オンラインのチェスというのは、地下闘技場に似ていると思う。僕が普段通っているアプリが、どうがんばってもそういう雰囲気になってしまう。まあ、僕がそう感じているだけかもしれないのだが。


 僕の腕前は中堅クラスで、まあそこそこ、といった所だ。さして強くもなく、かといって弱すぎもしない。中途半端なレヴェルだ。


 僕はいつも、『グッドゲーム』と言うタイミングを逃してしまう所がある。何があっても挨拶としてそう言うと決めてしまうのは楽なのだが、どうしても、自分が負けて悔しかったり、勝って優越感を覚えている時だけ言えたりしてしまうのが、僕は気持ちが悪いのだ。


 要するに、どっちが気持ちが良くなっているのかどうかと言うことだ。とても生物的な、とてつもなく純粋な快楽を巡る取引の話だ。


 チェスというのは、基本的に屈辱感とセットのものだと僕は思っている。将棋などとは違って、奪われた仲間は二度と復活したりはしないし、奪った敵将を自軍の兵士として使役するということも許されていない。要するに、死んだらそれまで、ゲームオーバーな時点で最後まで闘うか、抗うか、それとも最後の手段として降参するか……選ばされるという点でチェスというものは単純であり、そして残酷極まりない競技だと思う。


 僕はチェスにおいて、重要な役職の駒が奪われた時、(この表現は厳密には正しくはない。より厳密に言うなら、ただ首を刎ねられたと言うべきだろう)血の気の引くような脱力感を覚える。それは、失われてしまった命はもう二度と戻らない。挽回の機会も、救済の目処も決して立たない。その絶望感に浸されながら、残された戦力だけで残る戦いを抗う術を必死で模索するのだ。そして、そういう人間を相手にする者はというと、基本的には余裕綽々で、相手をどれ程追い詰めれば降参まで促せるかどうかという所へと意識の視線がシフトしていく。降参しないならば、お前の残りの手駒を全て奪ってしまうぞ、という訳だ。


 大抵の場合、相手のこういう浅ましい思惑は成功に終わる。チェスとはそれほど、取り返しの付きづらい競技なのだ。少なくとも、この競技を始めて一年と半年が経つ僕はそう思っている。


 さっき負けたことで、僕のレートは1924から1917へと落ちた。だからどうってことはないが、負けたという事実だけは自分の心の一番上から重しのようにのしかかってくる。僕はその感覚が嫌だから、チェスを続けている。この、相手が誰だか分からない、ただ、相手が誰であるかということを感じ取ることのできるオンラインチェスを。


 僕はいつまでこの苦行、いや、穿った見方をすればマゾヒズムに違いない快楽の泉に浸かり続けるのだろうか。


 教室はしんとしている。授業が終わったのだ。誰かがノートのページを捲る音が聞こえてくる。僕は目の前に座っている生徒のセーラー服の背中を見て、時計を見て、無感動な自分を自覚し、はっと驚いている。


 干からびるなら、どのタイミングが良い? 諦めた時か、全ての駒が世界から取り去られた時か。


 僕はどちらでも良い。僕は……。僕は。


 僕は闘っていたいんだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

チェス 幽々 @pallahaxi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ