第9話 終章

 しかし、見逃せないこともあった。あの喜多義憲のもとに、北海道大学の特別研究員が訪ねてこようというのだ。

 この頃すでに喜多は北海道新聞社を勇退して、一介の「映画好きの元新聞記者」になっていた。喜多は「北の映像ミュージアム」の一員でもあった。

 その特別研究員フィオードロワ・アナスタシアは、ロシア生まれで京都育ちである。彼女は日ロの映画交流の研究に進んだという。だから彼女が「樺太の映画史」について調べるといっても、それは映画史調べの一環でしかなかった。

 問題は喜多のほうにあった。『氷雪の門』の映像それ自体を彼女が紐解き、それを喜多がサポートするなら、別に問題はない。


 だが、喜多が「間違った映画史」を彼女に伝えようとするなら、これは大問題だった!

 『モスクワわが愛』への影響を恐れた東宝が、『氷雪の門』の「配給」(?)から手を引いたというなら、それは事実の半面でしかない。

 私は、1975年9月13日付けの《道新》を、「北の映像ミュージアム」のスタッフに預け、喜多が「間違った行動」に出ないよう釘を刺した。

 《道新》のコピーが、《道新》の元社員の手に渡るようにしておく? なんとも奇妙なやりとりであったが。やむをえなかった。

 このあと、どうなったかは、私は知らない。ただ《道新》には動きはなかった。


 一方、私の知らないところで、あの男の「間違った歴史」を阻止できた話がもう一つあった。T・ジョイ稚内の支配人が、『氷雪の門』のリメイクを岡田裕介に頼んだのである。

 岡田茂の後を継いだ裕介が、T・ジョイ・グループを指揮する立場に立ったことは言うまでもない。だが、一館ごとの番組編成まで裕介が決めるものではないのだ。

 今回、『氷雪の門』をリメイクするなら、裕介の立場はおかしなことになる。『氷雪の門』の興行を蹴ったのが、岡田茂であることは案外知られていない。けれども、新作『氷雪の門』のパンフレットはどういうことになるだろう?

 ――岡田茂は、JMPが持ち込んだ商談を最終的には蹴りました。小倉寿夫の正体に感づいたからです。


 だが、T・ジョイ稚内のオーナーや支配人も目を白黒させるだろうし、稚内市観光課の幹部連中は卒倒するだろう。

 「彼女達の壮烈な最後は詩になり、小説になり、映画にもなって」と謳われているからだ。まさか映画の製作会社の代表が懲役刑に処せられたとは、T・ジョイ稚内でも稚内市観光課でも知りはすまい。


 ところが、岡田裕介には、よく知られた話であった。こういうことで「貸し」を作りたくない裕介は、「樺太真岡郵便局事件」ではなく「三船殉難事件」を取り上げることにしたのだ。北海道留萌沖で、樺太からの引揚者を乗せた三隻の引揚船が、ソ連の潜水艦に攻撃され、二隻が沈没、1700人以上の人々が犠牲となった事件である。

 それをテーマにしたのが、2018年に全国東映系で公開された『北の桜守』である。吉永小百合主演の「北の三部作」の最終章であった。

 これで「北の三部作」は上手く幕を下ろした。この『北の桜守』という映画は、T・ジョイ稚内や稚内市庁でも歓迎されたが、まさか岡田裕介が苦虫を噛み潰す一幕があったとは誰も知らない。


 さて、2019年8月17日の《道新》朝刊には、困った記事が載っている。

 日本映画大学の学生二人――池田大道と平野武周が、74年前の池田の祖父の樺太体験からドキュメンタリーを製作するというのだ。

 1945年8月20日、旧ソ連軍は真岡に上陸。樺太での戦災死者約2000人のうち、半数は、「真岡郵便局で集団自決した9人の電話交換手をはじめ」――と記事は続いているのだ。


 だが、日本映画大学といえば、そこのOBにはあの男もいるのだ。この池田と平野が、身近な取材先としてあの男を選んだら一体どうなる?

 私は日本映画大学の現役教授三人に宛て、「資料」を送った。その三人の教授のもとに、「小倉も三池も信用できない」という資料を送ったのだ。つまり、この二人を「信頼できる実業家」としているあの男も信用できないというメッセージを言外にこめたのだ。


    *    *    * 


 しかし、こうした「消極策」では収まらない事態が起こった。ロシアのウクライナへの侵攻である。

 舞台やテレビドラマで「氷雪の門」の類似作を鑑賞して、反ソ感情(今は反ロシア感情か)からウクライナに支援する人がいても不思議ではない。

 しかし、あの男の妄言に接したうえで映画『氷雪の門』を見てしまい、痛憤を覚えた人には、待ったをかけよう。

「東映=モスフィルム提携の『オーロラの下で』も見てほしい。丹波哲郎、織本順吉、藤岡重慶の演技に触れてほしい」

「丹波哲郎と織本順吉については、やはり東映の『実録外伝 大阪電撃作戦』での好演も見てほしい」

「日本テレビの『霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち』も見て、九人の乙女の実像に触れてほしい」

「それでも意を決して、ウクライナ義勇軍に参加する者が出ると、私は止める立場にはない」

 というのが、私の本音である。


                       (2023年7月)

                                   了    

                                      ■参考文献


金子俊男『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』(講談社、1972年)

国弘威雄脚本『樺太1945年夏 氷雪の門』(JMP、1972年脱稿)


《氷雪の門製作発表》

北海道新聞1973年4月28日夕刊


《モスフィルム騒動》

報知新聞1974年3月9(ママ)日

ディリースポーツ1974年3月14日

東京新聞1974年3月12日夕刊、3月14日夕刊

読売新聞1974年3月17日朝刊、3月25日朝刊


《道南バス事件》

北海道新聞1975年9月9日朝刊~17日朝刊、10月17日朝刊、

     1984年4月13日朝刊

朝日新聞1975年11月18日夕刊

読売新聞1975年9月11日朝刊、13日朝刊

毎日新聞1975年9月12日朝刊、13日朝刊

サンケイ新聞1975年9月11日朝刊


《太秦取材》

北海道新聞2010年7月14日朝刊、12月17日朝刊


《池田・平野談話》

北海道新聞2019年8月17日朝刊


「シナリオ」1973年8月号、1974年6月号

「AVジャーナル」1973年11月号、1974年7月号・8月号

「週刊民社」1978年7月14日号

「月刊ほっかい」1981年9月号

「正論」2009年10月号

「映画芸術」2010年*月号 (注:バックナンバー2号分を紛失)


『映画 北の舞台』(朝日新聞北海道報道部編、新北海道教育新報社、1980年)

『北海道 シネマの風景』(北の映像ミュージアム推進協議会編、北海道新聞社、

2009年)


国弘威雄『私のシナリオ体験 技法と実践』(映人社、1977年)

山田和夫『偽りの映像 戦争を描く眼』(新日本出版社、1984年)

柿田清二『日本映画監督協会の五〇年』(日本映画監督協会、1992年)

文化通信社『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』(ヤマハミュージックメディア 

2012年)

菊地明範 山田篤史『高校生が見たサハリン・樺太』(中央大学出版部、2014年)

野上照代 ウラジミール・ヴァシーリエフ 笹井隆男『黒澤明 樹海の迷宮』(小学館 2015年)


第076回国会 参議院運輸委員会 第4号













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幻の映画『樺太1945年夏 氷雪の門』 千葉和彦 @habuki_tozaki

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