父と私のお天気雨

ハマハマ

 『ほら、見てご覧。狐の嫁入りだよ』

 ずいぶん前、お天気雨を指差してそう言って笑ったのは父だった。



    『できるだけ、早く帰ります』


 私が十の頃、そうメモを残したのに帰って来なかったのは母だった。



 母に捨てられた父は、それに対して特に文句を言うでもなく、残された私を抱えて男手ひとつで育ててくれた。

 不器用な人だけれど、父一人娘一人のこの小さな家族を頑張って守ってくれていた様に思う。


 私は母がいない事で寂しい思いをすることも、後ろ指差されることも多々あった。

 それでも父は父なりに、少しでも寂しくない様に、不自由させない様にと、仕事を変えるなどしてなにくれと心を砕いてくれた。


 そんな風に父に守られ育った私も、なんとか貰ってくれる人に出逢い円満に家を出た。

 ささやかながら上げた結婚式。

 父は涙ながらに『よろしく頼むよ』なんて旦那の手を取り伝えてくれた。父には感謝しかない。


 父の涙を見た私の旦那も、父と私を気遣い『お義父とうさんの近くに住もう』と言ってくれた。

 二人の子供も小さい頃は父によく懐いてくれ、共働きの私たちの代わりによく面倒を見てもらった。

 結局、近くに住むことで得をしたのは私の新しい家族だった様にも思える。



 けれどそんな父も、病に冒され余命幾許いくばくもないのだとか――



「今日はずいぶん元気そうね、お父さん」

「やぁ、今日も来てくれたのか。そう言うオマエも元気そうなだね」


 病に蝕まれた父はもう、あまり目が見えない。

 だからか私の声で色々と察知するらしい。


「そうでもないのよ。もう更年期始まっててもおかしくない歳だし、若い頃より疲れやすくなったもの」

「そうは言っても同級生より若く見られるだろう?」


「お父さんに似てわりと童顔だからね、私」


 学生の頃に水泳をしていたせいか姿勢が良いのもあるかも知れない。

 姿勢が悪いと老けて見られるような気がするから。


「窓、開けてくれないかい?」

「でも、雨よ?」


「薄くで良いんだ。音が聞こえるくらいで構わない」


 父は昔から雨の日が好きだった。

 対して私はそうでもない。自分の結婚式の日にも雨に降られてあまり良いイメージがないのだ。


 昔から父はいつでも、雨だと気付くと嬉しそうに外へ出て空を見上げる。

 けれどわりとすぐに、特に喜んだ様子もなく戻ってくる事の方が多かった。


 今思えば父は雨が好きなんじゃなく、もしかしたら虹が好きだったのかも知れない。


「窓、これくらいで良い?」

「ああ、充分だ。今日の雨は優しい雨だね」


「そうね。雲もずいぶん薄そうだわ」


 私のその声に、少し父の表情に期待がぎったのがなんとなく分かったから釘を刺す。


「お天気雨ってほどでもないけどね」

「…………」


 雨の中でも、特に虹が出やすいお天気雨を最も好む父が押し黙る。

 それがなんとなく可哀想になって、つい私は言ってしまう。


「でも止む少し前に日が差すかも知れないわね」

「そうだろう? 俺もそんな気がしてるんだ」



 さらさらと降る小さな雨音を聴きながら、二人それぞれゆったりした時間を過ごす。


 うとうとと時折り微睡まどろむ父は、思い出した様に窓に視線を遣る。光は充分に感じられるらしいが、窓の外の日の光まで分かるのだろうか。

 たらたらと特に慌てるでもない私は、父の着替えなんかを整理する。父とのこんな時間もいつ終わるとも知れないのだ。出来るだけ一緒の時間を過ごしたい。


 ふと、ベッド脇の引き出しに小さく折り畳まれた紙が仕舞ってあることに気が付いた。

 なんとなく見覚えのある、やけにぺらぺらな紙。


 かさりかさりと開いてみると、その音に気付いたらしい父が『あ――』と口を丸くして小さく呟いた。


「お父さん……って、言ってなかった?」

「確かに言った」


「なんでまだここにあるの?」

「いやぁ、まぁ、出してないから、なんだけど」


 母が書き置いたメモと一緒に残された離婚届。

 父、母ともに記入済み。


 『待ちくたびれたら出して下さいね』


 確か、そう添えられていた筈だ。


「お父さん……まだ、待ってるの? お母さんのこと――」

早く帰るってことだからなぁ。手間取ってるんだろ、きっと」


 私だってもう五十に手が届く。

 ということは、かれこれ四十年も、父は母を待っていたらしい。


「信じられない」

「嘘ついたのは悪かったよ。ごめん、勘弁――」


「ううん、それはもう言ってもしょうがないし怒ってないよ。二人の問題だし」


 信じられないのは、四十年もの間、ただ一人で私を育てながら暮らしてきたことだ。


「お母さんが帰ってくると思ってるの?」

「思ってるぞ。俺が死ぬ方が早いかも知れないけど」


「信じてたんだ」

「信じてたってのは、ちょっと違うか。ほら、お前は覚えてるかな? お母さん、ちょっと変わってただろう?」


 ちょっとどころじゃなく確かに変わった人だった。

 幼い頃から山奥で暮らしていたとかで、人や街の営みからははっきりとズレていた。

 良く言えば素直で純朴。

 悪く言えば非常識な変人。


 いつでもノーメイクだったのはともかく、傘も差さずに雨の中を歩いたり、裸足で猫を追い掛けるなんてこともあった。

 それでもふんわり微笑む綺麗な人だったから、一緒に外を歩くの好きだったな。


 だから余計に、出て行ったと知った時にはしんどかったし信じたくなかった。


「でも四十年だよ? 生きてるかどうかも分かんないんでしょ?」

「あ、ホントだな。そうか、母さん先に死んでるかも知れないか。それは寂しいなぁ」


 母ははっきりおかしな人だったが、父は父で充分変わり者だ。


「それさ、帰りにでも出してきてくれないか?」

「それって、これ?」


 薄いぺらぺらなあの紙を、かさりかさりと振って言う。


「相続とかややこしくなりそうだ。小さくても家も土地もあるからな」


 ……あぁ、そうか。そうだ。

 幼い頃は父と母と三人で、結婚するまでは父と二人で暮らしたあの家。

 あれも主人を失い私のモノになっちゃうのか。


 あぁ、なんか、嫌だなぁ。


「ねぇ、お父さん」

「なんだい」


「これ、出さなくても良い?」

「そりゃ今さら出さなくても俺は良いが、面倒なことにならないか?」


「なってから考えるよ」

「ん? そうか? なら、まぁ任すよ」


 なんとなく、この紙切れ一枚が私たち三人を繋いでくれてる気がしちゃったから、さ。

 出したらもう、ホントに終わっちゃう気がしてさ。


「お? 雨どうだ? 明るい気がするけどまだ降ってるか?」


 言われて窓の外を見遣る。

 確かに外が明るくなったみたいでよく見えない。近寄ってガラスに映した自分の姿越しに向こうを見ると、弱くはなったがさらさらとまだ降っていた。父待望のお天気雨だ。


 まだ降ってるよ、と次に口から放つ言葉を溜めつつ振り向くと、ベッドの向こうに女がひとり立っていた。


 言葉の代わりに心臓が飛び出るかと思うくらいにはびっくりした。

 けれど、女は私に向けて左掌を開いて見せて小さく「そのまま」と呟いた。


 明らかに不審者なのだけれど、この女、間違いなく母なのだ。

 父と同い年の筈だが、私とそう変わらない様に見えはする。けれど間違いなく、母なのだ。


「その声――もしかして」


 見えない目で声の主を探る父も母だと気付いたのかも知れない。


 けれど母は何も言わずにポーチから小さなジップロックを取り出した。その中身を掌に出して、自分の口へと放り込む。

 次いでベッド脇の水差しも口に突っ込み水を含むや否や――


 父に、口付けた。


 目を白黒させているだろう父は無抵抗で、母から口移しで渡された何かを嚥下した。



 唐突すぎて、何が何だか分からない。

 何から口にすべきかすら分からない。


 そんな私の葛藤など、なんだそんな事と言わんばかりに母が屈託なく言ってのけた。

「ただいま、二人とも。遅くなってごめんね」


「おかえり。ところで俺に何を飲ませたんだい?」

 父の器も大概たいがい大きいらしい。


「お薬よ。明日か明後日には退院できると思うわ」


 ちっとも分からない。


「……とりあえず。私にも分かるように説明してくれない?」



 聞けば母の家出は、家出じゃなかったのだ。


 父も知らなかったらしいけれど、母の出自は普通の人とは異なるらしい。

 そして不思議な力で父がいつかある病を得ることを察知した母は全てを放り投げ、薬を作りにらしい。


「思ってたよりちょっと手間取っただけ」


 特に悪びれることなく母はそう言った。


「今日は天気雨になりそうだったからさ、もしかしたら帰ってくる気がしたんだ」

「そんなこと言って天気雨の度に思ってたんじゃない貴方?」


 驚くことに早くも視力を取り戻し始めた父と、ベッドに腰掛ける母がほんのりイチャイチャしながらそんな事を……


「ねぇ、ちょっと待って」

「なんだい?」


「色々聞きたいとこだけど、お天気雨だとお母さんが帰ってくるってどういうことなの?」


 確かにそれならば、父が雨好き――さらにお天気雨好きなのも納得なのではあるのだけど。


「あぁ。お母さんと出逢った時もさ、お父さんたちが結婚した時もさ、お天気雨だったんだよ」


 ちょ、ちょっと待ってくれない?


 『ほら、見てご覧。狐の嫁入りだよ』


 お天気雨のことをそう呼んで指差した父と、不思議な力を持つ普通の人とは出自の異なる母。


「あのさ……」

「なんだい?」


「私の結婚式の時も雨で……お天気雨だったんだけど……」


 もしかして私も、不思議な出自になっちゃう――のか?


 特に何にも忖度せずに、悪びれずに、母は言った。


「アタシの娘だからね。はははっ、当然あんたの結婚式だって狐の嫁入りさ」


 そっか。そう、だよね。

 でも今のところ私には不思議な力みたいなのはない様だし、ま、どっちでも良いか。


「じゃお父さんとアタシとあんたでさ、昔みたいにまた三人で楽しく暮らそっか」

「何言ってるの。私にも家族あるんだから」


 四十年も放ったらかしにしたくせに、そう言った私の言葉に寂しそうな顔を母が見せた。

 でも、なんでかな。

 憎めないんだよなぁ、この人。


「でも近くに住んでるから、またウチの家族も連れて顔出すよ」


 窓ガラスに映った私越し、雨はもうすっかり止んだらしい。


「明日また来るけど、今日は帰るよ。お母さん、あとよろしくね」


 二人の邪魔もしたくないしね。

 久しぶりの二人っきり、楽しんで欲しいじゃない。


 雨降りあとの清々しい空気の中、駅まで歩く私は気付く。


 傘……病院に忘れちゃった。

 ま、良っか。雨、止んだし。

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父と私のお天気雨 ハマハマ @hamahamanji

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