「神獣の嘔吐響けるゆふまぐれ」、音数を数えてみて驚愕するのは(冷静になれば当たり前だが)完全に五七五の定型に収まっているという点である。
「神獣の」「嘔吐」「響ける」「ゆふまぐれ」である。あまりにも緊密に組み込まれた高濃度の幻想だ。
「神獣」の神聖さに「嘔吐」を結びつけた点に聖俗を合体させてみせる超技術がある。おそらくここに何らかの秘密がある。
見返してみれば「春の贄として芍薬崩れゐる」も「はるのにえ」「としてしゃくやく」「くずれいる」と「としてしゃくやく」の区切りを見つければ五七五である。
なんと憂鬱なるうっとうしい春であろうか。
「八本の足なべて義肢の蜘蛛の仔ら」は五八五。「足なべて技肢」というとやや難解だが、蜘蛛のカクカクとした動きを見ていると小型マシンのように思われる瞬間がある。そうしたことを詠んでいるのだろう。
「窓辺にて、落日に燃ゆる処女詩集
灯蛾(ルビ: ヒトリガ)を詩集の頁に捕へたり
鱗粉が(tenshi emoji)を描きゐる」
はワンセットだ。〈落日→灯蛾→鱗粉〉というイメージの連綿。また〈処女詩集→詩集の頁→鱗粉が(tenshi emoji)を描きゐるための紙〉という連続性が見られる。
「完全に発狂した春として、夏」は「かんぜんに、」「はっきょうしたはる」「としてなつ」五八五の句である。
たしかに夏は発狂している。そして春の延長線上にある。
「にほんごのいうれいのごと句は立ちぬ」という句作への自己言及でこの連作は閉じられる。
しかしひとつまえの句を見てみると、
「現実が漏電してねもふいらが咲く」とあり、これは俳句の世界が現実に「漏電」した結果「ねもふいらが咲く」のだと説明する俳句である。
したがってこの連作は二句あわせて自己言及しているのだ。
一貫して「にほんごのいうれい」を信じる姿勢に貫かれた句集は不思議な重みと説得力が宿る。
「義肢の蜘蛛の仔」を見つけるような観察眼まであるのだから完璧だ。