休まずに啼く

紫鳥コウ

休まずに啼く

 明日は寺の総出だというのに、靖子は眠れずにいた。不眠症というわけではない。二時間に一度くらいのペースで、起きざるを得なくなるのだ。


 西川家は十五年前に一匹の小型犬を家族に迎え入れた。そして、すくすくと成長し、どんどん衰えていった。

 自分の力では立ち上がることができない日が、だんだんと増えてきた。先日の夜は、まったく起きあがれなくなり、病院に連れて行くことになった。注射を打ってもらったおかげで、翌日には歩くことが叶った。


 しかしほとんど失明しており、鼻にまで餌を持っていかないと食事ができない。

 家族ですら敵だと勘違いして、少し触れると歯を見せて威嚇してくる。病院に連れて行く準備をするだけで、二時間くらいかかってしまった。


 靖子の夫の賢三は単身赴任中で、遠くで暮らしており、滅多に帰ってくることはない。彼の父は十年前に亡くなった。母の梅子といえば、軽度の認知症で、日常の出来事を覚えることが艱難かんなんになっていた。

 梅子は三週間前に、愛犬のウタに手の甲を噛まれてからは、もう触れることもなくなってしまった。うみができるほどの深い傷だったがゆえに、トラウマを抱えてしまったというのは分かるが、そのおかげで、靖子はウタの世話を一身に引き受けることになった。

 靖子の子の有紀は遠いところで、卒論の執筆に就活にと、忙しい時期だったため、実家に帰ることはもうなくなっていた。


 恨むべき家族は、だれもいない。

 梅子のあの傷が彼女を萎縮させたのは間違いない。それに家事を少なからず分け合ってくれている。賢三は金銭的な面でこの家族を支えている。彼の収入がなければ生活は成り立たない。

 それでは、有紀は? 彼女はいま、今後の人生を決める重要な時期にきている。


(わたしが、しっかりしないといけないのは、分かっているのだけれど……)


 靖子はトイレに駆け込んだ。急に吐き気が襲ってきたのだ。

 胃液しかでない。病院でてもらったわけではないが、精神的なものが原因であるというのは疑わずともよい。となると、これからも幾度となく、この嘔吐に悩み続けることになるだろう。

 そしてまた、階下でウタがきはじめた。


     *     *     *


 眠れたか眠れなかったかよく分からない身体のなかで、寺の総出を終えて帰ってきた。一休みしたい気分だったが、ウタに手渡しで餌をやらなければならない。

 ほんとうならこの仕事は、梅子がするべきことだ。だが、右手をざっくりと噛まれてからは、ウタの口周りを触れることへ恐怖を覚えてしまっていた。


 そうこうしているうちに、昼ごはんの支度をしなければならない時間になった。そのとき、ひょっこり台所に現れた梅子は、出し抜けに、ウタの世話のことに口を挟んできた。


「昨日の夜、吠えとったなあ」「眠れなかったでしょう?」「もう慣れたからのお」「そうですか……わたしは寝られませんでしたけどね」「どやろ、ちょいと寝るところを工夫してあげたら」「えっ?」


 梅子の説によれば、寝るところを真っ平らにしてあげた方がいいとのことだ。ちょっとでも段差があると、立ち上がるのに難儀すると。

 しかしその策は、一度試して失敗していた。なによりそれを提案したのは、梅子であった。もうそのことも忘れてしまったのだろうか。


「前もやってみましたけど、うまくいきませんでしたし……」「そんなことねえて、一度やってみい」「いえ、ですから、うまくいかなかったんですよ」「いいや、一度やってみいや」


 こういう問答をしているうちに、靖子にはある破壊欲が芽生えてきた。この場で椅子を振り回してみたいという破壊欲……もう彼女の疲労は、限界に近づいていた。


     *     *     *


 それなのに夜になると、有紀から電話がかかってきた。何事もうまくいかない、もう家に帰りたい……というのだ。

 家に帰ってきたければ、来るがいい。少しでも家事を引き受けてくれるのならば。それに、何事もうまくいかないのは、こちらの方だ。下宿で泣き続ければいい。この家の惨憺さんたんたる有様を見ないですむのだから。


 と、こころのうちで、我が子への呪詛じゅそを唱えながらも、口では優しい言葉をかけている。本音を抑圧し、建前を押し出さなければならないこの時間が、どれほど苦痛なことか。


 こうして泣き言を聞いているいま、階下からウタの吠え立てる声が聞こえてきた。

 電話を切りたいのに、「また後で」という言葉が、かんたんに出てこない。



 〈了〉

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