第6話 忍従の海

 話はいきなり2007年に跳ぶ。

 守田康司とは『二宮金次郎物語 愛と情熱のかぎり』(1998年)のとき、試写会を見せてもらっていたが、その4年後に私が体を壊して北海道にひっこんでいた。


 守田は、そんな私に構成台本の作成を依頼した。自称シナリオライターとはいえ、私に依頼するのは妙だと思った。

 だが、よく考えてみると、この仕事はプロの作家には頼みづらいのだ。たとえば守田の周囲には、このとき山野辺勝太郎がいたが、映画監督である山野辺に依頼するとリスクを負うことになるのだ。

 このとき、山野辺勝太郎は、映画『わが青春のイレブン』(家城プロダクション製作 降旗康男監督)で助監督を務めており、この作品には守田も覆面でコミットしていた。


 結局、私は『忍従の海』の構成を引き受けることになった。『忍従の海』とはこのドキュメンタリー番組に付された仮題である。製作は札幌テレビとJMP。

 つまりJMPが構成案を作って、札幌テレビ(日本テレビ系)に持ち込もうというのだ。


 ただ、この時期、私には伏せられていたことがある。守田は「株式会社日本映画振興会」の社長を名乗り、社名の英語略には「JMP」を用いていた。だが、このJMPは「株式会社ジャパン・ムービー・ピクチュア(JMP)」とは別であった。

 ふつう考えれば、「ジャパン・ムービー・ピクチュア」が社名変更して「日本映画振興会」となるだろう。驚いたことに、守田は妻や娘に対しても、この説明で押し通していたのだ。

 ジャパン・ムービー・ピクチュアが存続して、自分が社長になっていると説明するほうが楽だったと思われる。『氷雪の門』のプリントが守田の家にあることも、そう説明したほうが厄介ではなかった。

 ただ「日本映画振興会」の役員には山野辺勝太郎の名前があった。山野辺には、事情を説明していたと思われる。


 さて、このとき、守田の手元には、『氷雪の門』のDVDがあった。総販売元『氷雪の門』上映委員会とあって、そこには新城卓、守田康司ら七人の委員と「法律アドバイザー」として弁護士の名前があった。

 ところが、この『氷雪の門』上映委員会は、『氷雪の門』のDVDを販売するにあたって、新城卓が「暴走」して作ったものだという。


 最初は、日本映画学校(現・日本映画大学)の教材として、『氷雪の門』のプリントからダビングするという話だった。その頃の新城は日本映画学校の講師だったので、守田も快諾している。

 ダビングしたヴァージョンには「ジャパン・ムービー・ピクチュア」のロゴの前に、説明の字幕が入るが、この字幕は守田が筆で書いたものだった。そして上映時間は119分だった。(東映パラス系での上映時間は109分)


 字幕は、こうである。

 「表現の自由を約束されている社会でも当時この映画には自由を選ぶことはできなかった。この映画は戦争が終ったのに何故ー……」

 「歴史の片隅に置き去りにされた樺太(サハリン)、肩をふるわせ涙で語った歴史の生き証人が今、そのページを開く。名もなき人々の故なく強要された悲惨そのものの記録である」

 そして、『氷雪の門』上映委員会の七人の名前に続くのだった。


 ところが、映画学校での上映ののち、新城はダビングからDVDを勝手に焼いて販売を始めたらしい。守田がクレームをつけると、新城はDVD百枚を守田宅に送りつけ、これで事は済んだと嘯いたという。

 (なお、DVDが売れるたびに、守田のもとに使用料が入ったか否かは聞いていない)


 だが私は守田の怒りにたやすく同調はできなかった。守田康司と新城卓が会っているところを見かけたのは一度きり。

 それも、石原慎太郎から『俺は、君のためにこそ死ににいく』(2007年)の監督オファーを受けた新城が、判断に詰まって守田に相談するところを目撃したのだ。

 新城が守田に挨拶したとき、私は席を立っているので、二人の会話は聞けなかった。だが、二人の間が険悪になろうとは想像もできなかった。


 それに、『氷雪の門』上映委員会の顔ぶれのこともあった。

 「新城卓 東勝 辻萬里 菊地昭典……」と連なっている。このうち、東勝プロデューサーは、新城の事務所スタッフである。

 だが、辻萬里と菊地昭典の二人は、シナリオ作家協会の会員であった。新城が「暴走」したら、この二人がブレーキをかけてくれるはずだった。ところが――後日、守田は「見たことも会ったこともない。何者かも分からん」と言っていたという。


 守田の顔がけっして広くないことは意外だった。辻萬里と菊地昭典が、シナリオ作家協会の松本孝二の「後釜」のつもりで、『氷雪の門』上映委員会に加わったことは明らかなのに、守田が「何者かも分からん」とは!


    *    *    * 


 話を戻そう。

 『忍従の海』の構成台本の件であるが、まず最初に簡単な企画書を作らされた。


ドキュメンタリー番組企画書

『カラフト 1945年夏』


                         製作■株式会社JMP



《企画意図》


 ――届かない声だからこそ届けたい。


 先般、「北海道新聞」の記事中に、『太平洋戦争のさなか、日本国内では唯一、沖縄で地上戦が行われた』という表現があらわれ、読者から抗議の声があがりました。

 1945年の夏、当時は日本領であった南樺太で地上戦が行われていたではないか。中立条約を破棄して南下してきたソ連軍と、日本陸軍第88師団との間で戦端が開かれたではないか。わずか2週間の戦闘で、将兵700人、民間人3500人の死者を出していたではないか、と。

 「北海道新聞」には直ぐに検証記事が載りましたが、道紙である「北海道新聞」にしてこうした認識の甘さを露呈しています。ましてや本州の人々にとっては、「そのカラフトというのは何処の土地?」というのが偽らざる認識ではないでしょうか。


 わたしたちは、この現状を大いに憂えています。カラフトはロシア領となってサハリンと呼ばれるようになってひさしく、益々あの土地で起こった悲劇は、時の流れの中で風化しています。

 じつは、わたしたちは以前にも一度、この悲劇を劇映画の形で世に伝えようと、1973年に『樺太1945年夏 氷雪の門』を製作しました。

 樺太真岡郵便局の女性電話交換手9人が服毒自殺を遂げた事件を中心に、戦争の苛酷さを伝えるのが製作の意図でした。厳しい撮影条件の中、公開に向けて尽力していたのですが、当初予定していた配給会社が事情により手を引いたことから、小規模な公開にとどまったことは未だに痛恨の一事です。


 この映画製作から34年。事態は何ら変わっていないのです。

 2004年夏、「樺太関係資料館」が道庁庁舎内にオープンするなど、道民の地道な努力はあるのですが、それが全国民共通の課題として認識されるには至っていません。

 毎年めぐってくる終戦記念日に際し、歴代の首相は、沖縄・広島・長崎での式典に出席はしても、稚内市で開かれている樺太記念式典に出席したことはありません。

 そんな現状に、微力ながらも一石を投じたいと思います。樺太終戦秘話を題材にしたTVドキュメンタリー番組を制作、未来に向けての映像資料を残したいと思います。


 映画『氷雪の門』の各場面をベースに、新たに撮影したドキュメンタリー映像を加えて、

 1945年夏に樺太で起こった悲劇を立体的に再現していこうと思います。

 8月14日、ポツダム宣言。8月15日に玉音放送があり、9月2日の降伏調印に至るまでの半月。その間に、樺太では4200人が戦死を遂げたのでした……。

 その悲劇の象徴的な存在として、真岡郵便局での集団自決があるのです。ですが、それからもう62年。当時を知る人も少なくなりました。


 いや、証言者だけではない。1973年に映画『氷雪の門』に携わったスタッフの中にも、他界した者が多い。

 じつは、今回の企画者である守田康司自身も、医師からガン宣告を受けています。そんな状況の中、守田は自分自身の最後のメッセージとして、今回のドキュメンタリー番組を製作することを思いたったのです。

 ――今ならば、サハリンへの現地ロケも可能である。

 ――その一方で、1945年当時の証言者は残り少なくなっている。

 これがドキュメンタリー番組を製作する最後の機会と思い、全力を尽くそうというのが、わたしたちの考えです。


 番組のリポーターには、映画『氷雪の門』の主演女優・二木てるみを起用(予定)、

 彼女が北海道・本州の証言者を訪ね歩き、サハリンへも渡って悲劇の現場の今を目の当たりにするという構成を取ります。

 ――1945年に起こった悲劇を、

 ――1973年に劇映画で演じた女優が、

 ――2007年の時点からふりかえる。

 これによって、「戦争悲話の継承」というドキュメンタリー番組のテーマが、明らかになるのです。


《構成素案》


 沖縄の激戦、広島や長崎の被害映像を見せたあと。


 東京および札幌で、若い世代にインタビュー、サハリン(カラフト)についての知識を問う。


 JR宗谷駅に降り立つ二木てるみ。地元の人に迎えられて、『氷雪の門』の女人像の前に立つ。


 映画『氷雪の門』、関根律子(二木てるみ)ら真岡郵便局の電話交換手の生活の寸描。


 サハリン(カラフト)の歴史。江戸時代の間宮林蔵の探検行。日露和親条約で雑居地と定められる。明治初年に「樺太・千島交換条約」が締結され、日本は樺太の権益を放棄し、それに代えて千島列島を割譲される。のち日露戦争の講和条約で、南樺太は日本領になる。


 サハリンに渡る二木てるみと、案内役の老人。


 1945年夏の南樺太について。人口45万人。主要産業は漁業、林業、パルプ工業、石炭。軍は新設の第88師団を中心に約3万、米海軍とソ連陸軍という腹背の敵に備えていた。


 現在の真岡。歩く二木てるみ。郵便局跡に立つ。日本人墓地などを訪ね歩く。


 本州・北海道で交換手の遺族や、旧島民への取材を行なう。戦闘に巻き込まれる前の日常。


 8月9日、ソ連参戦。以後、「逓信乙女」の激務が続く。ソ連軍の南下。遺族や旧島民への取材。戦火の中で生きのびた者、殺された者。


 『氷雪の門』の製作時の思い出話を、病身の守田康司プロデューサーと二木てるみが語る。1973年においても、戦中の樺太を再現することは困難を極めた。他のスタッフと出演者のインタビュー。


 『氷雪の門』のラスト、関根律子ら9人の服毒自殺の場面を見せて――完。


    *    *    *


――さらに、ドキュメンタリーの構成案も綴るよう指示されている。

 

    *    *    *


ドキュメンタリー番組 構成案

『~忘れられた樺太終戦秘話~

 忍従の海 乙女たちの詩が聞こえる』

             

             製作■札幌テレビ放送株式会社/株式会社JMP


○ 東京の街角


  若者たちに、極東の地図を見せる。

  白地になっているサハリン島南部について質問する。

  『北方領土』とされる千島列島に比べても、関心は薄い。


○ 北海道新聞の失言記事


  『太平洋戦争のさなか、日本国内では唯一、沖縄で地上戦が行われた』という表

  現。


○ 樺太連盟の老人Aの憤懣


  「1945年の夏、当時は日本領であった南樺太で地上戦が行なわれていたでは

  ないか。中立条約を破棄して南下してきたソ連軍と、日本陸軍との間で戦端が開 

  かれたではないか」

  「わずか2週間の戦闘で、日本側将兵700人、民間人3500人の死者を出し

  ていたではないか」

  老人Aの親族の青年A、正直いってピンと来ない様子。


○ 『氷雪の門』の限定試写


  札幌市内のホールで見せる。

  場内の様子。


○ スタジオで


  様々な世代の感想を聞く。

  「国防意識を訴えるには不充分」(?)

  「『ひめゆりの塔』と同じくアイドル映画」(?)

  ただ、「知られざる戦争をはじめて扱った作品としての意義はあった」との声が

  多い。

  主演女優・二木てるみと、青年Aも参加している。


○ 守田康司インタビュー


  「『氷雪の門』は本来なら戦争映画の一篇として、『激動の昭和史 沖縄決戦』あ 

  たりと好一対の作品として全国上映されて、然るべき作品だった。ところが予定

  していた配給会社が、モスフィルムとの合作映画を製作中で、圧力を受けて配給

  を断念した。 そのため限定公開になったのは残念である。もっと大勢のひとに

  見てもらい、この悲劇について考えてもらいたかったのだが」


○ STV会議室


  病身をおして『リターンマッチ』のため、この番組を企画した守田康司。

  若い世代の局プロデューサーとの語らい。

  正攻法のドキュメンタリーとして製作、随所に『氷雪の門』のフッテージを

  込むことにする。


○ 字幕


  『届かない声だからこそ届けたい』


○ JR稚内駅


  列車から降りる二木てるみと青年A。


○ 氷雪の門


  二木てるみが碑文を読む。

  「「人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った。戦後はその門もかた

  く鎖された。それから十八年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなった多くの同 

  胞の霊を慰めるべく……」


○ 定期フェリー


  稚内―コルサコフ便。

  二木てるみと青年Aが乗っている。

  二木てるみがサハリンに渡るのは、実はこれが*回目である。


○ 『氷雪の門』撮影ロケ地の写真


  映画の撮影は旭川などで行なわれた。

  旭川・高嶋商会の高嶋伸良会長とスタッフのロケハン苦心談。


○ コルサコフ(大泊)


  サハリン南端の町。

  かつて幾多の人々がこの港から上陸、樺太各地に散っていった。

  二木てるみと青年Aがフェリーを下りる。


○ 樺太小史


  江戸時代の間宮林蔵の探検行。日露和親条約で雑居地と定められる。

  明治初頭に樺太・千島交換条約が締結され、樺太全島はロシア領に。

  日露戦争の講和条約で、南樺太は日本領になる。

  1945年夏の南樺太は人口45万人。

  主要産業は漁業、林業、パルプ工業、石炭。

  軍は新設の第88師団を中心に約3万。

  米海軍とソ連陸軍という腹背の敵に備えていた。


○ 現在の真岡(ホルムスク)


  歩く二木てるみ、郵便局跡に立つ。

  日本人墓地などを訪ね歩く。


○ 映画『氷雪の門』から


  関根律子(二木てるみ)ら電話交換手の平穏な生活。


○ 遺族インタビュー その1


  九人の乙女の談話をリポーターが聞く。

  戦闘に巻き込まれる前の日常。


○ 映画『氷雪の門』から


  8月9日、ソ連参戦。

  ソ連軍爆撃開始。

  陸軍第88師団の応戦。


○ 鈴木康生元大佐インタビュー


  当時の第88師団参謀長。


○ 恵須取(ウグレゴルスク)


  この町に住む残留日本人に、二木てるみと青年Aがインタビュー。

  8月16日にソ連軍侵攻。


○ 映画『氷雪の門』から


  「逓信乙女」の激務が続く。


○ 桜井千代子インタビュー  


  元・樺太真岡郵便局電話事務員。

  「逓信乙女」のひとりひとりについての証言。


○ 映画『氷雪の門』から


  8月20日、ソ連艦隊、真岡を艦砲射撃、その後上陸、占領。

  激戦の地獄図。


○ 遺族インタビュー その2


  「逓信乙女」との死別。

  戦火の中で。

  引き揚げの苦心談。


○ 現在の真岡


  再び郵便局前に立つ二木てるみと青年A。


○ 映画『氷雪の門』から


  真岡郵便局電話交換手9名、服毒自殺。


○ 稚内


  氷雪の門と乙女像。

  再び手を合わせる二木てるみと青年A。


○ 上田祐子インタビュー  

 

  「九人の乙女像」の寄贈者。

  寄贈の動機。


○ 浜森辰雄インタビュー

    

  元稚内市長。名誉市民。

  「氷雪の門」を建立。その動機。

  その一方で、稚内-サハリンの定期航路の再開に尽力。


○ 新旧スタッフの交流会


  守田康司、二木てるみを中心に集う。

  映画『氷雪の門』の撮影苦心談を、STVスタッフが聞く体裁。


○ スタジオで


  青年Aがサハリンでの見聞を同世代の男女に語る。

  「悲劇があったのは分かった。だが、この先どうすればいい?」という問いか

  け。

  体制が変わろうと、ロシアが強大国であることには変わりない。

  「樺太奪還」はまずありえない。

  日露雑居地への「原状回復」を求めるべきか。

  日本が経済大国づらしていた頃なら、打つ手もあったが。

  結論の出ない議論が続く。


○ 道庁赤れんが館


  3年前に、樺太関係資料館が開館。

  その資料を眺める二木てるみと青年Aを追いつつ――。

                             (完)


《取材予定先》


 九人の乙女の故郷

 

1.高 石 ミ キ 北海道……

2.渡 辺   照 山形県……

3.可香谷 シ ゲ 北海道……

4.伊 藤 千 枝 新潟県……

5.吉 田 八重子 北海道……

6.高 城 淑 子 北海道……

7.沢 田 キ ミ 北海道……

8.志 賀 晴 代 福島県……

9.松 橋 みどり 青森県……

     

 九人の遺族をリポーターが歴訪、インタビューを行なう。


《証言者(予定)》


   浜 森 辰 雄  元稚内市長。8期にわたる在任中、樺太島民慰霊碑「氷 

            雪の門」を建立。一方で稚内-サハリンの定期航路の再

            開に漕ぎつける。名誉市民。


   上 田 祐 子  「氷雪の門」に近接して建立された「九人の乙女像」の寄

            贈者。樺太引揚者で、札幌市中島公園で「上田旅館」を

            開業していた。


   桜 井 千代子  元・樺太真岡郵便局電話事務員。


   鈴 木 康 生  元・陸軍第88師団参謀長。(大佐)

            戦後、シベリアに抑留され、12年間にわたる強制労働

            を送ったのち1956年に帰国。


   高 嶋 伸 良  旭川・高嶋商会の会長。映画『氷雪の門』製作にあたっ

            て、ロケ地選定などで協力を得る。


       *    *    *


 東宝が「配給会社」であったと守田が言っているのは、もちろん誤りである。「上映チェーンであった東宝」と正しく説明するのは厄介だったのだろう。


 この構成台本が、札幌テレビのプロデューサーに提出されたかどうかは、分からない。いや、二木てるみが読んだかどうかもわからないのだ。

 ただ分かったのは、守田が執念を燃やしつづけ、「証言者たち」に今も連絡を取っていることだった。

 しかし、守田が私を、二木てるみや「証言者たち」に引き合わせることはなかった。病身だった守田は、何度目かの入院のすえ、2007年10月17日に亡くなっている。


 守田が最後まで気に病んでいたのは、新城卓の「暴走」だったという。昔から新城と近かった大橋和夫を通じて釘を刺していたというが、しかし「暴走」にも限度があるだろうと、私は高を括っていた。

 守田の葬儀の席についた撮影監督の森喜弘が見ていると、そこに現われた新城は、斎場のまわりをうろうろしていたという。森から話を聞いた私は、新城が何か生前の守田の機嫌を損じることがあったのだろうと思っていた。



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