チェス

幽々




 E4、E5。オーソドックスな展開。いつも通りの、まるで握手を交わすときのような、剣の切先同士を軽く触れ合わせる時のような、刹那の緊張の感覚。


 親指同士が触れ合い、生き物のように次の展開は繰り出されていく。僕はG6を選択し、ビショップを奥底から利かせられる展開を狙う。それを見て敵(相手)は同じようにG3を開き、ビショップの展開先を作る。僕はその展開の仕方を見て、背中の辺りに少しばかり冷や汗を感じながら、次の手を繰り出す。


 オープニングは単調なものだ。このレヴェルになってくると、お互い相手がどういう手を最初に指し、どう展開しようとしてくるのかという思惑を見通した上で展開を始める。ありふれた展開だ。いつも何処かで、誰かが日課の草むしりをするみたいに、この展開は繰り返される。だが、僕はそういう鏡合わせのようなやり取りが嫌いではない。相手も分かっている。勝敗が見えない、序盤であれば、ゲームそのものを味わうことが出来る高揚感を純粋に味わうことが出来るという盤面の快楽を。


 中盤に差し掛かる前にーー僕の親指は右手に置かれ、視線は密かに上のあたりに前後する。教卓の前に立った痩せた大人が、見下ろす視線で僕の辺りを見回しているのが感じられる。時間は五分。そう余裕はない。教員が僕の方を見た時、僕はスマホを机の中へと音を立てずに置いた。


 教員は、僕が測っていた通りのタイミングで僕の方へと視線を据え、鈍い色の唇を開いた。


「おい、ーー。これ解いてみろ」


「分かりました」


 僕は間髪入れずに答え、スマホを机の中に残したまま立ち上がる。そしてゆっくりと、緩慢とした動作を意識したまま、教卓の前へと歩んでいく。教員の粘つくような視線を感じたまま。


 僕の手が乾いた白いチョークに触れ、手のひらの中でその感触を弄びながら、僕は次の手を考えていた。


 ギャンビットは不発に終わっていて、次はどう正攻法に駒得を狙っていけるかどうか。教員からどう思われているかなんてどうでもいい。僕は今、この試合をどう終わらせられるかどうかに前意識と神経を向けているんだ。


 僕はチョークを右手の中で弄んだまま、何もせずにそのまま佇んでいた。教員がイライラし始め、他の生徒たちが疑惑と戸惑いを抱いた視線を僕の背中へと向け始めているのを肌で感じ取る。


 僕はチョークを握ったまま、次の手を考え終え、ゆっくりと教員の方を振り返って言った。


「すみません。分かりません」


 教員は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべ、そうか、とだけ呟くと、「じゃあ戻っていい」とだけ言い、僕が席に戻る前から既に、答えを黒板に書き始めていた。


 時間は過ぎに過ぎており、残りは3分と数十秒という所だった。僕は肩を沈め、僕は静かに続きを置き始めた。相手は長考しているか、嫌がらせをされていると思ったかもしれない。


 僕は最後まで指し続けた。


 そして、負けた。

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