その子の意志を尊重してあげようと思っただけザんす。ヨホッ、ヨホホホホッ」


 嘘だ。

 こいつがそんな甘い性格なはずがない。


「ああ、そうそう。優しさついでに、一つ教えて差し上げるザんす。人殺しって言うのはねぇ! 世間一般じゃ死罪に相当する極悪非道な所業なんザんすヨォ!」

「お前……ッ!」


 慌ててユエの耳を塞いだが、声量が大きすぎる。


「嘘」


 振動が伝播して、少女の鼓膜を揺らしていた。

 耳を塞いでいても、声が届いてしまったらしい。


「だって、学校は、これがみんなで幸せに暮らすためわたしにできる正義だって……」

「まだ気づかないザんすか? 学校はあなたのような無知なガキを都合のいい駒に育てる機関なのザんすよ!」

「嘘だ、嘘だ嘘だ。だったら……わたしは、わたしたちは、なんのために」


 糸が切れた操り人形のように、紺色の少女はその場に膝をついた。


「価値なんてないザんすよお前たちゴミには最初から! ヨーホホホホホ!」


 人の心が砕ける音を聞いた気がした。


 これで、差し迫っていた死亡エンドは回避できたはずだ。

 しばらくの後、伯爵家が再び圧力をかけてきたとしても、それまでの間に体制を整えられるはず。

 当初の目的は、達成した。


 ……だから。


 ここからは、追加目標だ。


「それは違うぞ」

「あん? なんザんす。男爵風情が、我輩の意見に口ごたえするザんすか?」

「そうだ。正面切って、断言してやる。お前は間違っている」


 暗部組織『学校』の卒業生だ?

 生存率1パーセントにも満たない生存競争を勝ち抜いた、超エリートじゃないか。

 そんな人材が目の前にいるのに、精神が壊れていく様をただ傍観しているだけだと?


 冗談じゃない。


「殺しなんてしなくたっていい」


 優秀な人材をくすぶらせたままで放っておけるほどの余裕、うちの領地には無い。


「心を殺して、自分を殺して、それを生存戦略だなんて強がらなくたっていい」


 俺に目を付けられたのが運の付きだ。


「ここにいるぞ、ありのままのお前を必要としている人間が!」


 逃げたいって言ったって、逃がしてやらねえよ。


「俺が最高に価値を見出してるお前が! お前自身を否定すんじゃねえ!」


 ……少女の瞳に、生気が吹き返したのが、わかった。


「でも」


 辛うじて踏みとどまる一助となれたのはきっと、言葉にするなら未練だ。


「わたしは、これ以外の生き方を、知らない。仕えるべき主君がいなきゃ、生きていけない」


 きっと、彼女はまだ、信じたいのだ。

 生きるということは、つらいことばかりじゃないと。

 しがみついた生の中には、生きていてよかったと思える未来があるはずなんだと。


「だったら」


 俺が差し出せる言葉は、一つだ。


「主人なんて乗り換えてしまえ。俺に、仕えろ」


 少女の目が、見開かれる。




「あああああ! とんだ茶番ザんす!」


 癇癪を起したのは伯爵だ。


「気に食わない、気に食わないザんす! この屋敷に来てから、思うようにいかないことばかりザんす! どうして精神崩壊しないザんす、どうして立ち直るザんす! こんなの、おかしいザんす!」

「伯爵」


 度し難いな、お前は。

 これが、腐敗した帝政がもたらした、人の姿をした化け物の姿か。


「あわれだな」

「男爵風情が……調子に乗るなッ!」


 ずしんずしんと足音を立てながら、伯爵が拳を振りかぶり、突進してくる。

 だが、無意味だ。


「アーシュ様に手出しさせるものですか」


 スティアーナの魔法が、伯爵の足元を凍り付ける。


「魔法⁉ このメイド――まさかエルフ……」

「動かないでください」


 ぴたりと、伯爵の首筋に、刀身の短い刀が添えられている。


「わたしは、わたしを大事にしてくれる、いまの主様を大事にしたい。大事にしたい気持ちを、大事にしたい」

「ま、待つザんすユエ! 給金を十倍にするザんす!」

「だから、申し訳ございません」

「二、二十倍! いや、三十倍!」

「わたしが、主様に忠誠を示すためです」

「わかった五十倍支払うザんす! だから、だからァ!」

「――悪く、思わないでください」


 ユエが刃を振り上げた。


「アアァァァァアァァァァ!」


 伯爵が白目をむいて、悲鳴を上げた。


「ア……アァ……」

「馬鹿ですね。殺しなんてしなくていい、そうおっしゃってくださった主様の意向を、無下にするはずないじゃないですか」


 コン、と刀の峰で、伯爵の首を軽く叩く。

 すでに気絶していた伯爵は、何の抵抗もなく凍り付いたその場に崩れ落ちたのだった。

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