ルーディと次の夢
時計の針が昼の12時を回った。
ロビーには多くの人が集まり、来院者の話し声や、患者を呼び出す放送で騒がしくなる。ほとんどの椅子やソファは埋まってしまい、中には立って順番を待っているらしい人もいた。
暇を持て余し、置かれている雑誌や新聞を手当たり次第に読む老人。診察の結果を待っているのか、心配そうな顔で顎をさすっている男。退院したばかりの祖母を満面の笑顔で迎え、飛びつくようなハグをする女の子。それぞれが抱える事情は様々だが、とにかく騒がしいことには変わりなかった。
カリフォルニア・メレディス病院は、南部地域では数少ない大病院である。それもあってか、昼になれば来院者で溢れかえっていた。穏やかな午後の始まりなど全くと言っていいほど感じられない。
病院内のカフェから出てきたランジェナは、コーヒーとサンドイッチが入った紙袋を抱えたまま、2人が待つベンチがどこだったか思い出そうとしていた。
「まったく、ここまで苦労して買うのがサンドイッチだなんて。割に合わないね」
彼女は少々不機嫌だった。ロビーだけでなくカフェもひどく混んでおり、ちょっとした軽食を買ってすぐに出るつもりが、15分近く待たされてしまったためだ。加えてコーヒーの値段も高く、普段は自分がふんだくり屋であることを棚に上げて、イライラせずにはいられなかった。
大きな観葉植物の近くに座っていた2人を見つけると、ランジェナはため息をつきながらも、眉間に浮かべていたしわをゆるめた。
「ごめん遅くなったね。テーマパークみたいに混んでてさ。ウチのパフォーマンスより人が入ってる」
ランジェナがそう言いながら差し出したコーヒーを、マチャティは、小さく頭を下げながら受け取った。
「いやいやそんな。わざわざ申し訳ない。ありがとう。それに、高かっただろう」
マチャティの言葉にうなずきながら、ランジェナは別のコーヒーを取り出す。八つ当たりするように大量に奪ってきた砂糖を溶かすと、彼の隣に座ってから飲んだ。
「ぼったくりだよ。でも大人気。他に店がないとは言え、あんな値段であそこまで売れてるとはね。ウチも真似させていただこうかな……」
「もっと夢のあることを参考にした方がいいんじゃないか。我々は夢を見せるサーカス団だぞ」
彼女の悪だくみ顔に、マチャティはやれやれといった様子で眉を寄せた。しかしランジェナは、そんな指摘には耳を貸す素振りも見せない。
シカトを決め込み、紙袋からサンドイッチを取り出す。メープルシロップとピーナツバターをたっぷりと塗ったパンで焼きバナナを挟み、おまけにシナモンとスプレーチョコまでふりかけた、この世の終わりのように甘いサンドだ。
「ほら、これで良かったの?早死にする奴が食べてそうなサンドだけど」
サンドイッチを差し出されれば、彼はマチャティから習ったように一度頭を下げる。そして顔を上げると、嬉しそうに笑みを見せながら受け取った。
「ありがとう。これ、食べてみたかったんだ」
ルーディはそう言うともう一度礼をして、シロップがこぼれそうになっているサンドイッチを大きくかじった。
「さすがに甘すぎるんじゃない?どう、美味しい?」
「すっごく美味しいよ。ありがとう!でも、もっと甘くてもいいな」
ルーディにそう言われると、ランジェナは余っていた砂糖のスティックを見せる。ついにさ「足してみる?」と言って悪そうな笑みを浮かべ、砂糖を渡そうとした。
見かねたマチャティが止めに入る。
「待て待て待て!さすがに体に毒だ。普通の人間なら、明日には糖尿病になっているぞ」
ランジェナはしぶしぶ砂糖を引っ込めると、自分のコーヒーに流し込んだ。
「まあ、食欲があるのは結構なことだがな。体の方はどうなんだ?」
マチャティの問いに、ルーディはサンドイッチを食べながら元気に答える。
「絶好調ってやつ。もうずっと力も落ち着いてるし、何だか体も軽いんだ。今朝だってパンケーキを五枚は食べたよ」
「それは素晴らしい!完全復活だな?お祝いに、火でも吹きたいところだ!」
マチャティが嬉しさのあまりに『火を吹きたい』と言ったためか、近くに座っていた患者やその付き添いたちの視線が一斉に三人に集まる。ランジェナはため息をついたが、マチャティは気付いていないようである。
それどころか、ルーディの元気な様子をまた見られたのが何より嬉しいのか、彼の声はエネルギッシュなままだった。
「確かに、またマチャティさんの火吹きを見てみたいな」
「ああ見せてやろう。今度の計画はものすごいぞ。オープンカーを乗り回しながら爆炎を吹き上げるんだ。あっという間に炎の世界だ!」
「そんな話を大声でするんじゃないよ!」
周りがざわつき始めれば、今度はランジェナが止めた。ようやく周囲の目線に気付いたマチャティは、『おっと失礼』と言って椅子に座り直した。
そんな彼の様子を見て楽しそうに笑うルーディを眺めながら、ランジェナは甘ったるくなったコーヒーを飲み干す。
「まあ、元気なことに越したことはないかもね。あんなことがあったんだし……」
ランジェナにそうつぶやければ、ルーディの表情はピタッと固まった
視線を少し下ろして、自分の両手を見ながら、ほんの一週間前のあの夜ことを思い出す。死の寸前まで追い詰められたあの夜だ。
ルーディの手首には、欠けた逆さ十字が取り付けられたチェーンが巻かれていた。
「まったくその通りだな。ルーディも大変だったが……まさかドグが、あんなことになるとは……」
マチャティが声を震わせる。ランジェナも肩を落とし、紙のコーヒーカップを握りつぶした。
「アイツは本当に大馬鹿だよ。最後まで馬鹿で、がさつで、向こう見ずな野郎だった。だけど、本当にいいやつだったのに……今頃空の上で、安らかに眠ってるだろうね……」
「空の上だと?オイ、そりゃ誰の話だ?」
暗いムードを蹴飛ばすような低い声が、3人の背後から飛んできた。
「なんだ。いつからいたの」
拍子抜けしたような口調でランジェナにつぶやく。彼女の視線の先には、不機嫌そうに顔をしかめたドグが立っていた。
「アンタがベンチに戻ったすぐあとからいたぜ?いつ気づくかと思ったら、勝手に葬式みたいな雰囲気を作りやがって!」
ランジェナに野犬のような目を向けるドグだったが、ルーディにいきなり抱きつかれると、転びそうになりながらも視線を移した。
「ドグ!会えてよかった!もう大丈夫なの?」
ルーディの問いに、ドグは歯を見せて笑いながら答える。
「あー、なんとかな。病院食を食うのにウンザリするくらいには元気になったぜ」
そう言いながらドグは、ルーディが被っていた帽子をずらしては、懐かしむように彼の髪をグシャグシャと乱した。
ドグはクリーム色の患者衣を着ており、松葉杖もついている。元気になったと言ってはいるものの、まだ銃撃された足を動かせないようだった。
マチャティも立ち上がると、両腕を広げてドグを出迎える。だが彼のハグは大蛇に巻き付かれたかのような力強い抱擁であり、さすがにドグはストップをかけた。
「馬鹿馬鹿馬鹿やめろ!背骨が折れちまう!もっと重症にする気か!?」
そう言われればマチャティは慌てて腕を引っ込める。ドグはきしんだ体を伸ばしながら、代わりに握手を求めた。
「いやすまない。久しぶりだったので嬉しくてな。元気そうで何よりだ」
「ああ俺も嬉しいぜ。こんなところまで……痛い痛い痛い、今度は俺の指を折ろうってのか!」
今度は握手の方に力がこもってしまい、マチャティは「申し訳ない」と言ってもう一度手を戻した。ドグはヒリヒリと痛む右手を見ながら、「勘弁しろよ」とつぶやいた。
そんな2人のやり取りを、ルーディはどこか嬉しそうに、笑みをこぼしながら見ていた。
クロスハウスに足を踏み入れたあの晩、何とかクリスティーナを倒すことができたものの、ドグとルーディは火の渦へと飲み込まれる寸前へと追い詰められてしまっていた。
ルーディは底まで力を出し切ってしまい、彼らを囲んだ炎を操ることすらできない。ドグも虫の息であり、まさに絶体絶命と言える状況となってしまった。
そんな2人をギリギリで助け出したのは、ほかでもない『火を吹く男』マチャティだった。
クロスハウスに入ったきり出てこない2を、マチャティは車の中で、辛抱強く待っていた。そして腹が空いてきたため夜食でも食べようとピクルスの缶を開けたとき、クリスティーナが落とした雷が、クロスハウスに直撃したのを見た。
あっという間に燃え上がるクロスハウスを前にしばらく呆然となっていたマチャティだったが、逆さの十字架が崩れ落ちて地面に落下したのを見ると、いてもたってもいられずに2人を助けに向かった。
2人がまだ建物の中にいるとばかり思っていたマチャティは、燃えるクロスハウスに迷わず突入していた。だが実際には、すでにドグもルーディも建物を離れており、地下へと続く謎の大きな階段と、その前でうずくまっている老人がいるだけだった。
その老人はドグに殴られた後に地上へと戻ってきていたマルコフ司祭だったが、その時のマチャティからすれば、司祭の頬が赤く腫れている理由など知る由もなかった。マルコフ司祭は「彼女が来た。殺される」などと喚いてパニックになっている様子であり、マチャティは何のことかさっぱりだったが、ひとまず司祭を抱えてクロスハウスから脱出した。
司祭から地下で何があったか聞いたマチャティは、2人が建物の中にいないと知って少し安堵した。そして「頼むから遠くに逃げさせてくれ」とのたまうマルコフ司祭を、問答無用で車に押し込んだ。
その頃にはゴウゴウと燃え広がる火に焼かれそうになっていたルーディとドグだったが、ルーディが必死に助けを呼ぶ声は、何とかしてマチャティの耳にも届いた。火の海にも臆せずスポーツカーで飛び込んできたマチャティに助け出され、どうにか2人は、命を拾われることができていたのである。
ルーディはひどく体力を消耗しており、しかし幸いにも大きな怪我はなく、時間が経つとともに、力と元気を取り戻していった。危険な状態だったドグも、クリスティーナが撃った銃弾は直撃しておらず、命まで奪われてしまうことにはならずに済んだ。あれからおよそ一か月が経ったが、ドグは今も足の治療のため、カリフォルニア・メレディス病院に入院している。
「わざわざ来てくれてありがとよ。周りには何もないド田舎だってのに」
ドグは少し照れた様子で話す。彼の療養は今も続いており、今日はルーディたちが見舞いに来てくれていたのだった。
「別にいいってことよ。どうせ公演ができない時期で暇だったし。それに、コイツがどうしてもってうるさかったんでね」
ランジェナはルーディの肩をつかみ、からかうように話した。ルーディは「そんなふうに言わないで」と言いたげに彼女を見上げていた。
「私も会いたかったぞ」
マチャティが腕組みをしながら割って入る。
「おお、本音を言えば、俺もアンタに会いたかったぜ!命の恩人だからな。あのとき助けがねけりゃあ、俺もルーディも今頃土の中だ」
そう返されればまたしてもマチャティが抱擁を求めてきたが、流石に身の危険を覚えたドグは拒んだ。そして視線を変えて少しかがむと、ルーディに話しかける。
「お前にもだぜ、『鬼人の子』。お前がアイツをぶっ倒してくれたんだろ?まったく凄い奴だぜ」
目の前でそんなことを言われれば、ルーディはますます照れくさそうにする。だがマチャティの真似をして腕を組んで返した。
「と、当然のことをしただけさ。それに、僕がここまで来れたのは、ドグのおかげだ!」
嬉しそうにそう言うルーディを見て、あのランジェナも、微笑みを浮かべている。ドグは体を一度起こすと、空いたベンチに座った。
「だが、最後の公演が台無しになっちまったのは残念だったな。『鬼人の子』は今回がラストな予定だったわけだし……」
「予定じゃないよ。僕は、クラウンヘッドサーカスから出る。もう決めたんだ」
ルーディが遮るようにそう言えば、ドグは驚いた。あそこまでサーカスに残りたがっていたルーディが、あっさりと去ることを認めたからだ。
「マジか!?いいのかよ」
「いいんだ。皆と話して決めたことだから。それに、僕がいたら迷惑だから、なんて理由で抜けるわけじゃない。サーカスの外をもっと知ってみたいから抜けるんだよ」
そう答えるルーディの表情は、どこか涼し気で穏やかだ。
ドグはマチャティとランジェナにも目を向ける。2人も納得しているようで、ドグの目線に頷いて返した。
「私はルーディの判断を尊重するよ」
「アタシも止める気はない。そもそも言い出したのはこっちだし」
ドグはやや寂しく思いながらも、「なんか心配だな」とだけつぶやいて、椅子に座り直した。
「アンタたちがクリスティーナをぶっ倒してからは、鬼人たちはめっきり姿を見せなくなったんだよ。親玉だった彼女がいなくなって、『下』の世界とやらに帰ったのかもしれない。まあとにかく、拠点に戻ってからしばらく経ったけど、特に何も起こってないね」
ランジェナの話す通り、回復したルーディはカリフォルニア北部にあるクラウンヘッドサーカスの拠点に匿われていた。ネズミ一匹近寄らせまいとする彼女の警戒に反して、新たな鬼人や、その仲間に襲われることもなかった。
「そりゃ結構な話だがよ。サーカスを出た後はどうするつもりなんだ。学校に行くって言っても、ガキ一人で行くあてなんてないだろ?」
ドグが心配そうにルーディを見たが、ランジェナはそのまま話を続ける。さらにポケットから一枚の写真を取り出すと、ドグにスッと見せた。
写真にはランジェナとうり二つな女が写っていた。しかし、彼女より一回り歳をとっているようにも見える。
「ルーディを世話してくれるあてが見つかってね。アタシの姉だよ。ボストンで教師をやってる」
ドグは写真とランジェナを見比べつつ、確かにずっとサーカス団に居続けるよりは、まともな生活ができるかもしれないと思った。ずっとサーカス漬けになって、根っからの変人になってしまっては大事だ。実際ランジェナのとなりでは、やけに真剣な顔をしたマチャティが、紙ナプキンで折り鶴を折ることに熱中するという変わり者ぶりを晒している。
「サーカスはもちろん大好きだ!でも、これからはもっと、色んな世界を知ってみたい。色んな思い出を作りたい。そしてまたいつか、ステージに戻ってきたいんだ。それが夢なんだ」
ルーディが元気な様子を店ながらそう言えば、ドグは彼の肩を。茶化すように小突く。
「大人になったなあ、ルーディさんよ」
「ああ。大人になった!」
二人の会話を見ながら、ランジェナは写真をドグの手から取る。
「何も知らない場所より、姉のとこに行った方が少しは安心できるってことさ。何かあったらすぐに連絡できるし」
「問題があれば、私がすぐに飛んでいくさ」
そう言いつつマチャティは。紙ナプキンで三羽目の折り鶴を作ることに熱心である。ドグは話を聞くと、もう一度ベンチで姿勢を楽にした。
ランジェナは話を続けようとする。だが、何かを思い出したようにピタッと動きを止めると、急に血相を変えた。
「……ちょっと待った。外に車停めてから、何分経った?」
そう問われれば、ルーディが時計を確認して返す。
「今でちょうど30分くらいじゃないかな」
ランジェナはため息をつき、知らない間に進んでいた分針と、行列だったカフェを睨みつけて舌打ちした。ドグは話についていけず、戸惑った顔を見せる。
「オイ、何の話だよ。車が何だって?」
「たいしたことじゃないよ。駐車料金なんて払ってやるのがしゃくだったから、適当な道に停めたんだ。そろそろ動かさないと捕まっちゃうかも、ってだけ」
悪びれる様子もなく話すランジェナに、ドグは頭を抱えた。
「お前らなあ、一応教えておいてやるが、ここは病院だぞ?くだらない真似をしてんじゃねえよ」
「大丈夫大丈夫。安い白ペンキを持ってきてさ、ルーディに綺麗な白線を引いてもらって、偽の駐車場を作ってやったのよ。本当に固まる前にペンキを落とせば……」
「そんなケチことにルーディの力を使うんじゃねえよ!さっさと動かしてこい!アホ!」
ドグが軽く怒鳴ると、ランジェナはしぶしぶ車の鍵を取り出し、マチャティにも声をかけた。
「わかったわかった。マチャティ、アンタも来な」
「何故私もなんだ?」
マチャティは、折り鶴たちをベンチの足元に整列させている。
「警官でも来てたら面倒でしょ。屈強な男がそばにいた方がいい」
そう言うとランジェナはマチャティを連れて、出入口の方に歩いて去っていった。
ドグは大きくため息をつき、ルーディの肩をもう一度ひじで小突く。先ほどまではルーディの旅立ちに不安を感じていたが、ランジェナの横暴さとマチャティの変人ぶりを見ると、逆にサーカス団からの悪影響
「お前もくだらねえことに手を貸してんじゃねえよ。普通に犯罪だぞ」
ルーディは「気を付けます」とだけ返して、ドグのとなりに座った。
「そうだ。サンドイッチ食べる?さっき団長に買ってもらったんだ」
ルーディに問われると、ドグは頷いて手を伸ばす。ルーディが一切れのサンドイッチを差し出してくれたが、メープルシロップにたっぷりと漬かったものであると気付くと、受け取ったことを少しだけ後悔した。
「あ、ありがとよ……こうやってメシを食うのもしばらくぶりだな」
一口目から意がもたれそうなほど甘いサンドを食べながら、ドグはそんなことをつぶやいた。その話し方は、どこか寂しげでもあった。
「こんなことをいう柄じゃねえが、寂しいな。俺とお前のコンビはもう解散か」
ルーディは、ドグをはげますように笑顔を見せて首を振った。
「そんなこと言わないでよ。必ずまた、クラウンヘッドに戻ってくる。引退ってわけじゃない、ちょっとお休みってだけだよ。そっちこそ、僕が帰ってくるまでにクビになったりしないでよ?」
軽い冗談を飛ばすルーディに、ドグは「生意気言うなよ」と返す。そしてサンドイッチをもう一口かじった。
「まあ、元気になったみたいで何よりだな」
ルーディは頷き、別のサンドイッチを口に運ぶ。頭の中では、自分の記憶探しのことを思い返していた。
「結局、父さんのこと以外は、何も思い出せないままだった。『下』の世界ってやつについても、僕が父さんから、何を教わっていたのかも……きれいさっぱり、記憶を消されちゃったんだと思う」
サンドイッチを食べながらルーディがつぶやく。
あれ程のことがあったにも関わらず、クロスハウスの落雷は世間には「不運な天災」として扱われており、鬼人の存在は未だ公にされてはいない。ドグは何度か鬼人たちの反抗を周囲に訴えてもみたが、あまりに荒唐無稽なこともあってか、誰一人耳を貸さなかった。ランジェナも、「政府にもみ消されるから」と冗談めいたことを言うだけで、鬼人のことを世に広めようとはしていないらしい。
焼け落ちたクロスハウスと土砂に埋もれてしまった今では、無数のミイラたちとともに、真相は深い眠りについてしまったのである。ただし救助されたマルコフ司祭があまりにメチャクチャなことばかりを言うためか、デュームリング教の信者たちには警察の捜査が入ることになったようだ。
「鬼人たちもいなくなって、あの妙な建物も灰になっちまったんじゃ、もうわからずじまいだな」
「でも、一つだけハッキリとしてる。鬼人は、罪のない人たちをさらって、殺して、命を奪ってきたモンスターだ。そのことだけは、僕は知っておかなくちゃ。向き合わなきゃいけないんだ」
ドグは、決意にみなぎるルーディの横顔を眺めた。
「お前は、モンスターなんじゃかねえよ」
ルーディは小さく笑顔を見せ、サンドイッチの最後の一切れを口に入れた。彼の様子にドグは、ルーディは強くなったと実感する。彼はもう、力を暴走させることもなくなっていた。
「今でも、あの夢を見ることはある。だけど、後悔してないよ。父さんの記憶を思い出したことを。もう、『消えてしまいたい』なんて言わない」
ルーディはドグの方を向き、一年前とも、一か月前とも違う、力がみなぎっているような目で彼を見た。ドグは微笑み、言葉を交わすかわりに、拳を握ってルーディの前に出す。ルーディも同じようにして、グータッチをした。
「成長したじゃねえか。これからが楽しみだな」
「皆のおかげさ!……そうだよ、僕がここまで来れたのは、サーカスの皆のおかげなんだ。ドグには、本当に助けてもらった。ありがとう」
ルーディは目頭を熱くしながら深々と頭を下げる。ドグは周りの目を気にするとまた小っ恥ずかしくなり、「やめろやめろ」と言って顔を上げさせた。
「俺は仕事をやっただけだ。給料もらってるしな。水臭いことを言うなよ」
ドグはそう言って、何もない方を見る。彼も自然と、胸が熱くなってきていた。
ふとルーディは「そうだ」とつぶやき、自分の手に巻いていたチェーンを外し、ドグに見せた。一部が欠けてしまっていたものの、あの逆さ十字のチャームが取り付けられている。
「これ、持っててよ」
ルーディにそう頼まれると、ドグは戸惑いながらも、一度チャームを受け取る。
「いいのかよ?ずっと大事に持ってたやつじゃねえか」
「大丈夫。というより、預かってほしいんだ。団長からは『不吉だから持ち歩くな』って言われちゃったし。でも、ドグが持っててくれてたら、何かの役に立つかもしれないでしょ?」
ドグは少しだけ考えたが、ルーディにそう言われれば、受け取ったチャームを強く握り直した。
「それに、僕にはもう必要ない。今までずっと、自分は何者なんだって思って、答えを探し続けてきた。けどさ、もういいんだ。もう答えは見つかったから」
ルーディは、少し昔を遠い思い出のように懐かしく思いつつ、目を細めている。
「僕はルーディ。『鬼人の子』ルーディだ。それ以外の何者でもない」
晴れやかな表情を見せるルーディに、ドグは何度か頷きながら、チャームを上着のポケットにしまった。
「いつでも帰って来いよ。稼ぎ頭がいないんじゃ、赤字になるのも時間の問題だ」
冗談交じりにそう言いつつ、松葉づえをついて立ち上がる。そして、自分の頬に何か水のようなものがついていることに気付くと、隠すように袖で拭き取った。
「じゃあ悪いんだが、俺は一旦戻らねえと」
ドグがそう言うと、ルーディは「えっ」と漏らした。
「俺実は、病室を出られねえんだよ。こっそり抜け出してここに来てんだ。警備員をちょっとばかし買収してな」
ルーディはドグの言動に、口をあんぐりとさせる。
「そ、それじゃ、団長たちを悪く言えるような立場じゃないじゃないか!」
「馬鹿、俺はいいんだよ。少なくとも法には触れてねえ」
ドグが悪気を全く感じていない態度で言い返す。そして、あらためて右手を、ルーディの前に伸ばした。
「まあ、また来てくれよ。しばらくはこっちにいるんだろ?」
ルーディはベンチから立って大きく頷く。そして、ドグの手に強く握手して答えた。
「まあね。次来るときは、エンチラーダを持ってくるよ」
ドグが小さくガッツポーズをしながら、ルーディの手を握り返した。
「ありがとよ!じゃあ俺は行くぜ。団長たちにも礼を言っといてくれ。それと、またな」
ドグはそう言うと手を放し、チャームをしまったポケットを指で軽く叩くと、少々よろめきながらもロビーから去っていった。ルーディは表情をほころばせたまま、「またね」と言ってドグを見送った。
ドグの姿が見えなくなれば、もう一度椅子に座り直した。
ランジェナたちはまだ戻って来ておらず、ルーディは一人になる。何となくキョロキョロと周りを見ていると、ベンチの端に、一杯のコーヒーが置かれていることに気付いた。ランジェナがドグに渡し忘れたらしい。
ルーディは手を伸ばして、冷めきってしまったコーヒーに力を注ぐ。
そしてコーヒーを自分のように引き寄せるように操った。コーヒーの塊は紙コップごと動き、ゆっくりとスライドするように、ルーディのそばに寄った。
紙コップを手に取って2人を待とうとしたルーディだったが、急にどこからか視線を感じた。反対側のベンチを見ると、彼より一回り小さい女の子が、ジッと見てきていることに気が付いた。紙コップがひとりでに動いたのをたまたま目にしていたようだ。
ルーディはフッと笑うと、紙コップに手をかざす。そして再びコーヒーを操り、シャボン状にして、紙コップから浮かび上がらせた。
女の子は不思議に思って目を丸くした。ルーディが指を鳴らせば、コーヒーは元に戻り、パシャッと音を立てながら紙コップの中に返った。そして何事もなかったかのようにコーヒーを飲んでみせたルーディだったが、砂糖もミルクも入っていないブラックは彼には苦すぎであり、痺れたような表情をして咳こんでしまった。
一転して格好がつかなくなったが、女の子はそんなルーディを見て、おかしそうに笑っていた。ルーディは姿勢を正し、小さく礼をした。
その後すぐ、女の子は近くにいた祖母に声をかけられ、ベンチから降りてどこかに歩いていった。信じられないものを見たと何とか伝えようとしている彼女の様子に、ルーディは再び、口元をゆるめた。
「ルーディ、待たせたな!中々団長が駐車場を使いたがらなくてな……ドグはどうした?」
いつの間にかロビーに戻ってきたのか、マチャティが後ろから声をかけた。そのとなりではランジェナが、駐車場のチケットをうらめしそうに握りつぶしている。
「病室に戻らないといけないんだってさ。でも、また会いに来てほしいって。ありがとうとも言ってたよ」
「そうかそうか。では、次来るときはホテルから徒歩だな」
ルーディは苦笑を浮かべつつ、「その方がいいね」と言って立ち上がった。
「もう今は用済みだね?じゃあ、さっさと行くよ!」
ランジェナは2人にそう言うと、先陣を切って出口に戻っていく。折り鶴たちを回収したマチャティもその後に続いた。ルーディも2人についていこうとしたが、着ていた上着のポケットから何かがポロッと落ち、振り返って足を止めた。
動いた拍子に落としてしまったのは、サーカス会場で売られていた、『鬼人の子』の人形だった。小さなサイズのもので、手のひらに乗る程度の大きさである。
人形とはいっても安いフエルトで綿を包んだだけの簡単な作りであり、縫い目も少し荒く中身が飛び出しそうになってきている。毛糸を束ねて作った髪やボタンがくっ付けられただけの瞳からも、手作りの雰囲気を感じられた。
不器用ながらにこの人形を塗ったのは、ほかでもないドグだった。
ルーディは『鬼人の子』人形を手にしたまま、クラウンヘッドサーカスで過ごしてきた時間を、頭の中で巻き戻した。
テントに火をつけてしまったり、頭から葡萄ジュースを被ってしまったりと、トラブルだらけだったパフォーマンス。ドグと軽口を叩き合いながら、箱に入ったエンチラーダを食べたステージ裏。変わり者ぞろいではあったが、賑やかにルーディを迎え入れてくれた、サーカス団の面々。
自分の人生を問い続けてきたルーディだったが、今となっては全てが鮮やかな思い出であり、自分の居場所はいつもそこにあったのだと思えた。
しばらく人形と自分の両手を眺めていたルーディだったが、出口からランジェナの声が飛んでくると、我に返って顔を上げた。
「ほらルーディ、早く来な!何か食べてホテルに帰るよ!」
ルーディは「今行く!」と返すと、遅れて2人についていった。その足取りはいつになく軽快だ。
メレディス病院の外では、少しずつ寒さを覚えてきた10月の風が吹いていた。ランジェナは帽子を飛ばされてしまい、宙を舞ったシルクハットを、マチャティが何とかキャッチする。この辺りにしては、少し強く吹いているようである。
ガサガサと揺れる松の木や空を泳ぐ雲を見上げながら、ルーディは目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込んだ。
……なんだか、いい気分だ。風に吹かれて、どこかに飛んでいきたいってくらい、本当にいい気分だ。
めいっぱいの風をシャツに受けながら、ルーディは歩いていくのだった。
風よ、私を消してくれ リー・ヒロ @TanakaRakka
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