おはよう、今日もお疲れ様

紫鳥コウ

おはよう、今日もお疲れ様

 投稿する前の最後の推敲で、一人称を混同していることに気付いた。冷や汗が吹き出る思いだった。

 主人公の一人称を「わたし」で統一していたのに、直前まで書いていた連載作で使用していた「ぼく」という人称に間違えていたところがあったのだ。念のため、ほかの箇所も「わたし」になっているかどうかを確認した。


 スケジュールが厳しくなってきている。三本の連載作のストックが減ってきた。しかしM市で開催される同人誌即売会に向けての準備や、私生活のあれこれで、執筆の時間はどんどん限られている。

 さらに六月は、「毎日一作、掌篇小説を投稿する」という目標を課していることもあり、まとまった休みがあっても、連載にばかり集中できない。


 今日の深夜は、あるネタ番組が放送される。それまでには、ノルマは終えておきたい。

 連載作のひとつに、高校生の主人公がピン芸人の日本一を決める大会に出場するまでの軌跡を描いたものがあるため、ネタ番組は必ず観るようにしている。この主人公の一人称が「ぼく」なのだ。


 M市での同人誌即売会が終わると、次は九月のO市で開催される同名のイベントに参加することになっている。

 西のお笑いの聖地ともいえるO――そこへ持っていく新刊は、無謀にも、「青春漫才小説」ともいえる長篇小説にすることに決めている。

 もっと正確に言うならば、この小説は既に投稿サイトに掲載しており、わたしが最初に書いた長篇小説であり、本にするにあたり加筆修正しアフターエピソードを添えるのみなので、「再録本」に分類してもいいだろう。


「それにしても……」


 手を加えるべきところが、あまりにも多すぎる。誤字脱字、文章や表現の訂正だけならまだいい。いくつかのエピソードは削除しなければならないし、反対に書き足さなければならない。

 もう「〈半〉再録本」と言いたいくらいである。


 しかもややこしいのが、いま連載しているのが、この「青春漫才小説」の続篇だということだ。「栗林芽依」というヒロインのことを、いまは「芽依」と書かなければならないのに、本にする作業の影響で「栗林さん」とタイプしてしまうのだ。

 これが逆になれば、「わたし」を「ぼく」にしてしまうより致命的なミスになる。なぜ主人公がヒロインを下の名前で呼んでいるのだ――と。お金をいただくものなのだ。こういう間違いをゼロにしなければならない。


「最低でも三十回は頭から最後まで推敲した方がいいな……」


 しかし、一番に力を入れなければならないのは、文学賞に応募する作品である。

 スケジュール帳を開けば、月末に五つの締切りを抱えている。そのなかには、原稿用紙百枚のものもある。

 原稿用紙百枚に記す物語は決めている。ここ数年で悩まされた家庭内で起こった悲劇を、わたしとは性格の違う〈破滅的な〉志向を持つ主人公の経験として読み替える。


 どす黒い泥濘ぬかるみを踏むような、それでも、家族というものの尊さを伝えられるような、そんな一篇にするつもりだ。

 わたしが経験したことは、わたしにしか書くことができない。そしてそれを書くことで、こころを揺すぶられる方がいるかもしれない。


 本格的に着手するのはMでのイベントの後のため、良質なものに仕上げるには、時間が足りないかもしれない。頭から終わりまでの道筋をまとめているだけだと、心細い。

 できるなら、同人誌即売会の四日前からスタートしておきたい。というより、もっと早く手をつけるべきだったのだ。

 三本の連載をこなしながら、毎日、掌篇小説を投稿し、新刊まで作るというなかで、応募作を仕上げるというのは、ムリなのだろうか。


(イヤ、やらねばならない)


 プロの作家になりたい。そういう気持ちを抱いている素人の物書きが、中途半端に創作に取り組んでいては、いけないじゃないか。公言するだけなら、だれにでもできる。それを実現するには、並々ならぬ努力が必要になる。当たり前じゃないか。

 これくらい「最低限」するべきことなのだ。


 がむしゃらに努力をするのは愚かだという言説があるけれど、どのような努力が適切なのかなんて、成功したあとに遡行的そこうてきに発見されるものだ。

 だから、そういう言説を広めているのは「成功者」ばかりなのだ。血を流すほどの努力を、バカにするな。


 今日も一日、執筆と推敲に費やしたわけだが――独り身であるがゆえに、だれかに褒められるわけでもなく、励まされることもなく、寝て起きて、また創作に打ち込むだけだ。

 時刻はもう、明け方である。ほんとうなら、こういう挨拶をする時間だ。

「おはよう」――と。

 しかしいまのわたしは、「おやすみ」というに相応ふさわしい。


 だれもいない部屋で「おやすみなさい」とつぶやいてみる。静かなアパートの一室で、虚しく響く……ことはなかった。

 それは間違いなく、疲労からくる幻聴だろう。こういう言葉が聞こえてきたのだ。

「今日もお疲れ様やなあ」

 それは、テレビの横に立ててある、亡き祖父の写真から届けられたのだろうか。どこか、いつもより、優しい笑みをしているようにも見える。



 〈了〉

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